「約束してほしい」

 教会の敷地と大通りとを結ぶ唯一の門なき門の面前で、ヴィンケンスが言葉をかけた。中の状況がどうなっているか、さくらは、マクシミリアヌスは、ペトルスは、“シルバー・ハンマー”は――全てが何も分からなかったあの当時、その静かな一声は焦燥する真佳の頭に最初それほど入らなかった。
 暮れゆく夕日に視界を細め、首を巡らせ紅に染め上げられた鋼の冑を視程に入れた。冑の顔から感情の色は読み取れない。……最後の段にそれまでかけていた片足を、何とはなしに一段下ろした。
 もしも私が、と彼は言う。

「もしも私が彼に殺される立場になったなら、そのときは君に私の跡を継いでほしい」
「……継ぐって」

 一瞬朽ちかけた家の煤けた部屋に据え置かれた鍛冶の道具一式を想起したことは事実であるので認めよう。ヴィンケンスは冑の中で薄く篭った微笑を上げて、首をゆるゆると左右に振った。

「日和ったことを約束させるつもりはないよ。君は根無し草であろうから、根を張ることすらつらかろう」
 ……根無し草って「一体どーゆー解釈を……」

 地平に注ぐたった最後の残光が、一瞬間だけ光を増した。

「――私の言う継承というのはね、私の復讐を引き継いでほしいということだ」

 赤銅色が宵闇に。
 ……空は侵食され雲の色は塗り替えられる。耳のところで心臓の音が一つした。

「君に、“彼”を殺してほしい」


一拍



 ガツン! という音がする。漆黒の鋼と純正の銀とがかち合って、あり得ない音が空気の中を伝播する。執刀医が握るメスにも似た銀のナイフを幾度となく傷つけたはずであるのだが、その度に術者はどうやら銀の刃を再生しているらしかった。魔術で自らの手でもって作り上げる武器の弊害に今更ながら思い至って心の中だけで逆さのTを弾き出す。突っ込まれたナイフの先を逆手で所持したクナイの刃で受け止めた。
 ……目を細めて二、三歩後ろへ退いた。“シルバー・ハンマー”が肩を竦めてほんの半歩だけ身を引いた。

「……真佳」

 後ろでさくらが小さく聞いた。「大丈夫、何とかする」変にバックステップをとったおかげでさくらとヴィンケンスとの距離がほんの少しだけ狭まっていることに気がついていた。このまま後退するようでは多分二人を守れない。ヴィンケンスの傷口を押さえたまま、さくら一人で彼を移動させるのは見込み薄と思っていい。

「なあ、お嬢さん」

 と“シルバー・ハンマー”は口にした。銀で出来上がったメスの刃を両手に渡してこねくりながら、とても失望したような声色で。

「俺はね、アンタと勝負してみたいんだ。殺し合いをしてみたいんだ。全てが終わったのちに打ち殺してやりたいんだ。だからこうして眷属も持ってこないまま刃の相手をしてるんだぜ? そうやってこれからも防戦一方でやるっていうんなら」

 自分の首を真ん前から鷲掴みにされるのに似た急激な警告が胸に走った――。

「殺しちゃうよ? 君の友達も、君が幇助してきた奴も」

 目を細めた。男がにやりと小さく笑った。クナイを握った右手の甲を口のもとに持ってきて――薄く、低く吐息した。さくらの視線が背中に刺さる。ヴィンケンスの黄金色の双眸が照準を絶妙に狂わせる。
 ――マクシミリアヌスならどうするだろうと考えた。果たしてこのとき、マクシミリアヌスは殺人行為を許可するだろうか?――戦争経験者に答えを聞くだけ野暮ってものだ。
 息を吸って、
 鋭く吐いた。

「、」

 目を瞑って足を踏み出すだけで事足りた。地に落ちた靴裏で並列する煉瓦の波紋を蹴りだしざま上体を低く、低く、世界の枠に収まるほどに低く地を駆け大クナイの一つを落下。カランという高い音が月に突き抜け男の視軸に空虚な左が至った寸前、男の足が大事を取って後退したのを秋風真佳は見逃さなかった。両手を先導に地面に落下。ついた両手から左を軸に使い慣れた体躯を半回転。膝を狙った真佳の足が正確に男の膝を打ち、一瞬間不安定になった男のバランスを完膚なきまでに打ち崩す。真佳だって立ち上がるようないとまはなかった。膝で地面を打った結果としてガツンと膝骨を震わせられて、中途半端な座位のままに握りこんだ側のクナイを男の肩口目掛けて振り下ろ――“シルバー・ハンマー”が本能的に咄嗟に薙いだ銀のナイフに僅かに照準をずらされた。外に近い肩に当たった。「ぐあっ――」また左。手、腕、肩。どれも致命的な位置は外れているが流石にさっきと同じように無理くり両手を使える余地は無いはずだ。許していない。
 苦痛に歪んだ左の眼球に視軸を据えた。金茶の双眸がその意を察して薄く瞳孔を揺らがせた。
 突き刺したクナイはそのままに。左の手首を尺屈させて小さなクナイを取り出して――地面に膝が触れたとき、痛みに思わず口が歪んだ。膝を地面に打ち過ぎた。右のつま先を外の向きに押しやって、肩口に刺したクナイをたまらず一旦引き抜くことで崩れたバランスを持ち直したとき、上空を覆った影は既にそのときそこにいた。
 いつの間にか姿を変えた銀の鎚が――第四の月のように見えたとき、一瞬のうちに打ち殺された自分の遺体が脳裏を過ぎった。「…………」誰かが何かを言っている。多分それは脳裏の言葉。何であの人の顔を思い浮かべてしまったんだろう。ああ、そうか――
 銀。
 銀にも見える白髪の頭を引っ詰めた、小柄な体躯のその人は――。
 ……ぷぎゃっ、
 と何かが潰れたような声がした。「ぶ」と思ったときには顔面にそれが落ちてきた。銀の鎚みたいな硬い危険なものじゃあない。硬いことは硬いし冷たいことは冷たいけれど、攻撃的なものじゃあない。

「何……」

 軽い衝撃を受けたおでこを押さえながらそこから更に膝のところまで落下してきたそれに目を落とすと、小さなリスがそこにいた――鋼の色で出来上がった、毛の明暗さえも精巧に細工された小さなリスで、両の瞼を自身の鋼と同じぐらいに硬く硬く瞑っている。
 ――胴体にある魔術式が傷ついているのに気がついた。魔術で作ったリスではない。第一級魔力保持者の相棒、傍え、協力者――。
 第一級の魔術師が備える魔力の表象である眷属は、一度ぴくりと両手と頭を痙攣させてそれからパリンという音を立て、内側から破裂するように真佳の眼前で霧散した。散った欠片は光のそれで、鋼が真佳を傷つけることはついになかった――。
 眷属の死。
 あるいは魔力の負傷と言うか。その意味を真佳は既に聞かされていて知っている。
 頭上で首の骨を鳴らすような、コキッという音がした。

「……ああ、ヴィンケンス。ヴィンケンス・ドラーツィ殿。どうやら君は私の障害物に成り下がるのが好きらしい」

 視線を投げた。さくらの血で染まった手が見えた。その血を供給し続けているヴィンケンスのほうへ視軸の先を移行した。荒い息を吐きながら、その眼光は真佳を捕らえて。
 ……「殺せ」、と語った。
 真佳のほうへ彼が送った、それが初めての目交ぜであった。
 何でそんなことを――そんなまでして。ここ数年、いや正確に言うと恐らくこの四年の間、かつての匿名人が魔術を使ったことがないのに薄々感付いていた。彼の属性は鋼のはずだが彼の鍛冶場には既成品のハンマーや工具が沢山あったし、彼がここへ持ってきたのもその中の既成品の一つである。何故魔術を使わないか真佳は知らない。それは第一級魔力保持者が魔力でもって作り上げた、銀のハンマーによって恋人を奪われた青年の、ほんの微かな抵抗であったかもしれなかった。眷属だって同じに出したことはこの四年、ずっとなかったはずだった。第一級魔術師の所持する全てを捨て去っていたはずだった。
 ――それを、殺してほしいがために破ったって?
 恋人のために厭うたそれを、恋人の仇を殺してもらうためにもう一度拾い集めたって?――自分も死にそうでありながら?
 鋼のリスに一度防ぎ止められた絶望を、“シルバー・ハンマー”はもう一度天に向かって振り上げた。リスはいない。眷属はいない。眷属の死は第一級魔力保持者の所持する魔力を傷つけられたことを即ち意味し、ヴィンケンスの手元に暫くの間魔術という名のカードが戻らないことを意味していた。だからこのとき、“シルバー・ハンマー”の絶望を止め得る人間はもう一人もいないはずだった。
 ――一度だけだぞ、と真佳は言った。
 ヴィンケンスはまだ死んではいない。あの約束は未だ効力を持ち得ない。だから一度だけ。右に握ったままだった血の滴った大クナイを両手で握って

「――、?」

 華々しく大輪の花火を打ち上げるような演出過剰な劇作家性を、真佳は持ちあわせてはいなかった。
 だから誰よりも早かった。“シルバー・ハンマー”よりも何より早く、その刃を振り下ろして断ち切った。殺すのは舞台上の役者じゃない、黒衣の仕事だと銀髪のあの人が言っていたのを覚えてる。
 何かが落ちる鈍く重い音がして、それからハンマーが落ちるとても甲高い音がした。

「あ……?」

 ない右腕を振り上げたまま、“シルバー・ハンマー”は口の端を引き攣らせて

「……もうこれで、終わりにしよう」

 呟きながら放たれた真佳の手刀を頸動脈にモロに食らって、そのまま意識を手放した。遠い教会敷地内の高所にて、男の眷属が意識と共に消失したのを風で感じた。

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