多少意外ではあったのだ。いや、眷属と術者とを引き離したことではない。奴の眷属を初めて見るヴィンケンスとてあれは引き離すことが得策であろうと思っていた。だがそれをするのは赤目の彼女にけしかけられた自分であろうと思っていた。状況も何も見ないまま、いや、一瞬だけで把握した一人の少女がそれをやり遂げるとは微量も思っていなかった。
 命を張ってでも助けたいとその目で語った友人のサクラなる人物が、その彼女であることはこのとき既に疑ってもみなかった。


Scar/Lette



“シルバー・ハンマー”の背中目掛けて振り下ろされた斧は彼に背を向けていながらしかしするりとかわされた。ヴィンケンスだってそれで仕留められるとはよもや思ってはいなかろう。あれは一つの挨拶で、またさくらだけを視界に入れる“シルバー・ハンマー”への牽制だ。ヴィンケンスがやっていなければ真佳本人がやっていた。
 斧といっても槍として使える戦斧というものではなく、手斧の一種であるからだろうか。大ぶりになりがちな両刃の伐採斧を握る手はしっかりしていて、咄嗟の攻撃にも何とか対応し切れている。冑を被った頭は視野狭窄で動きにくかろうが、恐らく四年前から被っているのであろうだけあって死角のフォローにも長けている。銀の蔓という攻撃手段がなくなった今、特にヴィンケンスは動きやすくなるだろう。真佳もそれから彼、ひいてはさくらを守る必要はなくなった。あるいはヴィンケンスが眷属を発すればより余裕を持ってねじ伏せられるのだろうけれど、彼は折角の第一級魔力を使おうとしない。四年前から。
 四年前、という言葉が、どうしても前に立ちふさがる。
“シルバー・ハンマー”の放った銀の刃の突進が、ヴィンケンスの左側の腕を突いた。裂けたワイシャツから覗く細く長いしなやかな二の腕はそれに動じた様子もなく利き手で斧を振り下ろす。“シルバー・ハンマー”がたまらずバックステップで後ろへ避けた。ナイフはヴィンケンスの腕に残された。

「……行かないの」

 怪訝にさくらに言われたが、真佳としては「うーん」と曖昧な返事を返さざるを得ない。あれほど格好つけて行ってくると言っておきながら、でも行く前にヴィンケンスが先手を打ってしまったわけで。彼の四年間の憎悪を知っている身としては、我が物顔で加勢していくのは少々不躾な気がしてならない。

「復讐って言ったよね」

 さくらがまたぴくりと反応した、気配がした。さくらを後ろに庇った状態なのでそういえばさくらの反応を直に見ることは叶わない。

「婚約者を理由もなく、ただ運が悪かったからって理由だけで殺されたんだ。四年前に。ヴィンケンスは。ヴィンケンスが言うには、その現場にはヴィンケンス自身もちゃんといた」
「……いた?」
「そうだよ。少し離れたその隙に殺されてたんだ。戻ってきたときには死んだ彼女と、彼女に馬乗りになって何度もハンマーを振り下ろしている男だけが残っていた。何度も何度も、彼女の血で染めた顔に狂気と恍惚の色を綯い交ぜにした笑顔を湛えて振り下ろしていた。と、ヴィンケンスは言っていた」

 硬い唾を飲み下すような音がした。さくらだって大事な人を失っている。その事件の情報を求めて、こんな異郷の地にまで居残ることを決意した。ヴィンケンスの心情は、さくらにこそよりよく分かることなんだろう。真佳だって例にもれない。“シルバー・ハンマー”にさくらを標的にされたということは、さくら自身がそうなることを暗に指し示しているということなのだ――。狂気と恍惚の笑みを湛えてさくらの頭上に何度も鎚を振り下ろす。その様を脳裏に描くたんびに視界の端が真っ赤に染まる。目の前で狂ったように微笑みながら殺させてくれてありがとうと宣ったあの殺人狂を今すぐぶちのめしてしまいたくなる。
 で、あるからこそヴィンケンスの戦いに足を踏み入れるのは、躊躇われるのだ。彼が確実に“シルバー・ハンマー”を手に掛けることを頭で理解していても。

「……四年間、“シルバー・ハンマー”は一体何をしていたの」

 さすがさくらだと真佳は思った。四年前の事件と今回の事件を結びつけることが躊躇われた理由の一つを、この数瞬で見事に疑問として言い当ててしまった。

「川に落とされて、海に流されて、そのまま運良く異国の船に内密の体で乗り上げて、一番目の殺人を犯した記念の町に戻れないままずっとあっちで暮らしてた」
「……暮らしてたの?」
「ヴィンケンス曰くそうらしいけど多分本当にそうだと思う。さっき“シルバー・ハンマー”が、ヴィンケンスにこの四年間を無駄にされたって口走ってた」
「……どういうこと」

 疑問符を含まないさくらの問いかけが心地よかった。久しぶりに地に足がついたような安心感を強く覚える。多分、名探偵に話を聞いてもらう助手というのはこういう感じ。

「四年前の事件は今回の一連の事件と違って、死体が川に放り投げられていたのが結構問題視されていたんだけれど……このこととそれは、実は深く関連するんだ。川に落とされていたのは“シルバー・ハンマー”が遺体を隠すためのことじゃあなかった。ヴィンケンスの存在というか怒気、あるいは咆哮に驚いて“シルバー・ハンマー”が誤って遺体を動かしてしまって、それで川に落ちてしまったのが真相。それが丁度川が急下降しているところだったのは四年前や今回の捜査陣にとっては運がなかった、と言えるかもしれない。おかげで家の二階とかから、確実に故意に落とされたものだって考えられて今の今まで揺るがなかった。チンクウェッティはそれに、どうやら私と同じタイミングで気付いたろうと思うけど」

 沈黙で先を促されている様子がした。刺さったままの銀の刃から流れ続けるヴィンケンスの血液をただ黙って見据えながら、真佳は小さく口を開いた。

「……遺体が川に落ちた後、ヴィンケンスと“シルバー・ハンマー”のもみ合いが生じたらしかった。もみ合いっていうほどのものでもなかったかも。“シルバー・ハンマー”にとってはほとんど不意打ちだったからね。遺体を落としてしまって動揺していたとゆーのもあったと思う。ヴィンケンスが“シルバー・ハンマー”に突っ込んで行って、何度か抵抗はしたようだったけど状況についていけないまま“シルバー・ハンマー”も川にドボン。死んだものと思われたけれど、ヴィンケンスはそれを誰にも口にはしなかった。絶対死んでないと確信していた。そのときから多分、私刑を下すことは考えていたんだと思う……かつて第一級魔力保持者として教会に勤めていたヴィンケンスは、それからしばらくして教会から姿を消したらしい。多分あの冑は教会の目をそむけるための――」

 強く肉の切れる音がした。ヴィンケンスの首筋、片方の頸動脈の辺りに銀のナイフが刺さっていた。血しぶきが噴水のように持ち上がって大量の血が煉瓦を汚す。“シルバー・ハンマー”の口元に薄い三日月が現れた。

「へえ、君はそのことは彼から聞いてはいなかったのか」

 それが自分に向けられた言葉であるということに、一瞬全く気付けなかった。ヴィンケンスの首から溢れだす多量の血にこそ目と意識を奪われていた。本来なら首元までをも覆っているはずの冑の防護から逃れるように、下から差し込まれたナイフをそこで薙がれたのだ。ヴィンケンスだって恐らく予測はしていなかった。首から上は冑に守られているのだと考えていたはずだから。
 ナイフをヴィンケンスの首に残したまま、“シルバー・ハンマー”はヴィンケンスの頭を守る冑をぞんざいな挙動でもって鷲掴む。

「第一級魔力保持者に実質上辞表などないから逃げ出したことは正しかろう。けれどお嬢さん、教会の目をそむけるためだなんてそんな馬鹿な。そんなはずではなかったはずだよ。何せ僕が言うのだからね――。顔を隠さなければならないことは確実だった。しかし理由はそれではない。この男が顔を隠した、真の理由は」

 頭から冑が抜き取られ、支えを失った男の体が小さからぬ音をたてて地面に体を横たえた。初めて見る男の素顔に呼吸が一瞬止まると思った。左の唇の先から右目の側の目頭にかけて、小さからぬ傷跡が真一文字に伸びている。それは醜い傷跡だった。一目見ただけで目をそむけてしまいそうな――冑の下で繰り広げられる男の口調が、引き攣れたような印象を残したことを唐突なまでに思い出す。

「ご覧あれ! これこそ俺がつけた傷、川底へ落ちる最後の抵抗、記念すべき第一の死体、女の肢体を海なんぞへ落としてしまった男に対する最初の一撃、復讐だ!」

 傷の中でヴィンケンスが小さく呻いた。前髪の長い茶髪の下、首筋に手を押し当てたまま苦しげに細められたその双眸が今も視力を正常に保てているとは思えない。彼の視界は恐らくかなり霞んでいる。頸動脈は人体の太めの血管だ。手当てが遅れれば出血多量で、
 ……先を考えないまま後ろ腰にある大ぶりのクナイに右手を添えた。
「約束してほしい」とヴィンケンスはあの時言った――考えるな――「もしも私が彼に殺される立場になったなら、そのときは君に」――クナイの柄を握りこむ。

「さあ、一人目だ」

“シルバー・ハンマー”がヴィンケンスの肢体を跨ぎながらこちらに一歩近付いた。靴底が一度ヴィンケンスの手首を踏んで、掠れた呻き声が耳を打つ。

「どうする? 大人しく女神を引き渡すかね、お嬢さん。いや、待てよ。折角私の眷属をくぐり抜けてきた希少この上ないお嬢さんだ。敬意を表してやっぱり先に殺してあげよう。その時に女神が一体どういうかんばせを見せるのか、私はとても興味がある」

 靴音。煉瓦道を踏む硬い音。砂利を擦る僅かな物音。青灰色のノイズの中、青白い月の光に照らされた病的なまでに白い体躯が浮かび上がるように夜闇に映える。威圧的にすら思う男の確固たる跫音に、ともすればさくら諸共後退しそうになる足を何とか踏ん張り辛うじてそこに根を生やした。男の三日月が近付いて、赤黒い舌がちろりと覗く。獲物の柄をお守りのように手中にいだく。
 さくらの手指が後ろの側から二の腕に触れて、男が一歩幅を縮める――それが合図。
 距離にして実に六十五センチ。大人二人から三人分の距離に身を低くして飛び込んで、同時に抜き放ったクナイの切っ先を閃かす。「っ――!?」不意打ちで左の甲を浅く刻んだ。男が半歩後退したのを先駆けにもう一方の大クナイを掴み取り、片側のクナイで牽制しながら左のクナイを振りかぶる――流石に首には食い込まなかった。左の腕でもって防がれた。攻撃の主となる右腕をこの場になっても庇いきったのは流石に賞賛に値する。

「真佳!」

 と呼ばれて円を描くように“シルバー・ハンマー”から後退した。「――ああ、成る程――」男の口元が三日月とは別の奇妙な形で薄く歪んだ。“シルバー・ハンマー”を視界の正中に打ち据えたまま声を張る。

「ヴィンケンスはっ」
「まだ生きてる。傷口を圧迫してるけど応急処置に過ぎない。長引いたときの危険度は変わらない」

 額を伝う汗を手の甲でもって拭い取る。さっきの一撃で再起不能に追い込むまでになる確率は正直捨てていたとはいえ、あれで終わってくれていればと思うと自分が歯痒い。もっと致命傷をつけておくべきだった。少なくとも足をやっていれば多少の動きは抑えられていたはずなのに、攻撃力を削ぐことをこそ最優先に動いてしまった。
 篭った笑声がそこで立つ。

「面白いな、君たちは。“シルバー・ハンマー”なんて洒落た名前をこのわたくしにつけておきながら、更なる希望をこの僕に、俺に遺すというのか? 殺してしまうには忍びない。が、それ以上に君たちを殺した証が是非とも欲しい!!……もしも二人ずつ君らがいてくれればと考えるよ。ああ、しかしそれでも、その二人ともを、即ち合計して四人の君らを、僕は殺してしまうのだろうね……」

 自らの薄い上唇の上を這う男自身の舌先に脊髄の辺りがぴりりと痺れた。危うく動きそうになってしまった自分を心の中で叱咤する。さくらのほうから意識をそらすことはあまり考えないほうがいい。元より“シルバー・ハンマー”の狙いは姫風さくらただ一人。つまり真佳はこの直線を、さくらと“シルバー・ハンマー”とを結ぶ直線上に仁王立つという権限を誰にも明け渡すわけにはいかない。

「果たしてキミに」

 と真佳は言った。
 口角をわずかにつり上げたが、それは硬い微笑に見えたかもしれなかった。構うわけにはいかない。真佳は二人を守りぬかなければならない。

「――この私が殺せるかな?」

“君は彼女のために、果たして自ら死の淵にその身を投じることが出来るだろうか”――ヴィンケンスにかつて言われたことを想起した。

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