息を吸い込むとひどい死臭に視界の先がくらくらした。足の底で血が跳ねる。靴が濡れてズボンが血の飛沫に汚される。よくもこれだけの被害を出せたものだなと掠れた意識の中で考えた。全力疾走してきた体は絶えず空気を求めたが、すっかり血のにおいが染み込んだ喉のほうはこの腐ったにおいに耐えかねてすっかり縮こまっているようだった。うまく息が出来ない。四隅が暗い。
 それでも右手は目的のものを掴めたし、真佳を見失いはしなかった。掴んだ襟首の先で真佳が驚愕に振り返る。血よりも透明度の強い濃い赤に何だかひどくほっとした。

「……さくら?」
「状況は分かった」

 乾いた喉に無理やり唾を押し込める。

「逃げるわよ」

 耳元で低く囁いて、
「えっ、ちょ――」真佳の手を引き血の池地獄を駆け出した。


レッド・カーペット



「お、おい待てサクラ、ペトルスはどうした、ええい、動きまわってどうするというのだ、何のためにここで俺が足止めをしていたと――!!」

 声の限りに叫んだはずだが二人の足が止まる様子は微塵もない。チンクウェッティは何をしている、マナカのほうはまだ仕方がないにしてもサクラだけはどうしたって止めなければならないはずだ。まさかまだ囮捜査などとふざけたことを貫いて、このままこの殺人鬼を外へ追い出すつもりなのではなかろうな。サクラの身が危険すぎる! 思考の暇もなくそんな捜査は却下の一途だ。
“シルバー・ハンマー”の視線がサクラの背中に落とされたとき、この場に留まらせるべきだという思考に一瞬間だけ支配された。マクシミリアヌスとこのヴィンケンスと呼ばれた得体の知れない冑男二人だけで“シルバー・ハンマー”を引き受けられないものかどうか。“シルバー・ハンマー”と彼女たちとを引き離せれば少なくとも彼女たちの安寧を確保はできる。

「マクシミリアヌス!」

 殺人鬼が大地を強く蹴ったとき、マナカの深みを帯びた淡い声音が鼓膜の表面を小さく打った。
 空いた左手で人差し指と中指と親指とを突き立てて力強く天の月を指し示している。たおやかになびく黒髪の向こうで唇が弧を描いているのに気がついた。
 ……息を吐く。視界の端で髭が震えた。“シルバー・ハンマー”は星を蹴り冑を被った異様な男は迷いなくその男の後を追っていく。あの男がどれだけ信用できる人間かは知らないが、どうやらマナカの知り合いではあるらしい。守護を期待は出来なさそうだがマナカが任せろと言うのならそれを信頼しない道理はない。元々マクシミリアヌスとマナカ・アキカゼ、二手に分かれて眷属と術者双方の戦力を削ぐという意は二人同一であったのだ。
 ピン、と細い紙巻たばこの吸い殻が弾かれてマクシミリアヌスの足元に落ち下った。

「自重しない護衛対象というのはやりにくかろう」

 ほんの一瞬目を伏せた。

「……長く付き合っておれば慣れるものです。もう随分彼女らのやり方にも慣れてきた」
「若いねぇ」

 と言ってチンクウェッティ大佐殿は新しくつけた煙草をひっかけながら唇の端で一瞬にやりと笑ったが、マクシミリアヌスと大佐殿の歳の差はせいぜい二、三離れてるかいないかぐらいのはずである。

「……随分同士が死にました」
「ああ」青い煙が天に導かれて宙を舞う。誰より先に、太陽の火に導かれる。

 ……息を吐いた。

「誰一人死なぬよう、指示を。チンクウェッティ大佐殿」

 大佐が再びにぃと笑った。「未だ任せていただけるとは、こいつは失敗出来ねぇなあ?」――

■ □ ■


“シルバー・ハンマー”がヴィンケンスよりもさくらを優先させるというのが、実は少し意外であった。殺人の味を締めた初っ端から実に四年の空白を男に課した張本人、甲冑で顔を執拗に隠すヴィンケンスをこそまず真っ先に狙うと思った。それほどまでに名付け親という神を殺害したいのか、それとも殺し損ねた唯一を生かし続けることが我慢できない性分なのか。

 大通りをすぐに折れて枝道を縫うように走るさくらの背中を見据え、マクシミリアヌスが発したことで真佳のほうも気になっていたことを問いかけた。

「――ペトルスはどうしたの?」

 まさか言いくるめてしまったなどということはあるまいが。さくらが舌戦で負ける姿はあまり想像出来ないとはいえ、ペトルスの持つ護衛の矜持とやるべきことの実行力はそういう理屈を軽々と空へとうっちゃれる。
 走りながらさくらが一瞬ちらりとこっちを向いた。普段は大人しく頬の輪郭に沿っている焦げ茶色のオールマイティボブが風に流され活動的になってはいても姫風さくらの美は損なわれない。銀の双眸はナイフのように鋭利に危険に、また銀細工のように美麗な印象を伴って背徳的に胸を打つ。

「……置いてきた」

 一瞬脳が捉えた音をそのまま脳内で視覚化してから聞き返してしまった。

「……振り切ったの?」
「大分これでも迷ったんだけど」

 質問と答えが噛み合っていない。さくらにしては珍しいことだ。とりあえず後ろからペトルスの後頭部を打ち付けて逃げてきたんじゃなかった。それをそのまま伝えると「アンタは私を何だと」と不満そうに返された。必要とあらばそういう攻撃的な動きも出来るスゴイ女だと思っているよ。こっちは声にはしなかった。

「ってゆーか、何で来ようと思ったの?」
「何となく。最初に何人かの治安部の人間が殺されてるのを見てたから、あの能力が気になった」
「……」

 見てたのか。ではあの死体も?……どちらにせよ教会の敷地内から脱するときに嫌でも目に入れてることに、一拍遅れてから気がついた。何とも思っていないはずはないけれど、思ったほどではないことにほんの少しだけほっとした。あれが全部さくらの件に巻き込まれて死んだんだということだけは、さくらには思っていてほしくはなかった。
 握られた手を改めて握り直された。

「……眷属の蔓で心臓を正確に一突き……あれで凶行を繰り広げていたならば、今までよりも短時間で犯行を完了出来たはず。何であれを使わなかったのか……ということは、きっと考えるだけ無駄なんでしょうね」

 そうだよ、と短く思う。
“シルバー・ハンマー”にそんなような思考はない。効率的に人を殺す方法なんて彼は考えてなんかいないのだ。ただ単純に、ハンマーで打ちのめすのが好きなだけ――これも全部、ヴィンケンスが進めていくマスに書いてあった事柄だけど。
 さくらがもう一度だけ真佳のほうを振り向いた。

「アンタに銀の鎚の販売人を教えたのは、あのヴィンケンスっていう奴なのね?」
「……そうだよ」
「“シルバー・ハンマー”を拘束する捜査をアンタが始めたとき、真っ先に頼ったのもあの男」
「……そうだよ」
「アンタが前に言っていた、マリオ・ロッシという名の匿名人はあの人ね?」
「……ご明察」

 正確にはヴィンケンスからは話していいという何の許可も未だ得てはいないのだけど、こうなってしまえばしようがない。はぐらかしたところでさくらが抱いた解答への確信は、少しも揺らぎはしないだろう。

「あの男の目的は?」
「“シルバー・ハンマー”への復讐」

 ――一瞬ぴくりと触れ合ったほうのさくらの指が震えた気がした。

「抹殺……殺害?」
「多分、恐らく。教会に引き渡すことは考えていない」

 真佳だってそれを手助けしたも同然だ。彼が刑の執行を行えるよう“シルバー・ハンマー”の意思を聞き、私刑までのお膳立てを整えてクイーンをキングの眼前に打ち据えた。多分もともとそういう契約だったのだ。初めて出会ったそのときから。冑男はさくらとペトルスを救出し、真佳は冑男の意思に沿う。
 さくらの吐息が鋭く鳴った――と同時に、延々と続くかと思われた路地の両壁が破滅した。

「――まあいいわ。途中まではこっちもその気。行動不能にするときまではね」

 ――見覚えのある場所だと直感した。未だ記憶に真新しい。一番最初に“シルバー・ハンマー”の被害者と遭遇した場所。アートゥラの眷属である白猪を追いかけた果てに迷い込んだ、入り組んだスッドマーレの枝道迷路に浮かぶ一つの空間。
 円を描くように据えられた煉瓦地面の真ん中で、従うように歩を止めた。

「眷属を追い払ったら、出来るんでしょう?」

 見透かすようにさくらが言った。それはマクシミリアヌスと共有していた一つの計画。互いを信頼し合うことで取り決めた、一つの約束。
 ――唇を、小さくしめした。

「――十分だ。ありがとう……行ってくる」

 TOP 

inserted by FC2 system