アートゥラが拾ってさくらが受け取り、マクシミリアヌスが預かったイヤリングを今でもよく覚えている。銀色の、蜘蛛の糸みたいな、持ち主であったはずの人とこの世界との繋がりを現してでもいるかのような細く希薄な棒とも言える板が一つ飾りとしてついている。初めて見たとき、何故かその飾りは真佳の目には見えない気がした。単に光の影響であったかもしれない。でも冑を被って顔を隠す男の話を聞いたとき、それが“彼女”だからなのだと不思議とすとんと納得できた。

「……鋼で出来た耳飾りか」

 隣でマクシミリアヌスが小さく呻いた。笑みを浮かべた男の視線がそっちを向いた。

「捜査班に渡しはしたが結局耳飾り何の手がかりも得られなかった。本来ならばこの時間帯には君たちにその旨、報告できたはずだったものだ」

 銀、
 じゃ
 ない――。
 クナイの持ち手を握りしめすぎて爪が一層手のひらの肉に食い込んだ。銀かもしれないと言っていたっけ。銀じゃなかったよ。――銀じゃなかったよ。熱い吐息を絞り出す。
 男はにんまりほくそ笑んだまま、答えを言おうとはしなかった。ただ一言、「そうか、そういうめぐり合わせか」と唇の先で囁きかけただけだった。空白。外縁のほうで幾多の隊員が目配せを交わした兆しがした。やがて男が口をあく。嘲笑の色を色濃くし。

「くく、いや、面白い。まさか彼の息がかかった人間が、君たちの中にいるなどとは思わなかったよ! これも女神の御心かな? いよいよもって面白い! いや、落胆はまだしたくない。先に質問しておこう。君は誰からそれを聞いた? まさか僕を悪戯に喜ばせただけという話にはなるまい?」
「――」

 両目を細めた。

「――質問しているのは、私だ」

 空白。
 ……きょとんとした顔をして、“シルバー・ハンマー”は初めてまともにこっちを見た。今まで視軸はこっちにあってもテレビのブラウン管越しに見られていたような印象がずっと残っていたのだ。今それは、ノイズ質の闇が広がる中で綺麗さっぱり取り払われた。
 チェシャーの猫、という言葉を思う。男はそれほど愉快げに口の両端をつり上げて、三日月のように笑っていた。またノイズ――舞台上の人間が本人ではない役の目で客席を見回すのと同じズレ。ひずみ。

「――よかろう。ここでは君が裁判官であり検事であり弁護人だ。ただし死刑執行人は君ではないがね――さて、何の質問だったかな検事殿。耳飾りの所持について、だったかね?」
「……四年も持っていた理由、……だ。自分では使わない他人のものを、それも片方だけをどうして、」
「ああ、はいはい覚えているよ。勿論。他ならぬ弁護人の質問だったものな。誰の弁護人かは言わずもがなだが、さて……。答える前にこれだけ教えてはもらえないかね。君はどこまで知っている?」
「――全て」
「よろしい、ならば問題ない――聖遺物、だよ」
「――」

 足のところから腹を、胃を悪魔の這い上がってきた感覚に吐き気がした。圧迫された喉のところから漏れた呼気が喉を突いて貫いた。

「蒙昧な中佐殿にも分かるように言い直そうか? あれは僕の宝物、戦利品、証拠品、記念物、最初に罪を犯した証――」

 目の奥底が熱くなる。
 冑に隠れた男のことを想起した。
 そこから漏れる掠れた声を、擦り切れそうな激しい烈情に乱れた声を想起した。

「私が、この“シルバー・ハンマーが”」

 吐き気がする――。

「初めて人の一生を終わらせた、人の命を左右した、初めて出来た躯の恋人の形見の品だ」

 にっこり笑った男の唇の三日月を、割ってやりたいと心底考えたことに罪悪感は抱かない。


QUEEN



「話は四年前に遡る。今から四年前、一人の人が殺された。女の人だった。ほぼ全身に打たれたような跡は見つかったけど、特にひどかったのは胸から上。丁度押し倒されて馬乗りに伸し掛かられて、その状態で繰り返し殴打されたようだった。出血している部分もあったし、内出血していたところもあった。頬骨は骨折させられていた」

 マクシミリアヌスが隣のほうで生唾を呑み込んだ音がした。冑越しに聞こえるハスキーボイスを思い出しながら真佳は滔々と話を進める。

「その死体は川の下流から発見されて、引き上げられた後ほとんどすぐに身元が割れた。彼女の知り合いがその当時、この教会にいたからだ……。顔が随分潰れていて、それでも彼女に違いないと断言して涙を流した。その時、左右に一つずつ下がってたはずのイヤリングが片方無いことを教会の人に知らせられた。川底からはついに発見されなかった……。海に流されたのだろうという結論を、教会側は最後に下した」

 ――男の三日月は歪まなかった。これを望んでいたんだろうということを何とはなしに理解した。四年前と今回の事件を共に結びつけてほしかった。糾弾してほしくて、ではない。このコレクションは自分のなのだと唾をつけておくために。
 話をするのは癪だった。
 それでも真佳は口にした。

「――四年前の事件こそ、“シルバー・ハンマー”、キミの最初の犯罪だ」
「っふ、ははははは!」

 じりっ、と外縁が緩んだのを感じ取ったときにはマクシミリアヌスの眼光が飛んでいた。“近寄るな”。

「いいね、いいねぇ! まるで物語の山場だね。知っているかい、崖のところで探偵役に追い詰められた犯人は、その動機が何であれ結局は罪を認めて自白をするんだ。あなたがそうやって間違った道を選んで不幸になることを誰も望まない、今ならまだ間に合う、戻ってくるんだ。涙を流して泣き崩れて、本当に心の底から自分のしたことを後悔する。ハツカネズミがやってきた、物語はこれでおしまい。僕も改心すべきかな? 彼ら彼女らを殺したこと、打って打って打ちまくって殺したこと、傷だらけにして痣だらけにして血まみれにして殺したこと、真に後悔すべきだろうか? よし、後悔しよう。後悔し続けよう。いやいや、待てよ? 後になって失敗だったと悔やみ続けるそのためには、僕は過ちを繰り返さなければならないのではあるまいか? 成る程、後悔とは難しい。しかし僕が決めたこと。ならば僕は後悔し続けよう。殺し続けることによって、後になってから失敗だったと永遠に悔やみ続けよう! ははは、どうだい、刑事さん、僕はいい模範囚だろうか? 檻の中には入らんがね!」

 うるさい。
 ……という呟きは確かに口から出たはずだけども、幸いなことに男の耳には届かなかったようだった。一刀両断している暇も、一蹴している暇もない。これは約束。

「……レナータ・アッデージとヴィンケンス・ドラーツィ、この名前に聞き覚えは。
 何か二人に言うことは」
「殺させてくれてありがとう」

 クナイを強く握り締めた。爪が食い込んだ肉の部分から血が一滴流れ落ちたかもしれなかった。
「さて?」と“シルバー・ハンマー”はにやけたままに小首を傾げて

「判決は?」
「私刑だ」

 流れるようなハスキーボイスが明確に音を紡ぎ立て、輝く斧を振り下ろした――扇型に開いた刃が男の皮膚をかき切って空を断つ。ざんっ、という重く鋭い音がして、体を危うくひねった格好で背後からの攻撃を避けた“シルバー・ハンマー”がたたらを踏んだ。
 ――唇をしめす。“シルバー・ハンマー”の後方、林の中を彼が移動する音が気にならなかったのは幸いだった。いつ気付かれて今回の話が水泡に帰し、銀の植物によって男の積年の烈情も無に帰したらと考えると気が気でなかった。男という曖昧な言い方は今は適切ではないか。真佳は既に彼の名前を知っている。ヴィンケンス・ドラーツィ――四年前に“シルバー・ハンマー”に殺されたレナータ・アッデージの婚約者。“シルバー・ハンマー”の口から発せられた供述を全て彼が聞いていたのだと考えると本当に気が狂いそうになる。
 たたらを踏んだところを一閃、更に踏み込んでヴィンケンスは斧を真横に薙ぎ切った。「っ」この態勢で身をひねってを持ち直すことは難しい。間一髪で斧の攻撃は避けきるが、銀の属性を持った青年はそのまま立て直すことは叶わなかった。男の尻が叩きつけられるじゃりっという音。冑の表面を三つの月光に晒させて、斧を提げたヴィンケンスはそのまま男の頭蓋に鋼の刃を叩きつけようと、

「っ、フィアンマ・レオーネ!」

 マクシミリアヌスの野太い声が割るように地を這って彼の眷属が大地を蹴った。私刑の妨害を――しようとしたのではない、炎の獅子が向かった先は銀の蔓を伸ばした銀の花。いつの間にそれがヴィンケンス目掛けて伸ばされていたのか真佳自身も気付かなかった。相当頭がやられている。自分の脳の役立たなさに苛立ちを覚えたとき、はっと気付いた事象があった。

「ヴィンケンス!!」

 蔓に意識を持って行かれたのだ。つと振り返ったヴィンケンスの前方では、まるで態勢を立て直すついでとでもいうように男が銀のナイフを構えていた。構えていたどころじゃない。そのままヴィンケンスの腹目掛けて突進。冑を被ったままでは視界が悪い――こちらもたたらを踏むような形で危うく右に避けきった。マクシミリアヌスの眷属に阻まれて花のほうはそれ以上の追撃をし得なかったが、あの眷属、静的でありながら攻撃範囲が広く一度に複数の相手が可能だけに厄介すぎる。「ぬっ……」最初は炎をまとったフィアンマ・レオーネに押されていたが、今では蔓の何本かを犠牲にしつつ今にも獅子の首や四肢を押さえんばかり。もう一つこちらに不利な点があったことにそこで気付いた。蔓そのものがやられたところで然程ダメージは与えられない。すぐ再生されてしまう。

「くふっ」

 と篭ったような笑いを上げたのは、ヴィンケンスでなく“シルバー・ハンマー”のほうだった。喉にひっかかるようなひっかき笑いで夜の空気をスタッカートに踏みながら、“シルバー・ハンマー”は片手で片目を覆いつつ恍惚に愉悦げに天の月を振り仰ぐ。

「ヴィンケンス、そうか、やっぱりか……」

 もう一度そこで「くふっ」と笑って、

「長かったな、ヴィンケンス。君にとっても私にとっても……恋人の敵の俺を殺したかったんだろう? 俺もこの四年間の借りはきっちり返しておきたかった。この四年で、一体何人の人を殺せたと思う? それをお前は無駄にしたんだからな……」

 ヴィンケンスが斧を持つ手に力を込めた、気がした。
 林の縁を何とか見渡す。“シルバー・ハンマー”をここに置いておくわけにはいかない。この眷属と何とかして切断しないと、三人でかかったとしても完全勝利の見込みは薄い。一人も欠けることのない未来を望むのであればあの植物はどう考えても厄介だ。
 属性から考えると眷属はマクシミリアヌスに任せておくのが適当だろうが、果たしてあの男は……冑に覆われたヴィンケンスは、一時退却を快しとするであろうか?……

「マナカ」

 とマクシミリアヌスに名を呼ばれたときは、意外であったことも含めてぴょこんと心臓が飛び跳ねた。フィアンマ・レオーネはそれより先で首を締められかけているが、何とか応戦して踏みとどまっているため少しの猶予はあるのだろう。しかし考えずにはいられない。フィアンマ・レオーネの魔術式は、一体どこに刻みつけられてあったっけ、と。

「マナカ、治安部隊の連中、もう暫しで動くぞ」

 驚いて目を瞠ってからマクシミリアヌスの顔を見返した。森林を思わせる緑の双眸は厳しく眷属を見つめたままそこからそらされることはない。花崗岩のような横顔が強く心の奥底に浸透した。

「あの連中、恐らく今はチンクウェッティ大佐が預かっているが上からの圧力もあるだろう。息子を殺された司教が怒り狂っておるのだ。何をしている、早く“シルバー・ハンマー”を捕まえろと、さっきもひどくせっついていた。教会の人間とは関係ない者が二人もここにいるのに教会の人間はどうなっているのかと、騒ぎ立てても不思議じゃない。大佐が抑えていられるのにも限りがある」
「……」

 ここに今、関係のない人間がどっと押し寄せてきたらと考えると……さっき通ったときに見たような、血と死体の海が更に色濃く形造られるのはもはや必定であると真佳は思った。あれを見たときさくらがどう考えるかと考えると――

「せめて“シルバー・ハンマー”とあの眷属とを切り離したい」

 ……同じことを言われたことに格別驚きはしなかった。

「……“シルバー・ハンマー”をよそへおびき出したとき、あの人は眷属を一度引っ込めてそこで新たに呼び出すだろうか」
「しないだろうという保証は出来んが、しかしやらんだろうと信じるに足る根拠はある」

 ……ふっ、と笑った。
 マクシミリアヌスもそう思うのなら、それは恐らく百パーセントの確信と然程大差はない。

「了解、では――」

 呟いた途端に何者かに首根っこを掴まれた。

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