立待月と二つの繊月に晒されるさくらの白い柔肌は、宵闇の林に映えて映った。頬の辺りが赤く紅潮している。教会の敷地をぐるりと半周したからだろう。ペトルスの頬がそれほど赤く燃えていないのは、走り慣れているからだろうか。

「真佳」

 とさくらは言った。何か言いたそうな、まだすっきりしない顔をしていたが、多分それを晴らすために最も必要なのは言葉でなく、全員で無事生きて帰ること以外にはないだろうと思われた。
 強くさくらの手を握りしめるペトルスを見て真佳は微かに微笑した。

「信用してくれてありがとう」

 それだけ言うともう振り返りもしなかった。


『サングエ』



 ――濃ゆい血のにおいがした。
 思わず肘のところで折った袖で無理やりながら鼻孔を遮る。血のにおい、濃い血の――ここに来て一体何度目だろう、こうして血のにおいを肺のところに送るのは。聴覚を刺激するのは真佳の脳には意味を成さないスカッリア語、怒号と唾を飛ばしながら教会のスッドマーレ支部建物を指さした。多分応援を呼んでいる。ここは教会敷地内、スッドマーレ支部治安部隊の本拠である。応援は比較的呼びやすいし、力だってそれなりにある。
 ――視界の隅で蹲って嘔吐している隊員がいるのを真佳は見た。既に意気消沈して地面に膝を折っている隊員も幾つかいた。この場でしゃんと立っているのは肩章の豪華な者がほとんどで、下のものは完全に足が震えている。及び腰。
 応援は比較的呼びやすい、と確かにさっき真佳は述べた。けれどもだからこそ、それ故にこの吐き気がするほどの血のにおいがある――嗅覚に絡みついて離れない血、味方の血、隊員の血、ついさっきまで肩を並べて冗談言って笑い合っていた者の濃い、濃厚な血の……味。

「おいおいおい」

 強く肩を掴まれた。脳のところがぐらぐらするのを何とかそれが押しとどめてくれたことに、掴まれてから気がついた。鋭く放たれたスカッリア語が建物のほうから飛んでくる。拳銃か何かの飛び道具を手にしていた。
 振り返ってようやくそれがチンクウェッティであることに気がついた。

「何でアンタが出てくるかね。あとは俺らの仕事だぜ、こうして例の殺人鬼がのこのこ出てきたんだから、アンタらは女神を連れて逃げるなり何なりするがいい……おい、大丈夫か、顔色が真っ青だ」

 ……よく言う、と真佳は思った。
 あれほど――っ。

「ッ――よくそんな口が聞けるな!」――チンクウェッティの襟元をほとんど鷲掴むように掴んでいた。「あれほどマクシミリアヌスとペトルスが反対した囮捜査をこうして、不意打ちで、決行して、そのくせこれだけの」

 ――むせ返る血の匂いに吐き気がする。
 息をするだけで体の中に死のにおいが充満する。
 誰かが祈りを零すようにスカッリア語で呟いた。

「これだけの、被害を、出しておいて……っ」

 宿舎の向こう側、真佳からは見えない位置から放射状に大勢の人が倒れているのが目に見えた。ここからでもよく分かる。死因は明らかに心臓を的確に突いた心臓破壊。銀の蔓が鋭く伸びた。銃を持って駆けつけた隊員の何人かが体の中枢を貫かれて新たな死体の山を作った。それなのに未だ“シルバー・ハンマー”は捕まらない。そのために囮捜査を行っといて。さくらを危険に晒しておいて。……マクシミリアヌスはどこ? 沸き上がる血のにおいに嫌な予感が体全体を駆け抜けた。

「マクシミリアヌス……っ」

 助けに行かないと。何ですぐに気が付かなかったんだ、この中にマクシミリアヌスがいたとして……いや、いるわけがない、きっとまだ交戦してる……ならば助けに行かないと。
 もう一度強く肩を引かれた。

「おい、待て、しっかりしろ、正気を保て」

 肩のところに視線をやった。今、この瞬間にもマクシミリアヌスが死に絶えようとしているのだと考えるとこのごつごつした手を切り落としたい気になった。ぐずぐずしてはいられない。さくらの性格を知りながらああして囮捜査を持ちかけといて、この上……。

「いいか、もう囮捜査は終わったんだ、その通り、こうして決行したんだからな。だからもう、アンタらはこの件から手を引いていいんだよ、ここから先に行くこともない。新たな護衛をつけるからアンタらはこのまま」

 途中で掴む手を振り払って地を蹴った。後ろでまだ何か言い募っていたが構わず駆けた。死体で覆われた地面を縫う。血のにおいが嗅覚や肺だけでなく四肢にまで絡みついて来ていることに気が付いた。宿舎の角を曲がり込む。飛んできた銀の鞭を瞬間、クナイの切っ先で払い落とした。横手で誰かが息の絶える音がした。
 ……マクシミリアヌスは?
 息を切らしても一度思う。金属と金属がぶつかり合うような音がした。

「まっ――」

 マクシミリアヌス、と言おうと思って留まった。マクシミリアヌスの懇親の大剣を脆弱な銀で出来たナイフで受けた青年は軽くバックステップをとったけれど、その寸瞬にマクシミリアヌスの腕目掛けて銀の刃を突き刺した。寸でのところでマクシミリアヌスも一歩飛び退きナイフをかわす。
 ――今声を発していたら、この未来はなかったかもしれなかった。肝を冷やした。多分こっちに気を取られて、いらない隙を作らせていた。「アルジェント・ピアンタ」ちらりと青年が金茶色の視線をこっちへ向けたその一言が、命令であることを理解した。
 ――キン、という音が真横でした。
 クナイの刃で銀の蔓を落とした音。

「――マナカ!」

 マクシミリアヌスのそれが咎めか安堵か叱責かを理解もせずに視軸を流した。――初めて見た。眷属って皆動物であるのかと思っていた。が、彼が命じそれに応えたのは地面に埋まった植物だ――世界最大と謳われるラフレシアの花を想起する銀色に光る大きな花のその短い茎らしきところから、うにょうにょと伸びているのは針のように細く長い銀の蔓。
 ――ひゅう、と男がつぼめた唇で音を鳴らした。“シルバー・ハンマー”はこいつで間違いないのだと頭の中で確信した。

「アルジェント・ピアンタの射程内でそれほど近付いたのは君が初めてだ、お嬢さん。目出度い、目出度い。拍手を贈ろう。ああ、いや、中佐殿を含めると二人だね。おめでとう、二人に惜しみのない拍手を! この“シルバー・ハンマー”から!」

 日本語。
 マクシミリアヌスに視線をやった。さっきからそうなのだと目が語った。“シルバー・ハンマー”の名に合わせてきたか。

「いい、とてもいいね、彼女に出会えたことは幸運だと何度も思うよ。無知たる神に仕える使徒たちはご覧のとおりの有様で、すっかり落胆していたところだ」
「貴様ッ――」
「マクシミリアヌス」

 銀の蔓が襲ってこないことを確かめてマクシミリアヌスの側に近寄った。月明かりで男の黒髪に少し青みがかっているように真佳には見え、金茶色の双眸は補色を受けてより炯々と輝きを増す。さくらは顔を見ていないと言ったけれど、声を聞いたら自ら宣言した通り間違いないと言えるだろう。ここで捕らえればジ・エンド。この胸糞悪い景色もすぐ終わる。――輪の外で、植物の射程内に一歩近寄ろうとした男を殺意で抑えた。もうこれ以上、一人だって死者を出すわけにはいかない。さくらはこの光景を知らないからだ。頭の中で見知った少年の遺体が何千、何万とフラッシュバックして吐き気がした。

「“シルバー・ハンマー”……」

 喉のところで抑えた声をギリギリのところで絞り出す。金茶の視軸がこっちを向いた。

「……一つだけ聞いておきたいことがある。これは一つの約束だから……聞くけれど、あのイヤリングを」

 ――そのイヤリングを、と詰まる声を吐き出した篭った掠れ声を思い出す。

「四年も持っていたのは、何で」

 ……男が笑った。

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