答えが出たのは一瞬だった。何かが空を切り裂く音、ごぼっと液体か何かが吐き出される音、一拍遅れて何体もの人体が地面に倒れ伏せる音。――咄嗟にマクシミリアヌスは知人の修道女を背中に庇った。「マクシミリアヌス?」もごもごと篭ったような音がする。見るな……と呟いたつもりであったのだが、乾いた唇から漏れたのは空気の塊だけだった。
 あれは食堂の窓……か。そこから男が一人這い出してくるのが見えた。這い出してくる、という表現は正確には適当ではない。もっと優雅に悠然と、障害を障害とも思っていないほど軽やかに――食堂の窓に面した壁と垂直になった別の面に立っていたので窓の中までは見通せなかったが、今なら奴の顔が分かる。宵闇が滲み出しているとは言え月と星は今は明るく、男の姿を目視するには十分すぎるほど……。
 それと同時に男に対して放射線状に広がっている同志であった者の無惨な死体も、月と星は情け容赦無く照らしていた。ざっと見たところ全て心臓をたった一突き……。息を呑んだ。これが“シルバー・ハンマー”の仕業であると言うのなら――今までの撲殺死体は一体、何だったのだ?

「やあ、飛びかかってこなかった隊員がいるとは思わなかった」

 流暢なスカッリア語で男は言った。窓の向こうに在った故返り血はあまり浴びてはいないが、ただ一筋、入り込んだのだろう血痕が頬のところを伝っていた。誰の血だ――パルミエリか、ビゴーニか、それともパーネか?――スッドマーレにはマクシミリアヌスが特別親しくしている同志はいない。格別親しくなるほどには滞在期間が短すぎたからだ。しかしペシェチエーロとスッドマーレの者として共に演習をした者はいた。共に“シルバー・ハンマー”事件の捜査をした者もいた。共に聞き込みをした者もいた――。格別親しくはなかったが、しかし決して他人事で済ませられる者ではなかった。

「マクシミリアヌス」

 後ろでルーナが隊服を僅か引っ張った。……自分の拳が岩のように硬くなっていることにその時気付いた。恐らくマクシミリアヌスの背中によって状況は理解していないが、しかし何が起こっているかは何となく察しているらしい……。聡明な子だ。
 たった一時、瞳を瞑って息を吐く。

「……ここから先へは行かせんぞ」

 男がちょいと片眉を跳ね上げた。黒い髪に金茶色の双眸、カミーチャ(シャツ)の上にパンチョット(ベスト)はつけていない。底流階級かあるいはそれに近い中流階級……しかし装いは清潔で話す言葉にも訛りは無かった。判断が狂わされる。

「ああ……」

 と男は言った。

「どこかで見たと思ったら、貴方は彼女の取り巻きだね。覚えているよ。ずっと見ていたから」
「ずっとだと……?」
「そう。ああ、僕の傑作は見てくれたかな。最高とは言わないまでも、あれは中々浪漫的だった。“女神をこの手に”――。うん、気に入っている一文だよ。だからこそ、女神をこの手にしなければならない」

 頭の中で自らの眷属のことを考えた――大剣はまだ抜かない。ルーナを更に後方へと押しやった。

「……あの時点で我々の数と顔を把握したのか――あれにはそういう意味もあったのだな?」
「そう。まんまと全員出てきてくれて本当に助かった。これで全部じゃなかったら。彼女以外の貴方たちのうちの誰かを一人、殺してしまうところだった」

 くすくすと男は笑った。何の躊躇も前触れもなく、まるで星の話でもしているかのように邪気なく人の殺害をほのめかす。マクシミリアヌスらのうちの一人にマナカが入っていることは明白だった。サクラだけでなく、彼女をも失うかもしれなかった――右手が剣の柄を握りかけた。

「でもそろそろどいてくれないかな。この箱の中に彼女の姿がなかったので、私は今すぐにでも女神を探さなければならないんだ」
「探しだしてどうするつもりだ?」

 分かりきっていることを聞いたと思った。しかしいい時間稼ぎにはなっただろうと考えた。宿舎の中に彼女はいない。きっとルーナが言ったように、ペトルスが気付いて先に彼女を連れ出したのだ。そう時間的余裕はなかっただろう。ならばまだ、この付近に潜んでいるはず――彼女たちを逃がすためには、マクシミリアヌスがここで十分な時を稼ぐことが何より枢要。――大剣の柄に手を伸ばした。奴が笑った。

「――探しだして、打ち壊すんだよ!」

 正確に飛び出した男の刃とマクシミリアヌスの大剣が、派手な衝突音をはじき出す。


ヘビー・ピースの行啓



“シルバー・ハンマー”が何かをしたのは見えた。でもすぐさまペトルスに手を引かれて林の中を突っ切る形になっていたので、すぐに何が何だか分からなくなった。取り囲む大勢の人、その心臓を正確に少しの狂いもなく刺し貫いたあれは……すぐに消えたから魔術によるものだと思ってまず間違いない。銀色をしたあれの成分は、もしかしたら殺人に使われた鎚と同じ銀ではないか。
 繋がった腕の先でチッとペトルスが舌を打つ。

「ろくな戦術も立てずに特攻するから……。サクラさん、袋のネズミを襲う第一段階は失敗しました。恐らくこれから第二段階が始まります。第一段階で“シルバー・ハンマー”の顔が割れて助かった。これで第二段階は必ずしもあなたを囮にすることに依拠したものではなくなるはず。このままどこかへ逃げおおせてしまえば後は治安部隊員の仕事です」
「ちょっと……待って」

 自分でも小さな呟きになったと思えたそれをペトルスが認識した様子はなかった。暗くなってきた視界の中で前方には林が続き、右側にある教会施設だけがめまぐるしく変化する。外縁に沿って作り上げられた林の中を遠回りして突っ切って、大通りから町へ出るつもりなのだとすぐに気付いた。
 ――さくらが逃げたらどうなるのだろう? さっきの“シルバー・ハンマー”の挙動は未だ記憶に真新しい。何の予備動作もなく掛け声もなく、男は触手のように伸びた銀の針を用いて一度に大勢の人間を殺害したのだ。殺された中にはいなかったと願いたいが、あそこにはマクシミリアヌスも何らかの理由で存在したはず。あそこで殺されていないとしたら次は誰が標的になるか、考えないでもすぐ分かる。
 視線を一度後ろへ向けた。自分がここに残っていれば、まだ“シルバー・ハンマー”の狙いをこちらに向けて隙を作ることだって可能なはず……。しかしこれは、ペトルスとマクシミリアヌスの願いと努力を無碍にして、進んで二人の足手まといに成り下がることを選択する道でもある。無謀としか言えない道……。普段真佳に向こう見ずだ何だのと口に出しておきながら。

「……何を考えているか、それなりに検討はつきますよ」

 然程驚きはしなかった。恐らくマクシミリアヌスにだって気付かれたであろうし、真佳だって気付いただろう。チンクウェッティなら尚の事。あの男がさくらの性格を知って囮捜査を切り出したことは真佳が怒るまでもなく気付いていた。そう、こういう形で囮になっていなくたってさくらはそれに合意したはずだった。

「……多分、あそこにはマクシミリアヌスがいるわ」
「分かっています。でも、カッラ中佐の何を心配するって言うんです? 第一級魔力保持者、それも炎の属性を持つ彼ですよ……」
「ということは、アンタも“シルバー・ハンマー”が第一級魔力保持者であることは疑ってはいないわけね?」

 ……一瞬不意をつかれたような沈黙があった。

「――おっしゃる通りです。それで間違いないと思います。炎を引き合いに出したのも、相手の属性が銀でまず間違いないと考えていたからでした」
「銀は高温の炎で溶ける……相性は、然程悪くはない」
「ええ、むしろ周囲にいるほうが危険です。液体になった銀が飛んでくると危ないですからね」
「……」

 戻る必要の無い理由と戻っても何も出来ない実情を巧みに会話に織り交ぜてきたことに気付いていたが、さくらは何も言わなかった。言えなかった、と言ってもいい。ペトルスの言うことは覆りようのない事実であり、さくらの理性もその意見には賛成し続けていたからだ。マクシミリアヌスなら勝てる。……勝てる。それでもどうしても引き返す理由をこうして探してしまうのは一体どういう理屈だろう?

「サクラさん」

 とペトルスは静かにそう言って呼びかけた。先導して走る足のスピードが心持ち落ちた気配がする。

「諦めてください。あなたはチェスの駒で言うキングなんです……。あなたを取られた瞬間にぼくらの敗北は決します。逆に言えば、あなたさえ守りきれればぼくと、マナカさんと、カッラ中佐の勝利なんです」
「……キング以外に、絶対に取られたくない駒もあるものよ」

 わがままなことを言ったと思ったが撤回しはしなかった。それにあながちわがままであるだけではない。キング一つだけ生き残ったところで導き出せるのは勝ちではないのだ――敗北か、精々ゲームを引き分けに持ち込むことができるだけ。そしてこの場合のゲームに引き分けという四文字は一切存在しないのだ。
 サクラさん、とペトルスが小さく口にした。

「キングも他の駒も取られないよう、せいぜい努力するしかないよ、ペトルス」

 ……突如響いた深いアルトの声に息を飲んだ。最初に影を見たとき、はっとして足を止めてしまったがその必要は微塵もなかった。

「ペトルス」

 とそいつは言う。

「うちのキングは割りと強情でしょう?」
「……アンタにだけは言われたくない」
 一つ息を吐くだけの時間を置いて、「マナカさん……!」

 影になっていたところで月明かりを浴びて、真佳はそれに応えるようににへっと笑った。昼間(真佳にとっては朝っぱら)から一人、ふらっとどこかへ行っていたくせに大事なときにはちゃんとそこにいるんだから。

「私も随分色々調べたつもりだったのに、囮作戦は決行されてしまったんだね。こんな手段を取られたらチンクウェッティばかり責めるわけにもいかないなあ」
「真佳」前置きは抜きにしたかった。何せ向こうではマクシミリアヌスがさくらのために足止めしてくれていて、多分恐らく危険な状態であるからだ。だから一息に口にした――「マクシミリアヌスと“シルバー・ハンマー”が奥にいる」

 真佳が口元に笑みの形を残したまま頷いて「うん」とそう口にした。

「知ってる。そのために来た。さくらとペトルスは、だから逃げてねって言うために。安心して。クイーンの駒はちゃんとあそこに持っていく」
「……本当はぼくはあなたもとめなくちゃいけないんですよ」

 また真佳がにへっと笑った。

「見逃してよ。どのみち私の向かう先にはマクシミリアヌスもいるんだから」
「止められる権利は今のぼくにはありませんよ」

 と言ってペトルスは繋いだ手の先で軽く肩を竦めて見せた。ちょっと待ってよとさくらは思う。真佳の言葉に一つ引っかかりをおぼえる台詞があった。

「クイーンの駒って、誰?」

 どうやら真佳のことではない。他に誰か味方が――それも真佳よりも強烈なやつがいると言うのか。

「私は今回はナイト役だよ」

 癖のある微笑で赤い双眸を細めながら、的の外れたことを真佳は言った。

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