「もしかしたら言ってないことがあるんじゃないかと思って」 と真佳は言った。飛び込んでからの開口一番だったけれど、冑頭の男はそれに動じた様子がない。もしかしたら前日からずっとこれを待っていたんじゃないかと思うくらい……。今日はトンカチを持った様子も無さそうだ。多分ずっとこのテーブルのところで座っていたのだろう。……昨日真佳が去ってからずっと? ……無表情な鉄兜を見据えながら唾を呑む。 「四年前、あるいはこの四年間の間に、“シルバー・ハンマー”に何があったの? お兄さんはそれを知ってるの? それが……」 それが 多分、最後のピースだ。 |
吶喊 |
カップの底を見下ろして、空になったコーヒーの跡を目線で辿った。……確かトルコでは、飲み干した後にカップをソーサーに裏返し、カップに出来た粉の流れで運勢を占うという占いがあったっけ。粉が入ったまま注がれるからこそできる技で、もちろんこれでは出来ないけれど。 「コーヒー、おかわりもらってきましょうか」 「いえ……」 気付いてかけてくれたペトルスの申し出をたった一言だけで断った。 ……昨日からずっと嫌な予感が渦巻いている。胸の辺りがざわざわしていて落ち着かない。どうしても納得がいかないのだ。ああやってわざわざここの入口に、銀の鎚なんかを置いて行ったその理由が。 「……仮に脅しを行うためだとしても」 「?」 机の上で組んだ両腕に顎をうずめて小さく言った。ペトルスがきょとんとした顔をした。人に伝えるためというよりは、独り言で口にした感が多分に強い。 「わざわざあんな場所に置く必要性がない……。あれじゃあ見張りを立ててくれと言っているようなものだわ。私を殺したい人間が、わざわざそんな動きにくくなることをするものかしら……?」 「後先なんて何も考えてなかったかもしれませんよ。ただ今思いついた愉快なことを実行しただけで、見張りのことは考えてなかったのかも」 うずめた腕の中で少し唇を尖らせた。確かに……それが“シルバー・ハンマー”の犯人性に、今現在最も合致する解答かもしれない。場所も人も問わない連続殺人、私怨もないくせに無闇矢鱈と人を打つ殺害方法……。でも、とさくらは思うのだ。真佳が持ち帰って来た銀の鎚のことを思い出す。あの鎚から検出された魔術痕は間違いなく“シルバー・ハンマー”のものだった。ミラーニ女史殺害事件の凶器とも一致する。つまりあれを流したのは、“シルバー・ハンマー”で間違いないということ。 ……何のために? 胸のざわつきが勢いを増す。これは“シルバー・ハンマー”の犯人性とは一致しない案件だ。“シルバー・ハンマー”は――私たちの知っている“シルバー・ハンマー”の人間性は、何者かに創られた偽りの性質ではないのか――? 「……これは」 広場のほうから受け取ってきた新聞紙に目線の先を落としながら、ペトルスが深刻そうな声音を吐いた。眼鏡の縁を飛び越えて、眉が目元の近いところでシワを寄せて硬直している。濃緑色の双眸が食い入るように見つめている文章はさくらの側からは読み取れない。 「……何て書いてあるの?」 慎重に聞いた。ペトルスがこの状況で、何でもないことを大げさに取り上げるわけがないと分かっていた。 「……司教の息子が殺されました」 「殺された? 誰に」 「“シルバー・ハンマー”にです……大変だ、まずいことになりました。今すぐここから出たほうがいい」 「は? ちょっと待って……どういうこと? 教会の敷地内にあるここが一番安全なんじゃなかったっけ?」 「状況が変わったんです。教会が安全だとは思わないほうがいい。多分もう、早ければ今すぐにでも……」 ドガン!……という何かがぶち壊される音がした。玄関のほうからだ。次いでバラバラと何かが床にぶちまけられるような音。……ペトルスが珍しく舌を打った。 「玄関から堂々と……。間違いない、あれは“シルバー・ハンマー”です」 「な、」一瞬それだけ言って言葉が詰まった。「……にを言って……。見張りはどうなったの? いるはずでしょう。まさか“シルバー・ハンマー”に」 「いいえ、それは無いと思います。多分見張りの二人は生きていますよ……。ただ、教会の命令で見張りの任を解かれただけです」 「解かれた……?」 コツン、コツンという音がした。間違いなくこっちに近付いてくる硬い跫音。何かを恐れているふうでもない、優雅でそれでいて段々追い詰められていることを実感するような音だった。バクンと心臓が一息に、跳ねた。ぐい、と右手をペトルスに引かれた。 「話をしている暇はない。とにかくここから逃げましょう。大丈夫、今回は上手く逃げれるはずです。僕の思惑が正しければ……」もにょもにょと口の先で呟いて、「こっちです」掴まれた腕を強く引かれた。机の上に広げたまま置かれていた新聞紙が音を立てて床に舞う。玄関からここまでの距離を換算した。然程時間があるとは思えない――! 「窓は飛び越えられますか? まさか窓から出入りするなんて行儀の悪いことは出来ないなんて言い出す人じゃあないですよね?」 「当たり前よ」 片眉を跳ね上げてむっとした顔で言い置いて、押し開けてくれた窓の枠に膝をついた。まだ心臓は激しい鼓動を打ち続けているけれど、おかげで少し冷静になれた気がする。とりあえず今は逃げなければという思考にはどうにかなれた。マクシミリアヌスはどこにいるんだろう。真佳は――? ――気にかけている暇はない。 「こっちです。一先ず林の中に隠れます」 さくらの後から窓を飛び越えたペトルスに、そのまま引き続き腕を引かれた。屋敷を囲む小さな林がもうすぐそこに見えている。屋敷のほうを振り返る――窓はぞんざいにだが一応簡単に閉められていた。鍵をかけられないのは仕方がない。“シルバー・ハンマー”がこれに気付いてくれなければよいけれど……。 ……ふと、屋敷を囲むいびつな闘志の眼差しが隠れこんでいる気配がした。 まずいことになったと思った。思ったときには遅かった――司教の子どもが殺されたという一報がマクシミリアヌスのもとに届くまで、必要以上の遠回りを要したのだ! 一体何の策略か――いや、まさかマクシミリアヌスだって“シルバー・ハンマー”がこんな大掛かりな手に出るとは考えてもみなかったのだから、のろのろと一報を届けてきた連中ばかりを責め立てていても仕方がない。 「サクラは?……ペトルスはどうした」 ぜえぜえと荒い息を吐きながら二等兵がその太い首を横に振る。全く頼りにならん……。日々の鍛錬として課せられていたはずの体力作りの成果を一体どこへやってしまったのか。スッドマーレ支部から急ぎで呼び寄せた元見張りを下がらせて(何でも教会支部へ撤退命令を下されたらしい。くそ忌々しい上層部の連中が)、マクシミリアヌスは双眸を細めて朱から宵に染まりかけたその一帯を視線で薙いだ。サクラの姿はおろか、“シルバー・ハンマー”らしき人影も見えやしない……。ただ確かにここいらに感じるのは研ぎ澄まされた猟犬の息吹か。何のことはない。囮捜査が実際に決行された故、見張りを下がらせたその代わりとして彼らがここに就いたのだ。 動くもの虫一匹見逃さぬよう目を皿にして見据えながらマクシミリアヌスは歯噛みした。 思えば最初から――教会の施設にあの馬鹿馬鹿しい落書きを残したあのときから、全ては奴の術中にハマっていたのであろう。教会が囮捜査を視野に入れたこともマクシミリアヌスを初めとする彼女の取り巻きがそれを回避すべく昼夜問わず走り回ることに決めたのも、また警戒心を煽って敢えて一時見張りを玄関に置かせてみたのも。全てはこの最後の一撃――司教、即ちスッドマーレ支部最高責任者たる男の息子を殺害せしめた後の展開を予測してのことだった。どこをどうつっつけば誰がどう動くかということを、“シルバー・ハンマー”は重々承知していたのである。正しくそれはチェスの駒を自由気ままに移動させるが如く。 スッドマーレ支部の司教がどれだけ自分の息子を猫っかわいがりしているかという話についてはマクシミリアヌスも何度か聞いた覚えがある。最高責任者だからこそ、その息子を殺されて最後の手段に飛びつかないでいることは恐らくでき得なかったのだ――結果的に思った以上に急激に、囮捜査はこうして発足してしまった。多分サクラも気付かぬうちに――。 「――っ、ええい家の中はどうなっておるのだ、サクラが無事か、それだけでもわかる人間はいないというのか!?」 「カ、カッラ中佐落ち着いてください、声が聞こえてしまいます。“マルテッロ・ダルジェント”は既に宿舎内に侵入しているのですから――」 「ならば尚の事、サクラらの心配をせず何を思う!?」 「マクシミリアヌス」 つんと隊服の袖を引かれたことで危うく舌に乗せかけた怒声を引っ込めた。片目を細める――もうすっかり空は宵の色に変わりかけている。 「……ルーナか?」 「ああ、そうだ――」 「おお、君は無事だったのだな、すまないが中の状況を教えてくれまいか。ここにいる連中は人の命をどうとも思わん連中ばかりで――」 「すまない」 とルーナが言った。下唇が僅か白い。唇を噛んでいるのだと一息してから気がついた。 「……何故君が謝るのか、俺にはよくわからんが」 きゅっと一度、下唇に白味が増した。「すまない……何か大声を出してから出て行けば良かったんだ。何せ唐突に宿舎から追い出されたものだから、そこまで機転が回らなかった……。あの時点で何かを察しておくべきだった」 ……眉尻を下げた。 「おお、君のせいではない――しかしそうか、教会は君たち修道女を宿舎から追い出したのだな。サクラとペトルスを置いて――? 何か物音に気がついても良さそうなものだが」 「食堂からはみな、離れたところにいたらしいから恐らくそれでだろうと思う。確かに無理矢理追い出されはしたけれど、相手は教会の治安維持隊だし文句は言っても本格的に抗おうとする者はいなかった」 「むむ……」 顎鬚をしごきながら苦く唸る。とすると、やはり彼女らは未だ宿舎に囚われたままではないかとの見方が強くなる。“シルバー・ハンマー”が侵入してから十分すぎるほどの時間が経った。今頃彼女らは奴の餌食に――最悪の状況が頭に浮かんで、辺りに潜んでいるに違いない隊員の側に視線をやった。ええい、何をちんたらしておるのか! “シルバー・ハンマー”はとうに屋敷の中なのだから、早々に攻撃を開始すればいいものを!! つん、ともう一度、ルーナ・クレスターニが袖を引いた。 「……さっき、追い出される直前にペトルスが速報の新聞を持って戻ってきていた」 「速報?……司教の息子の件か!」 「十中八九ね。まさかペトルスがそれを見逃すはずはないし、あの子は頭が鈍いというわけでもない」 「……成る程! くだんの事件のことを知り、囮捜査が決行されたと確信してサクラを連れ出してくれているという可能性も――」 「無きにしも非ず、だ」 頷いた。――いや、きっと気付いてくれているだろうという確信がある。他の誰かなら可能性だけであったとしても、ペトルスならば間違いなくサクラを守り抜くために全力を尽くしてくれている。 だとすれば……どこだ? 宿舎から逃げ出した彼らは一体どこへ行ったというのだろう? カタン、と何かが軋む音がした――窓が開く音だとすぐに気付いた。刹那。 「今だ! 抑えろ!」 指揮者格の男が吠えて、自分と同じ隊服を着たおびただしい数の人間が四方八方から宿舎目指して突貫した。 ……ここからでは見えないはずの窓の向こうで、何故だろう――男が一人、笑ったような薄気味悪さをそのとき感じた、……ような気がした。 |