結局さくらにも誰にも言わずに次の日にすぐ部屋を出た。すぐと言ってもマクシミリアヌスは既に宿舎を出ているし、太陽は蒼穹の頂点を飾っている。お昼に起きる癖だけは真佳にだってどうにも出来ない。……昨日結構早く寝たつもり、なんだけどなあ。
 行く場所をさくらにだけでも言ったら安心させられるような気はしたが、それでも話す選択肢は初めから頭に浮かばなかった。匿名人関連の話になるし、彼がどこまで秘密にしておきたいのかを真佳がよく分かっていなかったから。……あの人の気持ちはよく分からない。冑の向こうに表情も目も消え失せて、それが全てを外界から遮断しているような気がする。或いはそれをあの人が求めたのかもしれないけれど……。

「えーっと……」

 大通りを少し下って、高級住宅地の終わりのほう、だっけ? 何となく何かのきっかけで話を聞いたことはあったけれど行ったことはないので自信はなかった。まあ有名なところだろうから、道行く誰かに聞きさえすれば教えてもらえることだと思う。
 宿舎の入り口に厳しい顔で屹立している一人の隊員の小脇をすり抜け、ぱたぱたと教会敷地内から外で出た。


曰く/Version.四年前



 ……。何度か通っているはずだったのに、何故気が付かなかったんだろう。ここを通ったことも何度だってあったのだから、行きしなとか帰りしなに教えてくれても良かったのに。ペトルスは別に祖父が嫌いなわけでもなさそうだったし。
 大通り沿いのでかい建物がそびえ立つ最後の区画にそれと比べると小ぢんまりしたお家があった。十字路(と言っても横に伸びる路地はそれほど大きなものではないけど)の端にしっかり収まるようにして立つ家の屋根は緑色で、ペトルスや彼の祖父の目の色と同じような色をしている。
 ズッカリーニ診療所……。
 初め名前を聞いたとき、教会を除いたこの国唯一の病院になるのに“診療所”とは随分控え目な言い方だと思ったものだ。でも実物を見るとそれが一番しっくり来る。これは確かに、どこからどう見たって診療所。煉瓦色の外壁に、アーチ状に切り取られたその中にチョコレート色の片扉がひっそりと待ち構えている。扉の横にルームプレートみたいなもので何か書かれているから、多分これに診療所の名前が書かれているんだろうと思う。随分小さな看板だ。それでも問題ないくらい、この国の人たちは身近にこの診療所を感じているんだろうと思った。
 片扉のノブに手を伸ばす。黄金色で古めかしい丸型の……。何も考えずここまで来たはいいけれど、忙しくなければいいなとふと思った。医者ってゆうのは総じて忙しいものであるというのはきっと多分偏見ではない。そうなると少し待たせてもらうことになるけれど……。

Buongiorno(ブォンジョールノ)

 扉を半分開けたところで横っかわから声が聞こえて思わず扉を閉めかけた。だ、だって病院は病人のための施設で……自分は多分場違いなことを聞こうとしている。
 押し開いた扉を盾にして覗いてみると、蝶番のある側に小さなカウンターがあってその向こうに人の良さそうな笑みを零した女の看護師がいた。緩くウェーブした黒髪を顎のところで切りそろえて……一応教会従事者に当たるからだろうか、ルーナが着ているようなシスターに近い服を着ている。
 つんと消毒液のにおいがした。ここのところは異世界でもどこでも同じなのだな……。

「……あ、えーと」

 とりあえず片扉は後ろ手でゆっくり閉めておいた。多分、待ち合いロビーになるんだと思う……。カウンターの前に壁に沿って背もたれのないソファが並んでいて、そのすぐ向こう、カウンター側の壁にまた扉があった。そこが多分診療室。ソファには数人の人がいたけれど、待っているという感じはしなかった。
 看護師はああと気付いたような顔をして、言語を異界語にすぐさま切り替えてまた話しかけてきてくれた。

「こんにちは。今先生はお昼休みに入っておられますが、診察ですか?」
「え、っと、いえ、えーっと……」

 ……何て話すかを全く決めていなかった。微妙にどもりながら片頬をぎこちなく笑みの形に繕って、

「……ペトルスの友人、なんですけど、ちょっとズッカリーニ医師にお尋ねしたいことがありまして……?」

 看護師が緑の双眸をほんの少しだけ見開いた。あらあら、という顔をする。

「ペトルスのご友人。うふふ、成る程ね。女の子のね。知識一辺倒だったのに、いつの間にこんな可愛らしいお友達が出来たのかしら。お父さんに似たのかしらね?」
「え゛? えーっと……」
「初めまして。ペトルスの母です。いつも息子がお世話になりまして」
「は……」

 母――!? 若いから全然気が付かなかった……! っていうかお母さんいたんだ!? 全く話に上らなかったから何となくタブーと思ってたけど!
 驚きのあまり次の行動に移るまでに五秒くらいの時間を要した。

「あ、え、お、はじ、初めまして……!? こちらこそいつも息子さんにお世話に……」
「ルーシィ」

 左っ側から聞こえた声に驚愕を更に助長されて数センチ跳ねた。後ろでソファに腰掛けた患者さん(暫定)がクスクスと小さく微笑した。

「私の客で遊ぶのは感心しないな。ペトルスの友人だろう? 昼休みでも通してくれて構わないから」
「あら、だって私だって、息子の女友達には興味があるんですのよ、お父さん」
「君は全くいつもそういう……」

 苦々しげに眉根を寄せた男性に見覚えがあった。
 診療室から出てきた男だ。半白の、癖のあるストロベリー・ブロンド、濃緑色の瞳、ツーポイントのあっさりした近眼鏡……。アルブスに導かれて死体を発見したときと、ミラーニ女史の死体を発見したとき、その双方の検案を担当していたのが彼だった。真佳も話しかけたことはないが、遠目で彼の姿を確認している。
 ズッカリーニ医師は眼鏡の奥からちらりとこちらを確認してから、ほんの少し口角を上げて頷いた。

「待たせて済まなかったね。来なさい。話を聞こう」


■ □ ■


「お昼休み……なのでは」
「そうだよ。まあ昼飯ならとうの昔に食べ終えたがね」
「患者さんの相手をしなくても……よいのですか」
「十二時から十三時まで一時間、休憩はきっちり、過不足なくいただく。それが常識だ。疲労の末手が滑ったなどという言い訳を、医術士がして許されるものかね?」

 無言で首を横に振った。多分途中まで詰めていたんだろうと思う。吸口が長目のパイプに釘みたいなタンパーを押し当てて、それから火皿に火をつけた。随分綺麗に火がついた……。香ばしい匂いが鼻をつく。真佳の祖母がパイプの一種と数えられるキセルのほうをよく吸っていたのを想起した。

「異世界人だろう?」

 単刀直入に言われて口を「あ」の形に開けたまま心臓と一緒に固まった。

「どっ」心臓の蘇り。「どうしてそれを……!?」

 ……解答が来るまでに時間がかかった。
 くゆらすようにして味わいながら紫煙を口中に含んだからだ。

「ペトルスから聞いているものと思っていたが。私がアレに、君たちの護衛を頼んだのだよ」
「……あ。あー……」

 そういえばこの町に来た直後、ペトルスに聞いてみて答えてもらったような気がする。あまり覚えていなかったけど……依頼を伝えた張本人なら正体を知っていて当然だ。

「アレはきちんと護衛の役を勤めているかね」
「えっと……ちゃんと守ってもらっていますよ。こうして生きていますし」

 ……と言うと、何だかズッカリーニ医師にとても不思議そうな顔をされた。何でそんな顔をされるんだろうと考えてから一拍遅れて気がついた。普通の女の子は命の存在を大真面目の護衛の証明にはしないのだ。命を落とすか否かの瀬戸際に立つことに慣れ過ぎた。
 パイプの煙を吸って吐くだけの時間を置いて、ズッカリーニ医師が口を開いた。

「それで、私に用があるのだったね。何だい、護衛役への苦情かな?」
「そんなまさか……」

 くつくつと笑って言われたので多分冗談なのだと思う。上手く笑うことができなかったので、半笑いで何とか返した。
 膝の上に揃えた両手で拳を作った。勧められるがままに腰かけた椅子から身を乗り出すと、患者用の丸椅子がギシリと鳴った。

「……四年前に発見された遺体について、教えて欲しくて伺いました」
「四年前……?」

 唾を呑む。パイプの火皿から上るゆるやかな一筋の香煙が、天井を回るシーリングファンに導かれるがまま消えていった。殺風景な部屋の中、ズッカリーニ医師が回転椅子を直角と同じだけ回転させたことにより二人初めて面と向かい合うことになる。……場所が場所だけに診察されている心地になった。
 新たな紫煙を形作る時間を置いて、医師がもう一度口を開いた。

「……はて、何があったか。四年前も七年前もすっかり頭の中で混同されちまっているんでね。具体的な遺体の特徴でも上げていってくれると助かるが」
「“シルバー・ハンマー”……、じゃない、えーっと」
「いや、それで構わんよ。続けてくれ」
「……“シルバー・ハンマー”事件と同じように体中を滅多打ちにされて殺されてた遺体……。水の中からすくい上げられたって聞きました。死後変化と、あと何か……珪藻類?っていうプランクトンが肝臓や心臓の中から見つからなかったことから、溺死したのではあり得ないって。多分滅多打ちにされてから川に放り込まれたんだろうって……決定を下したのは、ズッカリーニさん……でしたよね」
「ああ……」

 ほんの少し過去に視軸をやるように、双眸を僅かばかり細めてからペトルスの祖父は「如何にも」と言って頷いた。火皿から立ち上る薄煙がほんの寸瞬軌道を変えた。

「成る程、もう四年も……或いはまだ四年と言ったほうがいいのかな。とにかくそれなら覚えているよ。あまりにむごい遺体であった。とても若い女性だったからね」
「その事件について、お伺いしたくて来ました。あの事件と、」
「“シルバー・ハンマー”事件との関連性か」

 先を読まれて次話すべき言葉を失った。考えてみれば当然だ。“シルバー・ハンマー”の件を誰より先に持ちかけたのは、他ならぬ真佳のほうだった。

「成る程……。そうだな、考えてみなかったことが一度もないわけではない。確かにあの遺体と今回の遺体には類似点が少なくなかった」
「……それを教会の人に言ったことは……?」
「ない」

 きっぱりした否定……である。

「あの事件は一度きりで終わっていた。あの当時、同一人物の仕業と考えられる事件は他に無かったし、連続殺人ではあり得なかった。それが突然、あれから数年経った今になって連続した殺人を行い出した理由が説明できない。四年間の期間を置いた理由は? 四年前の事件では何故遺体を川に捨てたのか? 対して今回、人目を忍ばず殺人を犯した理由は何だ? 駄目だ……犯人像が一致しない」
「……それで言わなかった?」

 答えは頷きだけで返された。ツーポイントの近眼鏡が窓から怠惰に流れこむ太陽光を反射して一瞬きらりと白く光った。右手の中指の腹でもって、眼鏡のブリッジを押し上げる。ほとんど肉のない骨ばった手の甲はペトルスのそれと似ても似つかないのだが、何となくペトルスに似てると思った。

「……だが、それと連想して考えた者は少なくなかっただろうね」

 目を伏せた――医術士のきちんとアイロンがけされた綿パンの折り目を何とはなしに視軸でなぞる。連想した者は少なくなかった……が、恐らく今まで一度もそれを話題に上げた者はいなかった、と。そう、理屈で考えればそうだけど、でも――。

「……四年前の模倣犯であるという話も、されてません?」
「ああ、それは」左手の薬指で眼鏡のブリッジを押し上げる――指の根元で結婚指輪が金に光った。「ご名答、確かに話に上ったよ。確か今も少人数が重点的に調べていると聞いている。誰だったかな、階級は大佐だったから――」
「……チンクウェッティ大佐?」
「ああ、そう……そうか、現場指揮官自らがと思った記憶がある。間違いなくその男だよ」

 ああ……嫌な予感というのは的中するものだなと、チンクウェッティの名を自分で告げておきながら真佳は唇の端を一瞬ぴくりと痙攣させた。あの人は特に隠し事をさせてくれないから……こういう話題ではあんまり話しかけたくはなかったのだ、けど。

「そう、そういう捜査は確かに行われている。しかしさっきも言ったように少人数で――少人数という意味は分かるかな。あまりその線は期待されていないということだ」

 頷いた。何となく分かる気がする。直近で起きた犯罪を模倣したというのなら模倣犯の可能性は十分あるが、何年も前の、それもどこかの“切り裂きジャック”ほど世間を騒がせていないと思われる事件のやり口を模倣するというのはあまり考えられることではない。たぶんだから、そういう理由で期待はされていないのだろう。
 ……真佳も模倣だとは思っていなかった。考えていないのは、正確には真佳ではなくて別の男だったのだけど。

「……その、四年前の遺体の……傷の数とかって、覚えてます……か?」
 パイプを吹かす時間が要った。「……正確な数は覚えていないね。ただ、四十はくだらなかったように思う。四十二か、そこらか……」
「全部顔、とか上半身……ですかね」
「大体は。他にもすり傷は多少あったが、あれは川に投げ込まれてから石やら何やらでこさえたものだろうと判断している」
「その凶器もハンマー?」
「結局凶器は発見されなかったから、正確にはハンマーに似た何かだね。特定できるだけの材料が遺体からは見られなかった」
「ううん……」

 ところどころ今回の事件と掠ったりはするのだが……時折遠のいていくというか、何というか。これじゃあ教会の治安部隊が四年前の事件との関連性を公に認めなかったのも納得がいく。手がかりはたった一人の証人か……。しかもこの男はこの件を教会には絶対に委ねたくはないと言う。

「……君は、どこでそんな事件の内容を聞いてきたんだね?」
「……?」

 きょとんと目を瞬いた。考え事をしていたので上手く質問の内容が頭に入ってこなかった。それを多分、ズッカリーニ医術士は別の方向に勘違いをしたのだろう。

「つまりだね、君がこの世界にやって来たのは首都にいたときも含めてたったの一ヶ月。そうだろう? 掲示板に掲示している新聞等の情報は確かに一般人でも立ち入れる教会支部に保管されてはいるが、本当に偶然くだんの事件を見つけ出したとは考えにくい。とすれば、一体どうやって四年前の事件を知りうることとなったのか」

 ……唇が笑みの形で固まった。笑っている、のではない。両の頬が引きつったままそこで固まってしまっただけだ。ズッカリーニ医師が指で眼鏡を押し上げる。ペトルスの存在を想起してそこで一瞬目が泳いだ。眼鏡のレンズが白磁色に反射した――。

「君は一体、誰からその情報を貰い受けた?」
「あーーーーー」

 ガツンと床と椅子のキャスターとが接触してかなり殺人的な音がして、立ち上がった真佳の足元で丸椅子が一瞬ガタンと跳ねた。横倒しにならなかったのが奇跡的なぐらいで、万が一倒れていたとしても多分真佳には元に戻す余裕など微塵も無かっただろうと思う。ただ立ち上がって、それから……そう、何とかここから立ち去らなければという焦りの色しか心になかった。

「……そう! 私帰らないと。そろそろペトルスにいないのが気付かれてしまっている気がする! いや別に黙って出てきたわけでは決してないけど! 時間制限が! あった気がする! というわけで失礼します、お話ありがとうございました、とても参考になりました、またお話いろいろ聞かせてください、さようなら」

 ……最後の一文はほとんど早口の息継ぎなしで、そのまま相手の顔も見ないで診察室を抜けだした。

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