「いやあ、悪かったね、びっくりさせてしまったか。丁度手が塞がっていてね。ああ、持ってきてくれたんだね、それ、洗濯物。籠に一杯詰めたまま歩いてたから、うっかりこけてしまったらしい。死んでいると思っただろう?」
「……はは」

 正直なところ、本当に死んでいるとさくらは思った。
 何かが倒れる音が聞こえてペトルスと二人、顔を見合わせてから急いで音のした方向に向かってみたらば、そこには床に散らかされた洗濯物と突っ伏し倒れた女の姿があったのだ。お団子にした赤毛の下からは角度の問題かその表情は伺えず、青白い死の色を抱えているのかそれともまだ息があるのか、判断するための材料もなかった。“シルバー・ハンマー”がどうのこうのとうろついて、しかも先日には実際に死体を目の当たりにしたばかり。宿舎で主に自分たちの面倒を見てくれているシスターたるルーナ・クレスターニが二人目の犠牲者になったのだと、一瞬本気で信じてしまったのも無理はない。
 さくららが運び込んだ彼女の部屋のベッドの中から、上半身だけをひょっこり起き上がらせて屈託なくルーナは笑った。襟元が大きく開いた黒のワンピースにブラウスという、シスター特有の様相で。

「やっぱり無理はするべきではなかったかな。一応これでも歩き慣れている道だから大丈夫だと思ったのだけれど……そういえば、僕は何に躓いたんだろう? 何もないところで転ぶなんて器用な真似はできないと思っていたのだけれど」
「さあ、小石か何かでも落ちてたんじゃないですか?」とペトルスがあっさり言ってのけて、「それより」話の方向をねじ曲げた。
「洗濯物は多分もう一度洗いなおしたほうがいいですね」
「ああ、そうなるね……。まあここには僕以外にも修道女というやつは沢山いるから、その子たちに頼んでおくとしよう。なに、今のところ客はどうせ君たちしかいないんだ。忙しさに溺れて出来ないなんてことはないさ」

 修道女……。
 そういえば。ついさっきまで深く考えるどころではなかったことに、この時ようやく頭が巡った。確か、“シルバー・ハンマー”の落書きを真っ先に発見したのは“宿舎の修道女”という話ではなかったかしら……?

「……ルーナ」

 思いついたままに口を開いた。

「教会支部の外壁に落書きがされてたって話を聞いたことない? ここのシスターが第一発見者だったって話を聞いたんだけど」
「ああ、“シルバー・ハンマー”って書かれたあれかい? あれなら知ってるよ。僕が見つけて報告したんだもの」
「…………、ルーナが?」

 初っ端から当たりを引いてしまったことにむしろ当惑した。……該当者を見つけようと思っていただけだったので、何を聞きたいかすぐには思いつかなかったのだ。

「え、何かありましたか? 足跡とか犯人の痕跡とか」
「犯人の痕跡ぃ……? 署名くらいのものじゃないかな。足跡なんてものも見えなかったし……。大体ここいら一帯は煉瓦石できっちり地面を埋められているのを無論君たちも知っているだろう。あれで足跡が残るようなら、それだけで落書きの犯人は常人以上に質量のある大男に特定されそうなもんだ」

 正に正論を叩きつけられて質問を投げた本人たるペトルスが「むう」と唸った。確かにルーナの言うとおり、あの周辺に筆跡と署名、それから精々ペンキの種類の特定以外に人物を特定できそうなものが見当たろうとは思えない。第一発見者でなくてあの落書きを調査している教会の人間であれば別だろうけど……(その署名だって実際、紙に書くものと壁に書くものとではまた違った様相を呈することに間違いはなかろうし。使える見本がない分特定に使えるとは必ずしも言えない)。

「……じゃあ、その前後に怪しい人を見たことは?」
「怪しい人ねえ……」

 少し唸るように彼女は人差し指の第二関節を唇の先に押し当てた。あの辺りを目の当たりにしている目撃者候補なら、町人よりもここで働いているシスターのほうが当てになりそうな予感はするのだけれど。

「……うーん、昼前だったからねぇ……。あの時間帯、掲示板を見によく人が出入りするんだよ。で、ちょこちょこ聖堂に寄ったりして。だから人なら見かけたと言っていいね。怪しいかどうかは僕には判断できないけれど」
「……そう」

 こっちも撃沈。ペトルスと顔を見合わせて肩を竦めた。やっぱりそうそう有力な情報が降って湧いてくる望みはないか。マクシミリアヌスや或いは真佳に、足で探す部分は任せたほうがいいかもしれない。何もできないのが歯痒いけれど。

「ああ、でも怪しい奴はいるって聞いたことあるなあ。今日じゃないし場所もここじゃないけどね。ここで働いてる子が買い出しのとき見たっけ」
「……どんな?」
「何か頭に甲冑被ってるらしいよ。金物扱ってるところでよく見るって……」少しく声を低くして、「少し例の殺人鬼を連想する組み合わせだと思わないかい?」
「……」

 そんな怪しい人がいるなら真っ先に職務質問されていそうな気がするが。少しでも情報になればと聞いてみたが、“シルバー・ハンマー”絡みの都市伝説である可能性のほうが濃厚のような予感がする。

「とりあえず、ぼくたちはこれを」

 と言って籠に詰め直した洗濯物を指さして、

「他のシスターの方に頼んでみますよ。ルーナさんはもうしばらく休んでおいたほうがいいです」
「いやいや、悪いよ。お客人相手にそんなことは頼めない」
「いいからぼくたちに任せておいてください。一応頭は打ってないようでしたが、少しとは言え気を失っていたんですからもうしばらくは安静にしておいてもらわないと」
「……医術士として困る、かい?」

 ……眼鏡の奥でペトルスが少しく双眸を見開いた。すぐに鼻先を移動させたのでその表情も見えなくなってしまったけれど。

「……そんなところです」

 ルーナが薄く肩を竦める。

「医術士殿のおっしゃることなら仕方がない。ではお言葉に甘えて、暫く休養を取らせていただくよ」
「そうしてください」

 山と積まれた洗濯物籠を両手で持ち上げた小さな医術士の声色に、ほんの少しほっとしたような色が混じっているのを察知した。



暗澹冥濛



 バッグの中から銀色のそれを取り出して神妙なというか困惑気味というかな顔つきをするペトルスに、さくらは腕を組んだまま思わず一度だけそっぽを向いた。天上の端をなぞってもそれが何らかの答えを用意してくれるわけはない。

「ルーナさんが躓いたきっかけは、これだと思いますよ」

 銀の鎚を手の中でこねくり回しながらペトルスが言った。さくらもそう思う。それ以外に躓きそうなものはあの辺りに見つからなかった。小石か何かで躓いたとは、勿論ペトルスもさくらも思っていない。ルーナはそれほどうっかりした人間ではないと思う。
 ルーナから預かった洗濯物を他の修道女に託してから、もう一度食堂に戻って来ていた。ルーナは暫くベッドの中から出てはこないだろうし、他の修道女は必要以上にこの界隈に足を踏み入れない。さくららの世話は、規定としてはルーナが全て負うということにどうやらなっているらしかった。銀の鎚が落ちていたのは共有の玄関から入って数歩進んだところだったので、全員が躓くなり発見するなりの恐れがあったはずだ。変に発見されなくて良かった。それで騒がれると少し困る。

「恐らく“シルバー・ハンマー”の仕業だとは思いますが」

 ううん、とこねくり回しながらペトルスが小さく唸った。

「何でこんなことをしたんでしょう」
「理由は何でも思いつくわよ。脅迫か娯楽か意思表示か牽制か愉悦か」

 何にしても面倒な相手なことには変わりない。それは最初に会って話をしたときから何となくは察していた。あいつはどんな殺し方でもする。振り返りざま何の前触れもなくガツンとやる場合もあれば、こうして精神的に追い詰めてから殺人を犯すこともする。さくらが逃げる前、不意打ちを食らわそうとしたあの事実と今とを比較すればそれは容易に割り出せた。恐らくは、精神が安定していないのだ。だから気分に従って思いついたことをする。さっきの理由に“気まぐれ”を加えても良かったかも。

「どうします? 一応分析してもらいますか?」
「まあ……分析は必要ないとは思うけど、そうしたほうがいいのならそうしてくれても構わない」

 もしもこれが“シルバー・ハンマー”の仕業ではなかったとしても、狙われている事実には変わりがないし。逆に殺人鬼のものだったと証明されたとして、それに関連して怪しい男を見かけたとかいう話が湧いて出てくるとも思わない。……或いは真佳の言う“銀の人”が他にいて、そこから買ったものであるかも。やっぱりここで新情報が舞い込んでくるとは思えない。

「……まあ一応、何もしないで置いておいたらカッラ中佐に怒られるので持っていきますよ。望み薄でも最善を尽くすのが捜査ですもんね」

 それで鎚を仕舞ってしまった。もしも狩る側の愉悦を楽しむためがこの理由の大部分であったなら、その一連の流れ自体も“シルバー・ハンマー”は監視していたりするんだろうか。それでも彼を見たという目撃者は見当たらないだろうという自信があった。彼を捕まえるためには間接的な目撃情報や何らかの情報では絶対足りない。もっと直接的に、奴と相対しなければ……。
 そのためには囮しかないことも、さくらはもう随分前から自覚していた。もしものときは……。いや、まだ暫くは、真佳とマクシミリアヌスを信じよう。のどかな昼の教会広場を映し出すその窓を、目を瞑ることで追いやった。

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