分かりやすいことだとさくらは思った。
 つい昨日会ったわけではないのだぞ。戻ってきてそれから真佳がどうするかなんていうことは、大体のことは予想がつく。

「マリオ・ロッシ……」

 確かイタリア語で“匿名”。さくらが今取得している中で、真佳が頑なに言わなかった全てのことはこの“匿名”に収束される。銀の鎚という情報を真佳に下した人間。何者だろう……。まさか“シルバー・ハンマー”本人ではないとは思うが。
 ペトルスが不思議そうにおもてを上げた。独り言を聞きとがめられていたらしい。短く首を横に振った。「何でもない」……今はまだ。



世界のたまご



「そういえばマナカさんがいないんですけど」

 今なのか。思っていたより時間がかかったな。おかげでそれっぽい嘘を用意しておけたことは感謝しておくべきところだけれど(さくらだって自分が咄嗟の嘘に弱いことくらい理解している)。

「マクシミリアヌスのところじゃない」
「……捜査本部に加わってるんですか? 格好の的ですよ」
「本当に犯人を追い詰めていたら危険だけど、それまではまだ安全でしょう。周りには屈強な軍人が――治安部隊員がいるんだし。私の傍にいるほうがよっぽど危ない」
「いてほしかったんですけどねぇ」

 などと肩を竦めて見せるので、思わずはたと動きを止めた。

「……まさかアイツを戦力の一つとして考えてんじゃないでしょうね」
「いやあ……いてくれたら一層守りやすくなるなと思っただけですよ」

 ちゃっかり考えているんじゃないか……。それが護衛対象に向ける言葉か。まあいいや。真佳本人に口走ってアイツを調子づかせなければ。
 大テーブルの天板に突っ伏した。自分の部屋にいてもどうにもならないしこの状況でまさか外に出るわけにもいかないし、結局落ち着いたのは教会宿舎の食堂だ。この部屋にももう随分長い間滞在しているような気がする。さくらが居座れば当然ペトルスも居座り出す。
 右斜め前に腰を下ろしたペトルスの、手元にあるものに視線をやった。

「……小説?」
「いえ、聖書と言うのが正しいです。架空小説は異世界のほうのでもちらほらとしか読まないんですよね」
「ああ……」

 いつも鞄に入れているものかと思った。往診鞄とは別にいつも肩にかけている、生成り色の肩掛け鞄。その中に入っているのをちらっとだけど見た気がする。表紙がすっかり擦り切れた白い書物――中の紙はそうでもないが、表紙のほうは結構しっかりしたものだった。印刷技術に似たものは複製魔術式くらいしか見当たらないこの世界で書物はそれなりに貴重品のような気がするが、国教の聖書となれば話は別か。

「もう随分覚えこんでるような気がするんだけど、面白いの?」
「いや、まだ細部まではきちんと覚えこんではいませんよ。面白い……とか面白くないとかは、あまり考えたことがないです。身近すぎて」

 そういうものか……と思った。さくらだって曲がりなりにも一時期だけ、国教を信仰している者のもとで暮らして週末には一緒に教会に行っていたりもしていたものだが、聖書というのは……熱心に読んだことがない気がする。さらっと一度読んだくらい。かな。

「今は丁度ソウイル神がいかづちでもって罪人を裁いているところです」
「いかづち……」
「ええ。ソウイル神の属性を敢えて考えるなら、カッラ中佐もその身に宿す炎が一般的ですけどね。次いで雷も、聖書を読むとよく出てきます。炎の属性を持つ第一級に次いで、雷の属性を持つ第一級も尊敬される所以がこれです。だからちょっと、密輸者が雷の属性を持っていると思ったときは少なからず驚きました――あれも大分昔の話になりますっけ?」

「……」少なくとも二週間は経っている気がする。最初にこの町にやってきて、ペトルスらと会ってほんの少し日数が経ったときのことだ。思えばあの頃に足止めを食ってから雪だるま式にどんどんと滞在期間が延びてしまった。おかげで色んな人に出会えたし、いろんなことにぶつかった。
 ……最後に脳裏に蘇ったヨハンネス・ラ・ロテッラの姿から、ついさっき通り越した“罪人を裁く”という言葉がリンクした。

「どんな話? 今。聖書」
「聖書ですか?」

 きょとんと問われて淡く微かに顎を引いた。食堂に置かれた置き時計が、秒の数をチクタク刻む。神が定めた一秒一秒を確実に。
 ペトルスが一度聖書のページに視線を落とした。

「……欲望に目がくらんで神に捧げるべきものを盗みとり、更に自分でない旨を神の御前で偽証した罪を問われる話です。しかし神は――“全知全能なるソウイル神、あらゆる事物を起こる以前からご承知でおられる我らが御子”――全てをご存知であらせられるお方ですから、上辺だけの言葉に意味はありません。神から盗みを働いただけでなく何より不信の罪で、いかづちでもって断罪されます」
「……死んだの?」
「いいえ。しかし物に触れる手を失いました。物を見る目を失いました。物を感じる舌を失いました。“この地を感じる両足と、他者に愛され初めて触れられることを許される体だけが男に残された全てであった”――」
「……赤ん坊が?」
「そう、断罪したのはそういう観点から見れば紛れも無く赤ん坊です。しかし赤子であるからこそ他者を断罪する資格があるとは思いませんか? 偏見を積み重ねる経験のない赤ん坊であるからこそ――」

 机の天板に頬杖をついた。そういう見方は考えてみたことがなかった。真実を知っているが故に断罪者にもなる神の姿に、それは確かに似つかわしい。……今まで数々の聖書の話を聞かされたが、ソウイル神が何事かを働きかけたという話はついぞ聞かなかったような気がする。ソウイル神の意思が見えない。多分それは、ここではソウイル神の存在こそが世界そのものであるからだ。
 ――どれほど見事な働きかけをしたとしても、何も変わらねぇんだわ。
 ――やったことは変わらねぇし、
 ――オレの罪も変わらねぇ。
 ……或いは――
 世界に全てを、任せるべきであったのかもしれなかった。

「……私ね、弁護士になるのが夢だったのよ」

 濃緑色の双眸がこちらを向いた。天井から下がる光の帯が眼鏡のレンズをほんの一瞬煌めかした。

「無実の人間を救う役ですか?」
「或いは味方のいない人間のただ唯一の味方になる役。……でもそれほど高貴な目的ではない。私はね、とある事件の犯人の、揺るぎようのない有罪判決が欲しかったの」
「……弁護士が有罪を?」
「多分それほど難しいことじゃないわ。私が手を抜けば、あとは検察官が勝手に有罪に導いてくれる」
「……それは」
「依頼人に対する裏切りよ」

 自分の口で言ってしまえたことでほんの少しだけすっきりした。それでも何も変わらないのに違いはない。
 自分の罪は変わらないとヨハンネスは口にした。さくらの思い描く標的が、同じように報いを受け入れる覚悟を持ってくれているという確信はないし自信もない。ただ、ヨハンネスを見ていると――罪と罰とをありのまま、全てを受け入れ後悔に向き合う姿勢を持った被告人を見ていると……。
 必要以上の罰を与えようとした。独断的に故意的に。私怨でもって執拗に。正しいことであるとは思いついたそのときから一度も思っていなかった。それでも当然であるとは考えた。幼い自分から何の罪もない両親を奪い去った報いであるとは考えた。恐らくは黒い、コールタールに似たどろどろの頭で。

「……一体誰を?」

 ペトルスが口を開いた。開いたままの聖書を一旦閉じて机に置いた。

「両親を殺した犯人を」
「ご両親を?」

 頷く。

「その情報が――ずっと探してたその情報がこの世界にあると聞いて、私はここに留まってそれを探すためにペシェチエーロを出た。真佳もマクシミリアヌスも、それに付き合ってくれている……何でここにあるのかは分からない。でもここにあるというのなら、多分……手に入れるまで諦めない」

 ……手に入れて? それで自分はどうするつもりだったんだろう……。まだ弁護士にもなっていない、断罪するだけの力もない。今この瞬間、その断罪する意思すら迷いの霧に隠され覆われ見えなくなってしまった。……殺そうとでも、思っていたんだろうか。それでもこのまま見過ごして帰るわけには絶対いかない。
 どうすればいいかがわからなくなってしまっていることに気がついた。

「……それで運命鑑定士ですか。成る程、彼らが言うならそれは確かにこの世界にあるんでしょう。あちらの世界とこちらの世界がどういうふうに……いや」

 そこでペトルスは言葉を切った。ゆるゆると首を横に振る。

「あまりそういうことは関係がないですね。ふむ。断罪したければ断罪してくればいいと、ぼくは思いますよ」

 ……思ってもみなかった同意に喜ぶよりも不審に思った。いや、何かを期待していたわけではない。真佳でもマクシミリアヌスでもなく、ペトルスにこうして懺悔した理由も自分で全く分かっていない。期待するだけの余裕は残されていなかった。でも、まさかそうして背中を押されるなんて。

「……赤ん坊だから他者を断罪する資格がある……んじゃ、なかったっけ?」
「それは一般論としての話です。成る程偏見を持たない、裁判官よりも裁判官に相応しい断罪者。全てを知っている神こそ罰を下す権利を持つのに相応しい。でも、今ここにソウイル神はいないんですよ」

 度肝を抜かれた。聖書に手を添え神を賛美し、赤子の姿である神こそがとフォローしたその口で何を……いや、違う、そうだ。以前ペトルスに、熱心な信奉者なのかどうかと問いかけてみたことがあった。教会という神聖な場で、彼ははっきり違うと言った。

「――だからあなたは、行って見てくればいいんです。無論真実というやつをです。真実をご存知である神が断罪者になれるなら、真実を見たあなたも断罪者になれるはずですよ。ただしそれには偏見を、私情を取っ払わなければなりません。結果的にどうすればいいのかは多分、全てを知った未来のあなたが知っているはずだと思います」
「……復讐、なのよ」

 慎重に言葉を紡いでみた。自分でもびっくりするほど弱々しい口調になった。裏切りなのよ、とも小さく言った。考えただけで罪だと思った。だってその行いが真佳にとって大きな傷であることを、無論さくらはずっと知っていたからだ。

「ええ、勿論。復讐ですとも」

 その唇を湿しながら、成人前の男にしては力強い声色で。

「だから見極めて来てください。本当に復讐するに足る相手かどうか。あなたがその手を汚してまで、その後の人生を罪の意識に染めてまでも復讐すべき相手かどうか。その判断は全てを知った未来のあなたにお任せします」
「……」

 いけないことだとは言わなかった。
 ――その代わりに正しいことだとも言わなかった。ただ、信認されていることをさくらは知った。私怨に心を奪われないこと、コールタールの思考に覆われることはもうないこと、真実を見極められる目と脳を、正常に備えているということを。

「……そうね」

 息を吐く。強張っていた肺が少し、空気を抜いたことで軋みをあげた。

「いかづちはまだ振り下ろさない。相手に対しても、自分に対しても。そう……。ありがとう。見極めるために、出来るだけのことをやりましょう」

 眼鏡の奥でペトルスが笑った。純粋で満足気な微笑みとは違うけれど、そこには確かに信頼があった。それから少しの懇望が。その微笑をさくらは前に見たことがある。単身日本に戻ることを決めたとき、アメリカに居住する叔母夫婦が最後に見せた微笑と同じ――見守ることを決意した、背中を押すときの人のそれ。
 ――ここにここまで残ることになって本当に良かったと、強く思うよ。
 口には出さなかったが呟いた。
 ペトルスに話して良かった。
 おかげでまた前に進める。今の現状と戦える――。
 ……ガタンとどこかで何かが倒れる音がした。

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