二階の窓から飛び降りるためのスキルが上がってきたような気がする。
 真佳の部屋から開けた窓はどれも側に足場に出来そうな樹木はなく、以前やったみたいなやり方でシーツを結んで飛び降りるしかないかとも思ったが、ベランダもない垂直の窓の下に幅数センチの足場に出来そうな部分があった。靴底をつけてから両腕を目一杯伸ばしてぶらさがって、そしたら二階の高さも飛び降りるための障壁から遠ざかる。
 砂埃を立てて降り立って、窓の一つを仰ぎ見た。真佳の部屋と同じカーテン、同じ窓、同じ窓枠――。窓の向こうのさくらへ向かって護持の誓いを立てながら、見咎められる前に駆け出した。




2D数値不明



「……ううん」

 石かコンクリートかで固められた硬い地面の砂利を靴底で一度じゃりっと擦った。狭い部屋だった。そういえばそう詳しく見た覚えはなかったかもしれない。どの時期もそんな余裕なんて全くなかったものだから……。
 基本的には正方形。戸口から奥のほうまで床と言えば砂利だらけで、奥のほうには火炉がありその手前には金床がある。冑を被った風変わりな男がよく使っているハンマーはその上にきちんと並んで留守番していた。戸口と火炉を繋ぐ直線から右に外れたところには小ぢんまりしたテーブルと、背もたれのない簡素な椅子が二脚だけ。その向こうに置いてあるボロボロのシーツで覆われた長方形の物体は、多分男の寝床だろうと思われる。
 寝床にも砂埃が付着していた。
 洗濯というものをしたことがあるのだろうかとそこで若干心配になる。
 火の消えた火炉を見ながら、「ううん……」ともう一度だけ短く唸った。部屋はこれだけだった。続きの部屋はどこにもないし、地下室なんてものもない。二階もない。ここに来たらあの男に会えるかとも思ったのだけど……無駄足だっただろーか。それとももう少し待つべきだろうか。ここが完全なる仕事場でないことは確かだろうし、どこかへ行ってるだけかもしれない。
 ――あまり時間はないんだけどなあ……。
 教会の人間がさくらを囮に使う前に、何とかして“シルバー・ハンマー”の首が或いはそれに相当する情報を真佳は獲得しなければならないのだ。マクシミリアヌスもそうやって、あれから宿舎に帰ってすぐに捜査本部に顔を出すと出かけて行った。今、さくらの隣にはペトルスが仕えていることと思う。あんなことがあったのだから、真佳がいないと気付いてもペトルスがさくらの傍を離れることはないだろう。
 ……思えばここへ来るときっていうのは、その全てが時間がないときだったのではないか。アートゥラのときもペトルスのときもそして今、さくらのときも、焦燥感に駆られてここに来た。何か答えを掲示してくれるような予感がして。ペトルスのときも、そうやって手を貸してくれたから。
 ……甲冑を被った男の許可はまだ出ていない。
 そもそもどうやって許可が出るかもわかっていない。ただ、手助けしてくれた恩返しとして、せめて心に封じただけだ。だから誰にも話していない。死ぬまで言うなと言うのなら、多分恐らくそのまま墓場まで持ち帰って行くのだろう。さくらを助けてくれたなら――より一層、例え意固地になってでも。
 戸口の砂利を誰かが踏みしめる音がした。

「……誰であるかと思ったら」

 振り返った先で冑を被った男の頭部が、鈍く銀に煌めいているのを目に留めた。ワイシャツにスラックスという基本の服装に変わりはない。頭だけ異様にでかい鉄兜も。思えばこうして屋外の昼間に彼を見るのは初めてだ。昼間でも普通に外に出るのか。すぐにはそのことに気付けなかった。
 火炉に向けていたつま先を冑の男に向かって揃えた。

「……えーっと」

 そういえば何て切り出したものか全く考えていなかった。というか、どこから話していいのやら……。非日常的なことが例によって例の如く津波のように起こったので舌が上手く回らない。
 甲冑男が持っていた包みを机の上にごとんと置いた。
 食材の買い出しにでも行っているのかと思ったけれど音から考えるにどうやら違う。鍛冶屋の仕事の道具だろうか? そういえばこの部屋、キッチンがないな。出来合いのものでも買ってきてるんだろうか。

「教会に現れた落書きの話だね?」

 ……一瞬
 心臓の動きが止まるかと思った。それほどまでに驚いた。固まった空気が喉のところをやっと通った。

「な……何で知ってるの……」
「何でも知ってる。調べてるからね」
「……何を?」
「“マルテッロ・ダルジェント”。いや、落書きで署名されていたのは“シルバー・ハンマー”だったね。どちらでも私は構わないけれど」

 調べている……。以前に商人“銀の人”に出会わせてくれた日のことを想起した。一体どこまで調べているというのだろう……。教会だって掴めていなかった情報を。落書きがあそこに現れたのは、本当につい数時間前の出来事だぞ。
 ……男の持っていた紙袋の中身の中に、薄い鋼色の物品があるのが目についた。重い頭部を持ったT字型の……。
 首を振る。まさか。薄鋼色のハンマーなんてどこにでも売ってる。“シルバー・ハンマー”が使うのは自らの魔力で創ったものだ。

「……その落書きに書かれてた女神が、私の友達ってことになっている」

 ……どうやら冑の中にあるその瞳は、少しく驚きで瞬かれたようだった。可動式バイザーがこっちを向いて、それに要するだけの時間が沈黙に支配されたからそれは確かであったと思う。

「……驚いた。君は思った以上に事件の渦中に潜り込んでしまう体質のようだね」
「嬉しくない」

 つんと唇を尖らせた。喉の奥でくつくつと笑う音がした。甲冑男独特の篭ったような笑い声。

「では丁度良かった。“この手に”というのが、私にはわからなかったのだ。彼は君の友人に、よもや恋慕の情でも抱いてしまったのではなかろうね?」
「……多分それを言うと、とても苦々しい顔をされる」

 ラブレター?と冗談交じりに聞いてみたらばそれとおんなじ顔をされた。その手の冗談は彼女にはあまり言わないほうがいい。まあ命を狙われているのだから当然といえば当然だけど。

「宣戦布告だよ。さくらを――私の友人を必ず、絶対殺すという、“シルバー・ハンマー”からの挑戦状」

 冑の中で男の気配がびくりと一瞬痙攣した――
 ……ような気がした。
「なるほど」と男は言う。

「それで焦っているわけか。だがそれだけではないね。何かな。教会の人間に何か言われたか。彼女を囮にするとか何とか――」
「な……何でそれを」
「おや、図星だね」

 言ってから呑気にふふっと笑った。ふふっ、じゃねぇ。本当に真佳が焦っているのを理解しているのか疑わしいほどの態度である。

「……別に今すぐにと言われたわけじゃない。さくらの意思も聞いてくれるって言った。それでも聞き入れてくれないならば逃げればいいとも。でも多分さくらはそれに同意をするし、だから私は」ああ頭がこんがらがってきた――「囮の話が持ちだされるまでに、どうしても」
「“マルテッロ・ダルジェント”を捕まえなければならない」

 ……そうなる。
 たった一言で済ませるところを、長々と回りくどい言葉を綴ってしまった。今まで見つめた“シルバー・ハンマー”の犠牲者が持つ様相が、チンクウェッティの執務室を出たときからずっと頭の中にちらついて離れない。頭を中心に叩きつけられえぐられ果てた死体、皮膚に付着していた銀の欠片、陥没骨折――考えるな。さくらの姿で考えるな。

「果たして私が君の助けになれるだろうか」
「……なってくれる、ような気がした。ペトルスのときみたいに」
「あれはたまたま、私のほうが君たちよりも多くのものを知っていたというだけに過ぎない」
「今回の場合もそうであるかもしれない」
「成る程、お説尤もだ」

 簡素な椅子の一つのほうに腰を下ろして、紙袋に入ったものを丁寧に取って机の上で分け出した。トンカチや鍛冶屋ハシや鉄や鋼やよく分からない鉱物のもの――やっぱりほとんどが鍛冶屋で使うような代物ばかり。何かの基準に従ってより分けていく最中に、冑の男が口をあく。

「――今回の件、残念ながら期待に応えず然程物を知っているというわけではない。落書きの目的すらも理解していなかったのだから、そのときに幾らか予想はついただろう?」

 ……ああ、とだけ心の中で頷いた。頷くのに一拍かかった。認めるとそこで手がかりを失ってしまう気がしたからだ。幻覚にしがみついている暇など少しもないことくらい、理解しているはずなのに。
 男が小さく頷いた。可動式バイザーの尖ったところがそこで少しく上下した。

「恐らく今、その彼女の情報がある分教会のほうが進んでいると言ってもいい。双六という言葉は知っているね? 一つか二つ、進んだコマが多いわけだ。こちらは少し遅れている。しかし今君がその情報を私に渡してくれるなら、五つ未来を先行出来る」
「……? え? ってゆーと……?」
「言わなかったかな。調べていると。教会のようについ最近のことではない。もう四年も前のことからだ」
「四年……?」

 だって。
 ……だって、と続けようと思ったが、冑の向こうに潜んだものに圧されて思わず口を噤ました。“シルバー・ハンマー”は。――心の中で補足する。“シルバー・ハンマー”は、今からきっかし二十日前から犯行を開始していたはずだ。四年前には――……四年前の“シルバー・ハンマー”だって、人として生を受け続けていることに変わりないことにこのとき初めて気がついた。二十日前以前にこれと同じような犯罪を犯していても不思議では……。でもそうしたら、事件の記録や前科の関係で教会はすぐに犯人の正体を掴めるはず。教会にはバレなかった犯罪が過去にあった? それが四年前?……教会にも知られなかった犯罪を、何でこの人が知っているんだ?

「恐らく……」

 非日常的な頭部を持った男がからになった紙袋を一つの平面に折りたたみながらそう言った。窓から差し込む微弱な陽光が新しく加わった道具の数々を不景気な色味で照らしている……。男の言葉に迷いはなかった。

「恐らく、殺すと決めたからには必ずそれを成し遂げるだろう。“マルテッロ・ダルジェント”が獲物を仕留め逃すなどこれまで一度も無かったことだからね。執念深さは恐らく私などの比ではない……」

 そこに黒い光が見えた気がしてどきりとした。……何だろう、薄暗い希望。一見絶望にしか見えない光。

「……君の友人を救うのは並大抵のことではない。刺し違えるだけの覚悟というものが必要だ。君は彼女のために、果たして自ら死の淵にその身を投じるだろうか?」

 一瞬だけ冑の中の双眸と目があった――気がした。赤い光が見えた気がする。或いはそれは真佳の双眸そのものか。鉄の冑の表面に自分の顔が映り込んでしまっただけであるかもしれない。
 覚悟……。さくらのために自ら死の淵に身を投じる覚悟、だって?
 ――男が微笑った。
 薄く湖面を叩くような、凪のように静かな笑声だった。

「よろしい。では、賽を振る準備はよろしいか?」

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