最初に見たとき、すぐにそれを文字とは認識出来なかった。この一ヶ月、日本語というのを全くこの目で認識する機会がなかったからだ。それ故にその壁に書かれた文字は特殊であると言ってもいい。
 一瞬それは血だと思った。
 白い壁に真っ赤な色で書かれた文字列。真っ赤なペイントを噴霧して書かれた日本語で、簡単に言えば落書きに分類されるもの。特徴的とも没個性的とも言える筆跡で、縦の線が往々にして普通より長い。首都、ペシェチエーロにも、ここ、スッドマーレででも落書きというものをあまり見たことがなかったため異常と言えば異常であった。でも目を引くのはそこではない。
 下のところに署名があった。やっぱり縦の線が少しく長い、線で引いたような堂々と且つ淡泊に過ぎる筆跡で。

「……シルバー・ハンマー……」

 書かれた文字を口にする。苦々しく又呆然と。まさかこう来るとは思わなかった……。何かアクションを起こすとしてもまだまだ先で、しかもそれは直接的なものだと思っていた。教会の、ただの教会じゃない、この国で最も神聖視される神、それに仕える者たちの集う教会所有の神聖なる建造物の外壁に、まさかそんな堂々と、記名までして――。冒涜罪という言葉が頭を過ぎる。もしも奴が捕まった場合、裁判において殺人罪と合わせて冒涜罪を問われることは恐らく必定。この国で冒涜罪がどのような刑罰を科すのかさくらは知らないが、しかしこれまでの教会周りの動向を見るに死罪があっても不思議でないことは確かであった。それを“シルバー・ハンマー”が知らないはずはなかろうに。それでもこうしたということは――間違いない。何かの手違いや悪戯などではあり得ない。
 これは、“シルバー・ハンマー”からの挑戦だ。
 ……マクシミリアヌスが視軸の先をこっちに向けた。

「……一応聞くが、君は正体を特定されるようなことを何か言ったか?」
「言うわけないでしょうが」

 さくらだって挑戦状がわざわざ日本語で書かれたことに戸惑っているぐらいである。日本語で言葉を交わしたことから何らかの推測をされたんだろうか。異界語を好んで使う民族の出だと思われた? きっと礼儀に適いそれに合わせてきたんだろう……。本当に全く見通せない。

「“女神をこの手に。シルバー・ハンマー”」

 壁面の前にしゃがみ込んでわざわざ声に出して読んでから、真佳も視軸をこっちにやった。

「……ラブレター?」
「んなわけあるか」

 知ってるくせに。苦く思った。これが何であるかなんて考えるまでもない。名付け親たる姫風さくらを自分のこの手で殺すのだという宣戦布告――成る程、マクシミリアヌスが伝えるか否か迷っていた理由がよく分かった。米噛みの辺りがちくちくちくと痛み始める。指で揉む。マクシミリアヌスを傍聴席まで呼びにきた一等兵が、マクシミリアヌスの隣で必要事項を伝達していた。マクシミリアヌスに合わせてのものか知らないがそれらは全て異界語だった。

「発見したのは宿舎の修道女で、今から約十分前です」
「十分? 随分時間が経過しておるな」
「はあ。修道女に報告された人間もマルテッロ・ダルジェントのものであるか半信半疑だったので……。マルテッロ・ダルジェント捜索班に報告すべしと決められたのは、これが教会の聖堂に落書きするのと同様の趣旨であるという考えが下ってから後のことで」
 どこか腑抜けた言いようにかは知らないが、そこでマクシミリアヌスが渋面を作った。「……よかろう。それで俺に報告しろと提言したのは一体誰だ?」
「チンクウェッティ大佐であります」

 なるほど、とマクシミリアヌスが口の中だけで呟いたのが篭って聞こえた。昨日のことをチンクウェッティが知っているはずはないから、単に本事件においてマクシミリアヌスに多大な信頼を寄せているか、或いは獣の勘でも働いたのだろう。どちらにしろいい判断だった。

「目撃者は」

 マクシミリアヌスが短く言う。

「今のところはまだ。ここは教会敷地内の入り口に立ってもよく見える場所ですから、すぐに見つかるとは思いますが」
「見つかるといいがな」

 とマクシミリアヌスがぽつりと言った。
 視線の先でゆっくりと周辺の景色を薙ぐ。右手のずっと後方にさくらが“シルバー・ハンマー”に襲われた起点でもある下層へ下りる階段があり、そこからずっと右に視線と足を動かすと真後ろよりやや左側にさくららの泊まる宿舎の外観を見渡せる。そのまま視線を動かすとスッドマーレの教会だ。本日はジュラの日(ダガズの日を日曜日と仮定するなら月曜日)のため聖堂に立ち入ったものは数えるほどしかいないだろうが、教会の人間や裁判の傍聴、その他様々な用事でスッドマーレ教会支部等に用のあった者はそれなりの数いるはずだ。一等兵の言うとおり、これから聞き込みを進めていけば目撃者に当たる可能性は高いようにも思える。が、さくらはマクシミリアヌスが言外に含めた言葉のほうに賛成だった。多分見つからないだろう――そう簡単に捕まるようなタマではない。そうであれば苦労はしない。

「……本物のマルテッロ・ダルジェントに、関わり合いになったんですか?」

 抑揚に乏しい断片的とも取れる声が頬にかかって、教会の尖塔に向けていた目を左方向にシフトした。相変わらず猫背気味の背格好で、ぼさついた髪の隙間から微妙にこちらとはズレた位置を凝視している。目の下の隈は未だ拭い去られる気配がない。
 言外に含まれているに違いない「よく事件を引き連れるんですね」云々というような皮肉った言葉は敢えてここでは受け流し、別のことを口にした。

「ヒエロニムスさん、裁判から抜け出してきて良かったの?」
「抜け出して来たのは僕だけではないんで」

 と言ってラ・ロテッラ家の長男は視軸の先を更に別のほうにシフトさせた。何を見つめているわけでもない、ただ誰とも視線の合わない場所を探しているみたいだ。

「……このことは他言無用だ」

 マクシミリアヌスが低く言う。ヒエロニムスは分かってますよと言わんばかりに小さく首を縦に振った。
 マクシミリアヌスのほうを振り返る。そのまま裁判に戻るでもなく突っ立ったままのヒエロニムスを気遣って、少しく声を低くした。

「……どうする? 裁判は私たちのいないうちに終わらせてもらって、先にシルバー・ハンマーの話をしてもいいけど」
「いや……うむ……」

 考えこむだけの間があった。出来ればこの厄介な落書きの意図は早いところ捜査本部に報告すべきと思うのだけど、裁判のほうは裁判のほうで判決によっては人命に関わることである。どちらを優先させるべきかというのは難しい。
 ……そういえば、ヒエロニムスがいるということは裁判は一旦休廷に入ったのだろうか? まあどちらにせよ、主尋問と反対尋問が無事終了したのだから審理が終わるのにそう時間はかからないとは思うけど……。

「いいよ。とりあえずは裁判を見届けよう」

 ……そう発言したのはそれまでそこにしゃがみ込んで落書きのところどころを凝視していた真佳だった。思わぬところからの提案に思わずマクシミリアヌスと二人目を瞬かせる。ペトルスが怪訝に眉根を寄せた。

「……いいんですか? 多分捜査本部、頭を抱えてるか或いは関係ないこととうっちゃってゴミ箱に捨てるかしてることと思いますよ」
「いーよー。とりあえずヨハンネスのが重要だ。オエライサン方は精々暫く頭を悩ましていればいい」

 いつも以上に投げやりで真佳らしくない返答に眉根を寄せた。立ち上がり様微かに揺れた癖を帯びた黒髪が、真佳の背に沿い収まった。

「……何怒ってんの?」
「別にぃ」

 当たり前のようにそっぽを向かれた。この場合怒って然るべしなのはさくらのほうだと思うのだけど。他人の命を弄びやがってと。

「まあ……そうさな」

 とマクシミリアヌスが取りなすように口にした。

「この件について知ってはいるが、今すぐ話す時間がない、此度の裁判が終わって後即刻参上つかまつる……と、チンクウェッティ大佐殿に伝えてくれんか。何、そう騒ぐほどのことはないとも……それから言っておくが、女神を無碍に扱うことは死罪を意味するが(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)よろしいか、とも」

 疑問符を含めた視線で大男のほうを仰ぎ見た。何らかの返答を期待していたのだが、マクシミリアヌスはそれには答えず一等兵のほうに「分かったな」と念を押す言葉を重ねている。「は……、は!」気迫に負けて一等兵が敬礼を返した。こけつまろびつする勢いで一等兵が慌ててその場を離れていく。冒涜罪としてか“シルバー・ハンマー”に関する捜査のためかで集まっていた他の兵や下士官が何事かというふうにぎょっとして一等兵のほうを見つめていく。
 全く……。ただでさえ連続殺人犯に命を狙われて参っているのだから、予測のつかない言動はこれで終わりにしてほしい。真佳もマクシミリアヌスもぴりぴりしすぎる……。これでは必要以上に不安が募る。

「ヒエロニムス」

 と真佳が言った。前髪をいじくりながらしげしげと働く治安部隊員を見やっていたヒエロニムスが暗い視線を真佳へやった。敬称をつけなかったことに関して、彼は特に何も反応を返したりはしなかった。

「裁判はまだ続いてるかな」
「ああ……」頷く。「休廷中だと思いますよ……。少なくともあなた方が出て行って、しばらく質疑応答はありませんでしたから。そう長い時間は待ってないとは思いますが、それなりの時間はあなた方を待っているんじゃないですかね……」

 ……自分の兄の裁判だというのに他人ごとのように話すのだなと思ったが、多分そうではないんだろう。ヨハンネスと同様、彼もこれがどうにもならないことだと知っている。ただ、ヒエロニムスのこれは彼の兄貴のようなものではないかもしれない。どちらかというと、ヨハンネスのそれより諦めの色が濃く見えた。或いは……作り上げた失望で激情を押しとどめているだけかもしれない。

「じゃ、戻ろう。最後まで見届けきゃいけないから」

 そうして誰より先にこの場を離れたのは真佳だった。……見届けるって、死罪が決まるまで? 罪を認めたまま獄中で死亡するまでだろうか?……何でもない一言が心の臓の送り出す血を黒くする。ついさっき聞いたヨハンネスの供述が心のどこかに打ち込まれたまま抜けないでいる。私は……私は間違っていた(・・・・・・)……?

「サクラさん」

 促されるように肩をぽんと叩かれてびくりとした。目線より低いところでペトルスがこちらを見上げていた。

「これからはより一層ぼくたちがあなたの周りを固めます。わざわざここに宣戦布告を残したということは生半可な護衛では間に合わない。それはあなたもよくご存知だとは思いますが……」
「大丈夫。わかってる」

 一瞬“シルバー・ハンマー”の件を言われているのだということに気付けなかったが、おかげで正気を取り戻した……。その件について考えるのは後にしよう。今はどう“シルバー・ハンマー”に対抗するかのほうが大切だ。

「さくら」

 だいぶん教会支部の戸口に近付いたところで真佳が不意にアルトの音域を口にした。

「私が絶対護るから」
「……。……恥ずかしい奴」

“シルバー・ハンマー”の挑戦状に背を向けた。



――女神をこの手に

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