傍聴席には思っていたより人は多くなかった。下層に住まう者にはそもそも裁判が開かれる旨の掲示を見に来る余裕もないのか、それともスッドマーレ支部教会内部にある裁判所にまで足を運ぶことに気後れ染みたものを感じているのか、そこの辺りはさくらには分からない。或いは事件からそう時間が経っていないことが影響しているのかも。裁判で言及される事件の内容からなのか、いわゆる富裕層から召し使われた使用人らしき人物がちらほら見えた。 裁判官は全部で七人。内真ん中に陣取った人物の席が一段高く、恐らくこれが裁判長かと思われる。壁のように立ちはだかる裁判官席の前方に左右それぞれ斜めに傾いだ長卓が置かれ、そこに一人ずつが立って待っていた。向かって右側が弁護人だろう。自白事件なのでこちらは情状立証を行わなければならず、資料のほうに熱心に目を向けている。ただし検察官だって悠々としてはいられない。相手は富裕層の、しかも教会側の人間だ。教会側の人間には自然判定が甘くなる。――或いは彼はそれも見越した上であそこに立っているのかもしれないけれど。 「合議審?」 とさくらは言った。マクシミリアヌスが「ごうぎ……?」と眉根を寄せて、真佳を挟んだ向こう側に座するペトルスがひょこりと頭を覗かせた。 「話し合いって意味でしたっけ? だとしたらそうですよ。教皇の補助機関――つまり、ええと元老院と言うんでしたっけ? これの下院から選出された六名と上院からの一名、計七名が裁判官に当たります」 「下院……上院?」と真佳が言った。 「意味合いはそちらのほうとおんなじです。上院がスッドマーレ支部教会や教会関係者の代表、下院が町民の代表ですね。人数的に下院のほうに分がありますが、発言力は上院のほうがあると聞いています……」 ペトルスがマクシミリアヌスに窺うような視線をやって、それでマクシミリアヌスが心得たというように頷いた。 「まあ基本的には下院の判決通りに通ることが多いがな。しかしそれが聖典に反するものであったり、下院がその義務を放棄して町民の不利益になり得る判定を下そうとしたとき、それを押し留めるのが上院、つまり裁判長の役目であるとされている」 視軸の先で傍聴席よりもずっと高いところにある裁判官席を一薙ぎした。聖職者を表す白の法服は、“何者にも左右されず裁判に臨む”という意味合いを持つ黒の法服に見慣れている目には眩しすぎる。 被告人、つまりヨハンネス・ラ・ロテッラは弁護人側の位置に座していた。傍聴席の正面にこちらに背を向けて座っているのが情状証人たるテレサ・ラ・ロテッラ。引っ詰められた黒髪は最初に出会ったときほど昂然と傾いてはおらず、時折ちらちらとヨハンネスのほうを覗き見ている。彼の兄に当たるヒエロニムスは傍聴席の一隅に一人で座っていた。父親の姿は見当たらない。 ヒエロニムスとも被告人とも、証人とも離れた位置――傍聴席の左側最後列から見回してみて、特に目につくのはそれぐらいのものだった。あと目を引かれるのは裁判官の後方、左右に屹立する恐らく術者か。録音環境をチェックするみたいに幾つかの魔術式を重ねている。多分これが記録係。 今回の裁判はある意味特殊だ。きっと誰もが気付くことになるだろうけど、その理由を悟った者はこの傍聴席にはさくららとヒエロニムスぐらいしかいないだろう。ヒエロニムスだって本当の理由は知りっこない。ただ単純に、この件に深く関与している“異世界人”のために全ての言語を異界語にして進めるのだという真実は。 裁判長が弁護人、検察官、左右それぞれに目をやって、入り口付近、つまりこちら側にある時計の針を確認してからカツンと静かに木槌を振るった。――銀の鎚の存在をほんの少しだけ想起した。記録係の片方が声高らかに宣言する。 「事件番号四十五号」 裁判の始まりが謳われた。 |
黒白―KOKUBYAKU― |
彼の母親の供述は簡単だった。あの子は何も悪くない、ある悪い人間に唆されただけだ、ちょっとした出来心でクスリをやった、全てはその人間が悪い、クスリが動機なのだから、殺人の動機をもたらしたのも遡ればその男のせいである――。弁護人も検察官も裁判官も、尋問者の如何に関わらず質問を無視してそういったことばかり口にするものだから質問の前に何度も注意をしなくてはならなかった。 父親の名前を出さないことを不自然だとも思わなかった。恐らくこの裁判の人間はマクシミリアヌスやあの太眉の一等兵らの発言からその事実を既に理解しているだろうが、夫人はそういうことにはお構いなしでただ自身の家庭を守りぬくことに懸命だったのだ。裁判官らが主人の名を口にしようとしないのは、健気なまでの夫人の気持ちを汲みとったのか、はたまたただ単にくだんの男が高い地位にいる男だったからなのか、さくらには詳しいことは分からない。或いは、多分分かりたいとも思わなかった。 被告人、ヨハンネス・ラ・ロテッラの尋問はそれに比するとシンプルだった。自分がやりました、はい、はい、いいえ、はい――詳細を必要としない質問にはイエスかノーかで簡潔に端的に答え切るが世界に絶望したような影は無い。前の世界にいた間、刑事事件、民事事件に関わりなく頻繁に審理を傍聴するよう気をつけていたさくらにとって、そういう男は非情に珍しく視界に映った。反省して必要以上に殊勝になっているわけでもない、だからと言って開き直っているわけでもない、審理を有利にしようと演技しようという気は全くない。 もしも自分がこの時の弁護人だった、なら――。 「ところで」 と検事のほうが口にした。 「あなたの代わりに、一時期とある人物が罪に問われていましたね」 視線を思わずペトルスのほうに投げかけた――真佳のほうもその時ちらりと同じ方向に視軸をやったらしかった。「ええ」とヨハンネスは間髪入れずに言葉で返す。 「あなたはこの方と知り合いでしたか?」 「いいえ」 「名前は知っていましたか?」 「はい」 「何故名前を知ってましたか?」 軽く片肩を竦めて、「町の医術士をしている人間の孫だったからです」 「では、そのお孫さんの祖父に当たる方とはお知り合いでしたか?」 「日常会話をするほどではないですが、はい」 「お名前は知っていたと?」 「はい」 「何故知っていましたか?」 「うちの祖父を診てくれたのが彼だったからです」 「異議あり、本件とは関係のない事柄です」 ここで割り込んできたのは当然弁護人のほうである。朗々とした若々しい声でもって口を挟んだけれど、オールバックに白髪の混じった検察官のほうに揺らいだような様子はない。多分検察官側にとっては想定内の出来事だった。 「容疑者と見られていた彼と被告人との間の関連性を尋ねる質問です」 ――裁判官と裁判長がそれぞれ視線を交わし合った結果、代表して裁判長が頷いた。弁護人がそれで静々と口を閉じ、検察官が更なる問いを被告人に投げかける。 「あなたの祖父はそれでどうなりましたか」 「亡くなりました」 「それは医術士に診てもらってからですか」 「ええ」 「それを医術士のせいであると思いますか」 「いいえ」 「それは何故ですか」 「もうすっかり寿命であったからです」 「あなたはご自分のお爺さんのことはお好きでしたか」 「ええ、好きでしたよ」 「亡くなられて悲しくはありませんでしたか」 「その時は」 「今はどうですか」 「まあ苦しまず寿命を全うして神の御下に召されたわけだから、あれで良かったんだと思いますよ」 「一時期、どなたかに医療ミスだとか何とか零したことはありませんか」 「そうですね、亡くなってすぐはそうでしたね」 「その件で医術士を憎んだことはありませんか」 検察官のその質問に、ペトルスの膝が微かに跳ねたような気配がした。 「そりゃ昔はね――」被告人がそれに軽目に答える。真佳を飛び越して横目でペトルスを窺うと、彼は硬い表情でヨハンネスのほうを凝視しているようだった――いつもは滑らかに動く唇が、この時ばかりは石のように硬く閉じていた。検察官が次の問いを重ね始める。 「では今は憎んでいない?」 「それほどには」 「そもそもあなたは事件当時、あなたの代わりに容疑をかけられていた彼が、あなたの祖父を診ていた医術士のお孫さんだということは知っていましたか」 「知ってました。有名ですから」 終わります、と検察官が口を閉ざした。むう、と隣でマクシミリアヌスが小さく唸った。小声で呟く――「故意であると言いたいわけか」。 そう、検察官の言いたいことは正しくそれだ。殺人を犯した、クスリをやった、そこまではいい。被告人が自ら認めているのだから争う余地も疑う余地もまるでない。ただ、彼はペトルスを罪に陥れたことが故意であるとは認めていない。あそこにペトルスがいるとは思ってもみなかったし、最初から犯人は“シルバー・ハンマー”だと教会に思い込ませるつもりであったと言っている。 さくらはあの時、確かにヨハンネスはペトルスを被疑者に仕立てあげようとは露ほども思っていなかっただろうと指摘した。しかしそれは飽くまでさくらの見解だ。検察官が向かうと定めた道は、残念ながらそこではなかったということだろう。 では裁判所のほうから少し質問させていただきます、というお決まりも文言は、裁判長のすぐ左隣から上ってきた。 「あなたは」 と法衣をまとった男が言う――もしも自分がこの時の弁護人だったなら、と一瞬だけ考えたのを想起した。 「結果が怖くはないのですか?」 は?――という戸惑いの空気は証人席から上がってきた。裁判長が陣取る裁判長席のその眼前、弁護人と検察官に挟まれた正しく法廷の中央から湧き上がった戸惑いは、傍聴席の足元を微かに掠めさわりとした僅かな音が宙を舞う。 尋問者である裁判官に目をやった。さくらが質問してみたいと思った正にその質問を、彼は被告人に投げたのだ――。 ぱちくりと被告人が瞬きをするだけの間が要った。 「怖い。はあ」 答え、ではなく反芻。背もたれを軋ませてヨハンネスが座席にその背を預けきったらしかった。 「正直なとこ、あんまり」 「それは何故ですか?」 「何故ってなあ……。もう恐怖の時間は過ぎたって言うのが正しいのかね。なんつーか、そう。俺の場合初っ端から罪を認めてたわけじゃあないだろう?」笑って、「その間の恐怖は相当凄まじかったぜえ? 何せいつバレるか分からないときたもんだ。そこへ来て関係者全員を集めた犯人探しなんか始まったもんだから、逃げ場もない状況でどうしようかと。あの探偵役は大層な気迫だったなあ」 と言ってくつくつと笑った。最初に彼に会ったとき、あのラ・ロテッラ家の食堂での彼をどことなく彷彿とさせる言い方だった――薄く笑う。そっちこそ、犯人探しというあの状況で随分肝の据わった言動をしていたくせに。 「だからまあ、全てが露見してしまった今特別何かを怖がる必要はないんだよ。俺や弁護士や、或いはそこにいる検事や何かが――どれほど見事な働きかけをしたとしても、何も変わらねぇんだわ。やったことは変わらねぇし、オレの罪も変わらねぇ」 ヨハンネスの背に視軸をやった。……多分ヨハンネスは、ここにさくららがいることを早い段階から知っている、と、何気なく思った。 ――働きかけをしても――変わらない―― 唇の上だけで反芻した。嫌な具合に心臓が跳ねた。不穏の正体を間違いなくさくらは知っている。 ――私は。 黒い血液を吐き出し続ける心臓を、服の上から左手でもって押さえつけた。刹那――。 「Tenente Colonnello Carrà」 マクシミリアヌスを挟んだ左隣から、抑えた硬い男の声が飛んできた。驚いて左に視軸を移す。裁判官はとうに次の質問を開始している。裁判中、私語は基本的に厳禁だ。その男も多分分かっているのであろうと思う。肩章は一等兵だが太眉の彼ではなかった。腰をかがめて一層低声で、マクシミリアヌスに向かって男は言う。マクシミリアヌスが男を見上げて片方の眉を跳ね上げた。瞬時にさくらのほうを振り返る。 マクシミリアヌスの軍服の袖を掴んだのは実に咄嗟の判断だった。 「何?」 「いや――」 「私に関わりのある物事なら私に言ってくれないと困る」 口をぱっくり開けたまま、マクシミリアヌスの視線は真佳やペトルスのほうへ、それから裁判官のほうへ向いていた――傍聴席での事態を察知したのか、質問も回答もなされぬまま何人かが不思議そうにこちらの状況を窺い見ている。 ヨハンネスと目が合った。 そこに特別の色はなかった。黒い色も白い色も。何も。 「〜〜〜っ、仕方ない!」 大声でそう言い置いて、さくらに袖を掴ませたまま大きな所作で立ち上がった。「ちょえ、」大男の上腕を掴んでいたさくらも当然腰を上げることになる。 「一理ある。来たまえ。君たちにも関係のあることだ」 歩き出す直前さくららにだけ向けて発せられた一言に、吹っかけた側のさくらのほうが逆に一瞬怯ませられた。 |