――……。水の音が聞こえた気がした。閉じた瞼を押し上げる。……ここは一体どこだろう? さっきまでそこにあったはずの月夜の天が、いつの間にかモルタルか何かで整えられた丸みを帯びた素朴な天井に代わっていた。天井の中心に近いところに見慣れないカンテラがぶら下がっている。マギスクリーバーが取り付けてくれるようなタイプのものではなさそうだったから、多分手動で火を入れて灯りを取るためのものだと思う。然程裕福な家ではない……ことは容易に分かった。段々意識が覚醒してくる。

「っ!……」

 ……覚醒したと同時に強い痛みに襲われた。多分切れているのだろう。焼けるような鈍痛と、ほぼ同時にピリッとした鋭い感覚。手で患部を触れてみたところ、びちゃっとした感覚にぶち当たって一瞬最悪のケースを想像した。視界の端にひょっこり覗く黒目が二つ。

「起きた!」

 楽しそうな拙い口調で。

「サクラお姉ちゃん起きたよー! お爺ちゃーん」

「おお」だか「ああ」だか、どこか別の部屋のほうから老人が答える声がした。聞き覚えのある声だ、どちらの声も。それでなくてもさっき一瞬視界に入った、落ちていくのか浮いていくのかもわからないほどに吸い込まれる濡羽色の瞳ですぐに分かった。

「……アートゥラ?」

 宇宙の双眸が視軸に戻って嬉しそうにはにかんだ。




あめつち



 指先に触れたびちゃっとしたものは濡れタオルだった。頭に傷があったから手当てをして包帯を巻いて、少し腫れているようだったからとアートゥラの父親が濡れタオルをかぶせておいてくれたらしい。それを父親が家を空けた隙に手中に収め、熱を出した子を診るようにタオルを濡らして患部に当ててまた濡らしてを繰り返していたのがアートゥラだった(またタオル濡らしましょうねとお姉さん顔で言われたがまだまだタオルはひんやりしている。結局負けて渡したが)。

「アルブスが今度はお嬢さんを見つけたんだ。こうやって君を救えたんだから、アルブスには本当に感謝しているよ」

 聞く者の焦燥感すら和らげそうなのんびりした口調で老爺は言った。ベッド脇に老爺と並ぶ第一級魔力保持者特有である眷属に、目線でもって礼を示した。白い毛並みを持った猪の鼻がぶるんと震えた。
 聞けばさくらが意識を失うのとアルブスが路地に突っ込んできたのとはほとんど同時であったらしい。あちらの世界では臆病なほうに分類される猪がわざわざ突入してくるなんてと少し以外に思ったが、そもそも彼(彼女であるかもしれないけれど)と普通の猪とを同じ土俵で考えるのが間違いなのかも。
 アルブスがやって来た少し後に、それを追ってアートゥラが袋小路に飛び込んだ。
 そのとき、既に男らしき人影は、その場から忽然と姿を消していたという――。もしもアートゥラがそれより早くあの場に飛び込んでいたとしたら。
 ……幼い命を無残な形で失わずに済んだことに心の底から感謝した。安堵と同時にため息をついたら老爺が不思議そうな顔をした。

「……そういえば、何かに殴られたような跡だと愚息が言っておったような気がするが……」
「いえ、大丈夫です。本当に転んだだけなので」

 ……今、シルバー・ハンマーの名を口にするわけにはいかないと思った。アートゥラやアートゥラの家族を巻き込んであの男の視野に入るのは避けたかったし、それにあの名はいつの間にか新たな恐怖の対象物としてこの町中に蔓延している。真剣にタオルを水で濡らしているアートゥラの顔色に、不穏な色を乗せたくなかった。

「はい! おでこちゃんと冷やしてください!」

 ……冷やすべきは側頭部で、厳密にはおでこではないのだが……。星雲すら見えそうな瞳に一言お礼を言ってから、出来うる限り額に当てているふうにタオルの位置を調整した。老翁が微笑ましそうに少しく笑った。笑って、背もたれのない丸椅子に腰掛けたまま隣のアルブスにあずけるように上半身を傾ける。

「まあいい、そのうち息子がペトルスくんやマナカさんを連れて帰って来るから、本当のことは全部彼らに話すといい」
「……すみません」

 謝罪の言葉がまず口をついて出た。アートゥラがベッドの縁に顔の半分を覗かせて、疑問符が浮いているような顔をする。年の功にはまだまだ全然叶わないなあと、さくらは一人自嘲する。
 さて、こうして生き延びたはいいものの、面倒くさいことになってしまった。まさか自分が“シルバー・ハンマー”に襲われて、しかも一命を取り留めるなど。勿論あれを“シルバー・ハンマー”の模倣犯だと言い切ることも可能だが、残念なことにさくらは嘘は苦手だし、率先して吐きたいという物好きではない。自分の目的を達するために、アートゥラや彼女の祖父を含めた港町の住民を救うことにもなり得る重要且つ貴重な情報を、胸の内にだけ秘めておくことはどうやっても出来そうにもない。
 ……あれほど奔走してくれたマクシミリアヌスには悪いけれど、やはり真実を言うべきだ。それで例え出立の時刻が遅くなってしまうとしても。それも勿論真佳らにというだけで、悪戯に脅かす恐れのあるアートゥラらには言えないけれど。
 そういえば、とさくらは気付いた。

「アートゥラ、私が倒れてたあたりに、何か見慣れないものが落ちてはいなかった?」
「見慣れないもの?」
 首を傾げるアートゥラに向かって、「そう。普段道に落ちていたりするものではなくて、何と言うかな……。おかしなものが」
「おかしなもの」

 きょとんという顔で復唱された。……まあ、また銀の鎚でも落ちてやしないかと考えてこう尋ねただけであって、何かが落ちているはずであるとかいうことで質問したわけでは全くないのであまり期待はしていなかったが――。

「あったよ」
「えっ」

 と思わず言葉が漏れた。

「……何が?」
「耳飾り! 時々来る教会の女の人が、同じようなのを見たことあるよ。あ、でも形は違うけど」
「……それ、預かってもいいかしら? 落とし主に一応の心当たりがあるのだけれど……」
「いいよ」

 にっこり笑ったアートゥラの表情には何の躊躇いも見当たらなかった。全面的に信頼されているのが分かって少し申し訳ない気持ちになる。落とし主に心当たりがあるのは本当だが、それを真っ直ぐその相手に返すかと言われれば絶対に否定はできないからだ。
 両手を椀の形にしてアートゥラ受け取ったイヤリングは片方だけ。クリップ式のイヤリングに、繊細な細長い長方形の板が一本ぶら下がっている。材質は分からないが、色は銀色。……ここから引き出せ得る様々な可能性を考えて、そっと拳を握りこんだ。

「さくら!」

 飛び込んできた声に顔を上げる。そういえばここは誰の部屋だろう。老翁の部屋ではないとは思うが、誰の部屋かと言われると正直分からない。アートゥラか父親の部屋だろう。ベッドが大きいのでその両方の部屋かな。
 部屋の扉は開いていたので玄関兼居間の様子は見て取れた。玄関扉は死角にあるが恐らく玄関扉から、弾丸のように飛び込んできたその三人――先頭に立った真佳がまず居間のところで進むべき対象を見失って急ブレーキを咄嗟にかけて、それにペトルスが激突して最後にマクシミリアヌスがそれに加わり団子になって転げたところはばっちりと。三人組の後ろから頬のこけた柔和な細面の男が息を切らせながらようやく居間に駆け込んだ。災難な。

「サクラ!」

 まず真っ先に起き上がって立ち直ったのは、当然と言うべきかマクシミリアヌスだった(流石の真佳もペトルスも、あの巨体に押しつぶされて即座に身を起こせるようには出来ていないかとこんなときだが感心する)。

「大丈夫か、怪我はないか、何と痛々しい! 痛くないか、何者かに襲われたところを見つけたと聞いたぞ!」
「……そうね、それについては後で説明する」まず頭の中でまとめてから話せとは言えなかった。それほど心配してくれたのなら喜ばしい……というかむず痒い。「むしろ真佳とペトルスのほうが心配なんだけど大丈夫なの」

 のろのろと起き上がりかけている二人組に視線を向けて気遣うと、「うえ……」「大丈夫ですよ……あなたほどではないですよ……」凄まじく弱々しい答えが返ってきた。本当に大丈夫か。
 アートゥラがベッドの縁から海坊主みたく顔を出してじっとこっちを見つめているのに気がついた。

「……もう行っちゃうの?」

 とアートゥラは言う。そんなに切なげな顔で言われると流石にすぐには「はい、そうです」と返せない。
 げほっ、ごほっとまだ咳き込みながら、アートゥラの父親がそっと部屋に入ってきた。未だ胃の圧迫感から開放されてはいないらしい真佳とペトルスは老爺が苦笑を浮かべて見に行ってくれた。少し足取りが危なっかしいが、誰に命じられたわけでもなくアルブスがそれに付き添ったのでほっとした。この家はこうやって回っているのか……。父親の手がアートゥラの頭を優しく撫でる。

「ここで彼女に出来ることはもうないよ。アートゥラは精一杯やってくれたことと思う……身内びいきだがね」付け加えられた一言はさくららに対して体裁を繕うためのものだったろうが、さくらも恐らくマクシミリアヌスも、それを身内びいきとは思わなかった。男親は更に継ぐ。「だからもう、後はきちんとした病院で、きちんとした手当てを受けてもらうほうが安全だ。お姉ちゃんにもう一度来てほしいだろう?」

 アートゥラがこくりと小さく頷く。その頃にはもうペトルスと真佳は、マクシミリアヌスの全体重から辛うじて回復してきた様子であった。

「じゃ、ペトルスお兄ちゃんを信じよう。次会うときは怪我もなくなった元気な姿のお姉ちゃんを見られるよ」

 ……一瞬真佳レベルまでテンションを上げたほうがいいのではないかと考えてしまったが、そんな自分を想像してみると普通に気持ち悪かったのでそういう意味の“元気”ではないはずだと自分自身を納得させた。言葉というのは難しい……。アートゥラがちらっとこっちを見やったので、思わず条件反射で微笑んだ。

「勿論。どちらにせよ滞在期間は延期されるに違いないし、その間にはちょこちょここっちに遊びに来るわよ」

 アートゥラがぱっと顔を明るくした。「約束だよ」と小指を絡めることをねだられたので小さな小指に自分の小指を絡ませた。マクシミリアヌスがその後ろで疑問符混じりの怪訝そうな顔をする。何かを察したわけではあるまいが……その表情は少しく険しい。

「どういうことだ?」

 とマクシミリアヌスが小声で聞いた。
 アートゥラに聞こえないよう、さくらのほうもマクシミリアヌスに小声で答える――。

「……後で話す」

 小指に絡んだアートゥラのそれと自分のそれの温度差が、ほんの少しだけ痛かった。

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