ガツンという音がした。たちまち背後の家壁を通して衝撃が頭蓋骨をも震わした。家壁が壊れることはなかったけれど、もしもこいつが今手にした小さなハンマーを手放して巨大なハンマーに持ち替えたなら――……。
 どこかの家の外壁から弾かれたように背を外し、さくらは再び闇の中へと飛び込んだ。
 舌を打つ。
 あの時、あの瞬間、こちらではなく教会の側へ向かっていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。



月明の軌道



 この時は、月はまだ中天にまで差し掛かってはいなかった。

 スッドマーレという町は夜になると大通り以外の光が消える。町の中央を教会から海まで結ぶ大通り沿いにない家々は日の入りと共に闇に落ち、昼間の姿と同じくらい自己の個性を目立たさないまま周囲の景色に紛れ込ませる。あの小さな第一級魔力保持者アートゥラの家をこの状況で探しだすには、さくらにはひどく困難なことのように思われた。大通りに面した家屋であっても海に近いほうのそれは店舗であることが多いため、大路の両脇に控えた街灯以外の灯りは無い。
 この国は貧富の差が激しいのだと、前に何かの拍子でマクシミリアヌスが語ったことを想起した。貧困層に属する側は、灯りを灯す魔術式を設けることが出来ないことが一般的であるという。そう言われて自然と思考の先に上ってきたのが、これから先さくららの向かうことになる西の地だ。港町としてそれなりに栄えているはずのスッドマーレがこんなふうでは、村まで行くと首都、ペシェチエーロとの差はとても顕著になるだろう。物価は日本よりは安いほうだけれど、この国の情勢を考えるとそれでも十分高いと思う。戦争が終わって十八年、ここまで復興させたことは十分立派なことだと思うけれど。
 ……いや、まだ村のことを考えるのは時期尚早であるんだろう。どれほど焦って不安になっても、この偽シルバー・ハンマー事件の裁判がある程度収まるまではさくららはここを離れられない。ここに留まっていられる時間も、そう長くはなさそうだけれど。……被告人として挙げられている男は罪を認め、また教会もさくららのことを気遣って審理の時期を比較的早めてくれている(恐らくこれはマクシミリアヌスの進言が大きい)――実際起訴から一週間とちょっとで審理が決定されたのだ。起訴から審理までに一ヶ月から一ヶ月半の間はある日本のことを考えると、破格のスピードであると言わざるを得ない。
 教会支部を囲む柵のところから上体を起こした。随分長いこと上体を預けていたような気がする。見ると柵に接していた両腕の下部がすっかり赤くなっていた。真佳のことを言えた義理ではない。こんなところで長時間ぼうっとし続けているなんて。
 宿舎に戻る道を辿る前に、もう一度だけ町の闇を見下ろした。町と海の境界線は曖昧で、一瞬だけ陸地が広がったような妙な錯覚を起こしてしまった。真佳はもう寝ているだろうか。アイツは夜更かしする方だったけれど、この世界に来てもそうなのかどうかは一緒の部屋で眠る機会があまりになかったため記憶にない。寝坊常習犯であることを考えれば、その理由は推して知るべしと言えるのかもしれないが。

「……?」

 闇の中で何かがちらりと光った気がした。星ではない。極近くだ。柵のところから下った先の……。目を凝らしてみてもよく分からない。何かの見間違いだろうか? この闇の中で?
 ほんの一瞬だけ考えて、すぐ脇にある階段に足をかけたときだった。
 片手をついていた柵の表面がガツンという衝撃と共に強く震えた。視線を後ろに跳ね上げる。月の光を反射してきらりと輝く金属質の
 ――“銀”。
 その表面を認識したときにはもう、踏み段を蹴って階段を走り降りていた。教会の側に行くべきだったことに一番最初に気がついたのは、それからしばらく経った後だった。


■ □ ■


 ガンッ、と再び音が鳴る。狭い小路の壁を打ち鳴らしたその音は、さっき頭蓋を響かせたそれよりもずっと遠いところにあった。最初のときと比べて攻撃が粗くなっていることにさくらはすぐに気がついた。苛ついている? 壁に手をつき押しやりながら地を蹴って、一瞬間だけ振り向いた。小さめのハンマーがガツン、ガツンと小路の壁を打ち鳴らしながらこちらを着実に追ってきている。苛ついているのか楽しんでいるのか落ち着いているのか、一時判断が出来なくなった。ただ叩きつけられたハンマーが奏でるその音色には、確実に雑音染みたものが混じっている。被害者に逃げられるのに慣れていないのか、それはさくらには分からない。考えている時間もない。
 スラックスのポケットの感触を上から触れることで確かめた。通信機器の類はない。どうしたってこのまま何とか自分の足で、教会まで戻らなくてはならなかった。随分と枝道の中を走ってきた。方向はまだ見失ってはいないけれど、行き止まりと曲がりくねった小路を御して追っ手の手を掻い潜り、出来るだけ早く目的の場所まで辿り着くのはとても容易なことではない。
 ガツン、
 ガツンと追い込むようなハンマーの音が迫り来る。
 ともすれば手放してしまいそうになる冷静さを必死の思いでかき集めながら地面を蹴った。実際あの音はこちらを行き止まりまで追い込むための牧羊犬だ。あの男は随分ここの地理に長けている。音に惑わされないよう通じている道を自分の目で探さなければたちまちの内に殺される。
 殺される――。
 その一言があまりに簡単に脳裏に浮かんできたことに、さくらはあまり驚かなかった。最初から予想はしていた。銀の表面、小さなハンマー――思い通りにいかないことに腹立っているようにも見える態度と恐怖の音でもって犠牲者を追い立てる性格は、犠牲者をめった打ちにする、あの支配力を誇示するような犯人のやり口と合致する。
 シルバー・ハンマーに捕まればまず疑いようもなく殺される。それをさくらは分かっていたし、あれが“本物”であることも早い段階で確信していた。何故自分を狙うのかはっきりしたところは分からない。例の新聞を見て突き止めたのかもしれないし、或いはただ単に運が悪かっただけかもしれない。どちらにしても今のさくらには、さして違いがあるようには思えなかったけれど。
 ガツン、という音がまた聞こえた。
 反射的に音のする側、即ちシルバー・ハンマーの狙いとは真逆の方向に角を曲がろうとしたとき――チリッ、と脳内で何かが疼いた。
 しまった、と何も見ていない状況で思った。思えてしまった。途中で思考を停止した。考え続けなければならなかった。あちらが何れこちらの裏をかくタイミングを、考え続けていなければいけなかった。
 ――月明かりに照らされた先、踵を返し高く立ちはだかる行き止まりの壁を背にしてさくらは立った。目の前の中央で男は笑った。右手に提げられた小さな鎚が、一つ月の光を浴びて銀の光に煌めいた。
 壁に背中を張り付けた。冷たい石の感触が服を通して背中に触れた。……失敗した。胸中で苦く呟いた。

「……シルバー・ハンマー」

 とさくらは言う。
 それが異界語であることを、男は少しく以外に思ったようだった。

「シルバー・ハンマー……マルテッロ・ダルジェント。ああ、成る程。異界の言葉ではそう言うんだったっけね? そちらのほうが僕は好きだな。音がいい。そう名乗るようにしてしまおうか。私はシルバー・ハンマー、銀の鎚を持つ男。男というのが悪いな。格好が悪い。体裁が悪い。音が悪い」

 満月でもない一つ月は十分な光を進呈してくれはしない。男の細かい動作は夜目の利いた目で何とか追うことは可能だが、男の正体を突き止めるのにはほんの少しだけ光の元が足りなかった。顔が見えない。せいぜい背格好が分かる程度。どちらにしても、ここから何とか逃げ切らなければこの情報も藻屑と消える。
 固まった唾を一度だけそこで呑み下した。

「私が誰であるか、知っている?」

 極力凛と聞こえるように。ひょろりと伸びた男の体躯が首を傾げた。

「もしかしてどっかのお偉さんのご息女かな? 或いは神聖なる修道女であらせられるお方かな? 尊い命だからってんで助けて欲しいというんなら、それはあまり意味がない。人命は等しく尊いものであるべきだ」
「……」

 殺人鬼などに言われたい言葉ではないが、突っ込んでいる場合でないのでそこのところはスルーした。

「どれもハズレ。私それ個人には何の価値もない、どこにでもいる平凡な女であると断言しておきましょう」

 男が少し、きょとんとその目を瞬かせたような間があった。
 ……月が雲の流れに消えた。路上を照らす月明かりがゆっくり消え失せ、一層相手の顔を見極めるのが困難なことになってくる。

「……ただし、次の点を除いてよ――貴方に名前を与えた人間、貴方が持ち去ることが出来なかった銀の鎚を、誰より先に見つけ出した張本人」

 視軸を飛ばす。雲が流れてまた再び月が出た。男の顔は黒の影からグレーになり、その中心で――歯、のようなものが、一瞬間だけ薄く煌めき語りかけてきたような気配がした。
 ……笑った。
 それを認めて上唇を少しく湿す。

「もしも探していたのならおめでとう。貴方は世間に貴方の呼び名を広しめた人間を無事に見つけたことになる。復讐するのかどうかは――」

 喉のところで湧き出るようにくつくつと鳴り響く笑声に、思わず言葉を押しとどめた。木製の片扉を爪の先でコツコツと叩いてでもいるような、薄情で淡泊で何の感慨も乗せられていないただの音。
 ……視線を男の横に逃した。顔を押さえてクックッと笑う痩身の男の左側に、腰を捻って横向きに走れば何とか通り抜けられそうな幅がある。
 この隙に抜けてしまおうか。……それともまだ油断を誘うには早すぎるか? 心の中でほんの半瞬交錯させた画策に判決を下す間もなく、男の両腕が大きく開いた。逃亡を企てたことがバレた、のではない。男の視軸はどうやら恍惚に少しく天を向いていた。

「――いや!? 復讐? 何の復讐か僕には意味が分からんね! むしろ感謝したいくらいだよ、本当はマルテッロ・ダルジェントよりシルバー・ハンマーのほうが良かったが、何にせよ僕に名前を与えてくれてありがとう。何かが足りないと思っていたんだ、丁度欲しいと思っていたんだ。それが名前だったんだね、君のおかげでそれが分かった」
「……凶器も知れ渡ることに、なってしまったのだけれど」
「そんなことは些細なことさ。ああ、でもつい最近模倣犯が出たと聞く。だがこれは仕方がない。偉大な人間の真似事をする眇々とした人間は、いつの時代にも出てくるものさ。むしろ誇りに思わなければ。それより君は知ってるかい? 見たところこの町の人間ではなさそうだから、あまり慣れ親しんでいないかな? ここより南の遠方にあるこことは違う一つの国では、名付け親をその子どもの神であり倫理であり道であると言うらしい。名は体を表すというのはそっちにあった言葉だったかな? 或いは異世界であったかも。まあいい、どちらでもいいことだ」そこで一旦長広舌を断ち切って、「要は君、此度出会ったそこの強気なお嬢さんは、俺の、僕の神であり倫理であり道であるということだ。素晴らしいじゃないか、僕はここで神に会った。僕の人生を象徴する道であり、蹴り散らかすべき倫理であり、引きずり落とす神が君。これほど幸せなことはない。神をこの手で殺せるなんて」

 頭が不意にくらくらした。実にあっさり宣言したので思わずそのまま聞き流しかけた。着地点の見えないままふらふらふらと漂い続けた長台詞は、結局そこに行き着くのだ。男の口元から覗く歯の煌きをうっかり呆然と見送ってしまった自分が腹立たしい。
 片足を少し後ろに下げる。どちらにせよ両腕を広げたままの男の横に、さっきのような逃げてしまうに絶妙な幅は見当たらない。――腰の後ろに右手を伸ばした。ズボンのウエストのところに引っかけたままの銃把に指の先端が確かに触れた。……かくなる上は。
 この場で倒してしまう他道はない――!
 たった一瞬閃かせた銃口を、天を仰いだ男の首筋ど真ん中目掛けて突きつけた。グリップに刻まれた魔術式を手探りで求めそれから祈る。魔力の充填、魔力の出力、魔力の放出。一連の動作をたった刹那に脳の奥底に刻みつけ、魔力の充填を願ったまま引き金を――
 引いた、
 と思ったたったの一閃にはそれより早く男の影が移行していた。
 チュンッ、と甲高い音を発しながら弾丸がどこかの床を抉り取る。たった一歩の歩行だけで弾丸の軌道を逸した男は銀に塗れた右手の先を振りかぶり、天から注ぐ月光によく似た軌跡を辿ってさくらの側頭部を何の迷いなく撃ち抜いた。
 視界の端が赤く染まる――何かがくずおれる音がしたがそれは自分が倒れ伏した音であったかもしれなかった。バンバン、カンカン――男の声音が歌うように鼓膜の表面に張り付いた。
 それきりもう、何も認識することが出来なくなった。

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