ヨハンネスはあれ以上抵抗することも、誰かに罪を着せようともせず大人しく教会にその両拳を差し出した。クスリの話が出た時点で教会の追及からは逃れられないということを、あの瞬間に察したのかもしれない。ミラーニ女史の新聞は発行されぬまま、教会の新聞でだけで民衆に告げられた真実は特にセンセーショナルな装飾もされず、ただありのままを記載された。さくらの名前は本人の希望通り一切出ては来なかった。
 そして今、真佳は教会スッドマーレ支部の表玄関から伸びる短い階段に腰掛けて青に浮かぶ雲の流れを追っている。真佳の右隣では、玄関屋根を支える柱に背を預けた格好で、さくらが腕を組んで真佳と同じものを待っていた。即ち、マクシミリアヌスが高速の手続きを済ませることで有罪の鎖から開放される黒縁眼鏡の少年をだ。
 長かった、と真佳は思う。本当にとても長かったような気がする。実際には、ペトルスが檻に入れられてから二日しか経っていないはずなのに。
 階段に座る女子高生(という認識はあちらには無いだろうが)にひっそりと眉を顰めながら、修道士の格好をした男が階段の真ん中を上って過ぎた。見るともなしに見送りながら、ふあ、と小さく欠伸を零す。

「今日、ルーナさんがね、晩御飯はペトルスの好きなものにするってさ」

 陽光を浴びて白く燃える雲を眩しく思った。

「好きなもの? 何だっけ」
「何か。エンドウ豆とチキンの何か。よくわかんないやつ」
「ああ、煮こごりの」
「煮こごり……煮こごり」

 そういう言葉は前の世界でも聞いたことがあるような気がしたが、よく覚えてはいない。とにかくあのゼリーみたいのが煮こごりだということは、この世界へ来てよく食べるようになってから理解した。この国では煮こごりと、それからチキンがよく食卓に上ってくる。イタリアっぽいのにスパゲッティはそれほど机には並ばない。しかしペンネというのか、そういう筒状のパスタは時々出される。

「……まだ終わったとは思ってないわよ」

 と、とても出し抜けにさくらが言った。頭を仰け反らせてさくらを仰ぐ。こっちを見下ろす銀の双眸とぶつかった。雨に濡れて銀に煌めく蜘蛛の網を想起した。
 ……ひくしと頬を引き攣らせる。「何がだい?」
 故意におどけた真佳の口調に、さくらがわざとらしく嘆息した。

「“銀の人”と呼ばれる商人。あの人にアンタのことを聞いたら、アンタが誰と一緒にいたのか、きっと答えてくれるでしょうね」

 ぎくりと肩が強張った。それは、まあきっとそうだろう……。このご時世、普段着の上から鉄兜だけを被った男の存在は忘れようと思ってもそうそう忘れられるものではない。唯一望みをかけるとしたら、真佳のほうをあまり見ていないとか覚えてないとか。しかし黒髪に赤目というこの容姿が否が応でも人の目を引くことを、前の世界にいた段階で真佳は身を持って知っている。一応暗くはあったけど……多分彼は、真佳のことをちゃんと覚えていることだろう。

「それでも言えない?」

 とさくらは言った。
 ……ずるいなあと真佳は思う。逃げられないところまで追い詰めておきながら、そういうことを聞きますかね……。
 苦し紛れに視線を逸らせた。

「話さない……約束だからね……」
「永久に?」
「……無名人がいいってゆーまで」
「そ」

 ……。それで納得したわけはないと思うが、さくらはそれ以上追及するような素振りを見せては来なかった。もう一度視線をさくらに合わせる。それを受けてさくらが小さく肩を竦めた。

「……ま、多分教会はあんたと一緒にいたもう一人に気が付いてはいないでしょうから、わざわざ話を振るようなことはしないでしょう。上層部はむしろ、私たちの存在を仄めかさないようにするでしょうし。可能性があるとしたら商人が口を滑らせることかな……。でもそれは諦めといてもらわないと。あっちが憤慨していることは知ってるでしょう?」

 うっ、と一瞬言葉に詰まった。

「……それは……本当に申し訳なく思っているよ……」

 結果裏切ることになってしまって。今後もしも顔を合わせるようなことがあったとしたら、多分開口一番どやされる。

「だからそこは、諦めなさい」

 とどことなく楽しそうにさくらは言った。何だろう、これは。話さない真佳への仕返しだろうか。鬱憤を晴らされているような気配がする。
 ……鉄兜の男の姿を思い出した。
 今はまだ、と彼は言った。いつか、こちらの問いに答えてもらえる日が来るだろうか。いつか、さくらに全てを打ち明けられる日が来るだろうか。その前に出立することにならないといいけど……。

「……そういえば」

 視線を空へ跳ね上げて、真佳は言った。

「滞在期間延長だって。今回の件で」
「知ってる。前回以上に明らかに関わっちゃったもの。彼が片手を使わなかったのを証言出来るのも、多分私たちだけでしょうからね」
「……私は気付かなかったから証言出来ないよ?」
「……」

 さくらが短く沈黙した。青のキャンパスを白い雲が撫でて去る。……たはは、と真佳は空笑った。

「そこはさくらに任せるよ。うん」
「……またそういう役回り……」

 そう呟いたさくらの声音は、なんと言うか実際に苦虫でも噛み潰しているかのような音調だった。

「――サクラさん、マナカさん!」

 ――後方から一直線に飛び込んだ、久しく聞いていなかったようにも思われる少年の肉声に、思わず“にん”と口の両端をつり上げた。白い段差から腰を上げる。円柱から背中を外して、さくらが教会支部の玄関扉に体を向けた。
 両開きの扉の隙間に二人の人影を認めた瞬間、「うわ……」ペトルスが、その太陽光の眩しさにだろう、片手をかざしてまなこを細めた。――太陽神が迎えに来たのだと、何となくだがそう思った。真佳もすっかりこちらの考え方に慣れてきた。多分、マクシミリアヌスやペトルスもそういうことを言うだろうなということは、ある程度予想がついたのだ。

「いや、参った」

 とペトルスの後ろでマクシミリアヌスの巨体が言った。

「チンクウェッティ大佐がおらなんだもので別の人間に手続きをお願いしたのだが、これが想像以上に時間がかかってな。俺自ら済ませてしまおうかと思ったくらいだ」
「マクシミリアヌスがやれば良かったのに」
「出来ませんよ。いくらぼくが既に被疑者でないにしても、重要参考人とそれなりに親しい人間が自ら出向いて勾留を取り消すなんて」

 真佳の純粋な疑問に他ならぬペトルスがそう答えて、かざした手を下ろし肩甲骨を突き出すように肩を竦めた。この三日でペトルスの肌が一層白くなってしまったような。

「何はともあれ、お二人とも改めてお礼を言わせてください。何とか謎を解いてくださってありがとうございました。おかげでぼくの無実が証明されました。裁判まで行ってしまってはどうしようかと、本気で悩んでいたところです」
「いやいや」

 と真佳は言ったが、さくらは隣で薄く微笑んだまま肩を竦めただけだった。
 土は土に、灰は灰に、塵は塵に。あるべきものをあるべき場所に、返しただけだとでも言いたげに。それから付け加えるようにこう言った。

「アンタが無実なのは事実だったんだから、いつかは発覚していたことでしょうよ」
「それがぼくが召された後でなくて良かったです」

 そう冗談っぽく言ったペトルスは、本当に重石が取れたような顔をしていた。拘置所がどんな場所であったのか、そういえば真佳は彼に直接聞いてみたことがないのだった。実際に見てみたことはあったけど――、――。
 ……本当に、無事に帰って来てくれて良かった。と強く思った。

「さあ、帰りましょう。しばらくルーナさんの作るご飯を食べてませんでしたから」
「三日しか経っておらんだろうに」
「三日は重要な期間ですよ。放り込まれて身に沁みました。人間は三日目からおかしくなる」

 頭に人差し指を突きつけて冗談っぽいような感じでペトルスは言ったが、笑ったらいけないのかいいのかが真佳にはイマイチよく分からなくて引き攣り笑いみたいな形になった。

「ほら、今だって太陽に当たっただけで眩しさにやられかけたでしょう。危うく吸血鬼化するところだった証拠ですよ。留置所の位置は見直したほうがいいですね。どんどん太陽神の恩恵が得られなくなって、潔癖の白も真っ黒くなろうってものです」
「出てきて早々べらべら喋るなあ!」

 マクシミリアヌスが、多分今のさくらと真佳の心中を一身に受けて音の形に表現した。ペトルスは懲りたふうもなく、なまる腕を慣らすようにぐるぐると回転させただけだったけど。
 ……そういえば、ペトルスって結構喋るんだ。久しく聞いていなかったとつい思ってしまったたのも、彼の聖書から引用する癖のある語調を間近で聞くのにあまりに慣れすぎていたからだ。……それで、音の奔流で時の流れをかき消して、いつの間にか持てない間を埋め尽くしてくれている。あちらがひどくマイペースなのでこっちも会話に気を使う必要がない。それだからこそ、真佳の築いた人見知りの壁はこうも呆気無く崩れ落ちてしまった。

「さあ」

 とペトルスがまだ晴天に目を細めながら、誰より先に階段の段差に足をかけた。白い階段が陽光の白と相まって、空きチャンネルを思わせるスカイブルーとくっきりしたコントラストを描いている。頭がキンとするような、覚醒めるような圧倒される強い青。

「これで聞きたいことは増えました。あなた達の冒険譚を、是非ぼくにも聞かせてくださいよ。神に仕える修道女の作ってくれた料理の数々をお供にして」

 ペトルスの広く小さな背中が、青と白のコントラストの中に溶けこんでそれから消えた。青と白。地平線上にもくもく昇る入道雲と突き抜けた青空を思い出す色と色は、紛うかたなき夏の色。
 ストロベリーブロンドの短髪が、まだ涼の残った春の気流に吹かれて揺れた。

「……時間も出来てしまったからね」

 そう応えた自分の声すら輪郭も与えられぬまま、青と白とのコントラストに混じって消えた。



終局のマーレ/カルカーレ

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