「時はきた」とセイウチは言った。
 沢山のことを話すときが。
 靴のことを、船のことを――封蝋のことを――
 キャベツのことを――王様のことを――
 海が何故沸き上がるか――
 豚に翼があるかどうかを。




有無相生の翼



 真佳はその場に居合わせた人間の顔を再三再四見回したが、全員が全員石のように顔の面を硬くしたこと以外に気がついた点は皆無だった。有罪か無罪か、翼の有無も分からない。この人たちが腹の中で、何を考えているかさえも分からない。
 恐れているだろうか? それとも安堵しているだろうか?……

「……では次に」

 とさくらは言った。
 親指の付け根をテーブルの端に引っ掛けたまま、みなの顔の神経の動きを子細に眺め取るように。

「魔術式の話をしましょう。この家のシャンデリアもそうですが部屋の灯りをつける仕組みについて、どういうものかということは皆さん既にご存知のはずですよね」

 一瞬、ラ・ロテッラ夫人の視線が不安げに息子の横顔を一、二度なぞった。さくらもそれに気付いたはずだが、それに対して特別なリアクションは起こさなかった。

「二つ一組になった同一の魔術式でもって、遠距離から式を発動させる構造です。このほとんどは教会が作成したもので、常時人が魔力を供給せずとも一定の間魔術式上に術者の魔力を停滞させ、それによって式の持続性を飛躍的に向上させる工夫がマギスクリーバーによってなされている。ここまではこれでいいですか」

 誰も何も言わなかったが、この場合の沈黙はどうやら肯定と取っていいらしかった。
「サクラ」とマクシミリアヌスが小声で言う。応えるようにさくらはそれに頷いた。

「……これがマギスクリーバー特有の技術があったからこそ実現できたものだということもご存知ですね。では今回の犯人、犯行においてはどうだったのか」

 そこで彼女はテーブルの縁から手を離して、背筋を伸ばして頬に落ちかかった髪を払う。真っ直ぐ手入れされた桧皮色の髪筋が、弧を描いて肩のところに落ち着いた。

「結果から言うと、シミで隠された魔術式の中、或いは周囲にスクリーバーによる施しを受けた様子は見られないということでした。これが何を示しているかわかりますか。磁気によって壁に固定され続けていたあの鎚が、唐突に磁気を失えばどうなるか。言い方を変えれば、磁気を生成する魔術の供給が途絶えたとき(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)つまり犯人の手があれと対になる魔術式から離されればどうなるか(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 知れずぐるりに視線を向けていた。誰も何も言わないし、誰も視線を合わせない。真佳にはその未来が見えていたような予感がした。さくらとマクシミリアヌスの中では既に犯人は決まっていて、今はそのゴールへの道のりを一歩一歩、着実に固めていっているだけだ。
 蜘蛛が死角に作り出す蜘蛛の網を想起した。そういうマザーグースがあった気がする。“僕のお部屋へ来ないかい?” 蜘蛛がハエに呼びかけました――。

「……あの時、誰も魔術道具は持っていなかったと聞いています。要するにアクセサリーとして身につけながら魔術を供給し続けることは不可能。多分この段階で、既に皆さん犯人の正体は思い浮かんでいるはずです。魔術式の仕掛けは夕飯前にされていた、つまりその時点から犯人は既に魔術式を手放せない状態だった」

 銀の刃に相似した銀の双眸を、さくらは長男に振り向けた。

「食事が始まってからミラーニ女史の死体が発見されるまでの間、想起しやすい例を挙げるとヒエロニムスさんは途中でトイレに立ち両手が空いているのを確認しているから白。ラ・ロテッラ夫人もテーブルの上で手を握りしめていることが多かった。使用人のパウルスさんはこの場合ペトルスと同じ理由が当てはまります。この時間、一人で立ち働くことの多い使用人はくだんのトリックでアリバイを作る必要が無い。――実際問題、今回の件では、この家でアリバイのない唯一の被疑者になっていた」

 視線を振り向けた。
 ――自然に、みながそのたった一点を。

「……あの時間、唯一両手を出していないのはあなたしかいないんです、ヨハンネスさん」

 ガタンと椅子の背が床を叩いた。マクシミリアヌスが咄嗟に一歩踏み出してさくらの脇に身構える。一等兵がびくりと肩を揺らしながら、咄嗟にという感じで自分のすぐ後ろに控えた戸口のほうを振り向いた。
 ――椅子を蹴飛ばす勢いでもって立ち上がったヨハンネスは、テーブルに手をついたまま小さく笑ったようだった。ワックスで塗り固められた黒髪の隙間から、皮肉げに歪んだ口唇の一端が見えている。

「ああ、なるほど。一杯食わされたわけだなあ」

 と男は言った。

「無論、親父にさ! まんまとやられたよ。絆と取り戻すためとはよく言ったもんだ。俺は親父の言うことに従っただけ。シミに隠れた魔術式も銀の鎚を買い取ったのも! いやいや、食事中俺がずっと片手を出していなかったって? 知らなかったかな、俺にはね、片手でものを食べる癖があるんだ。それを親父に、まんまと利用されてしまったとこういうわけだよ。あの野郎、必要以上に家に寄りつかないくせにそういうところは覚えてたんだな。少し考えりゃあ分かるはずだぜ? 俺にあのばあさんを殺す理由がないってことは」

 夫人と次男とが目線を合わせた。……あり得ないことではないというような顔をしていた。結局きちんとした形で面会することは叶わなかったが、どうもアドルフス・ラ・ロテッラという人間はよくわからない人間だ。
 ヨハンネスの長広舌が断ち切られるのを待つだけの十分な時間をさくらはおいて、唇を開いた。

「……ミラーニ女史が追っていた事件を、私たちは突き止めました」

 一瞬、ヨハンネスの眉がぴくりと動いた。夫人が顔を白く強ばらせ、ヒエロニムスが緊張に頬を硬くする。使用人さえも瞼を痙攣させたのは、恐らく彼も彼らと女史の事情をよく理解していたからだ。

「最初、私たちが夫人にお会いしたとき、ミラーニ女史は『“例の事件”にも関与している』として私たちを紹介しました。……それを聞いたとき、私はそれが夫人を脅すためのはったりか、或いはシルバー……」と言いかけて、「……“マルテッロ・ダルジェント”事件のことを指していると思ったんです。私たちが関与した事件でミラーニ女史やあなた方と関係があると思われるのは、それしか思いつかなかったから」

 夫人が絶望に目を見開いた。当然だ。真佳らを食事に誘う引き金を引いたのは、そもそも女史のそういう発言での脅しである。関与していると言われていた本人らがあの時点で女史の真意を汲み取れていなかったのならば、何も脅しに屈して食事に誘うまでもなかっただろう。……結果的に、それが殺人事件を生み出した。

「落ちていた銀の鎚を始めとして、ひどく振り回されたと思います。あの鎚は恐らく、教会の目を“マルテッロ・ダルジェント”に向けさせるためのものだったんでしょう。最初からペトルスを被疑者役に仕立てあげようとは、きっと露ほども思っていなかった。ただ殺人鬼が家に進入して女史を殺して去ったという、そういう尤もな理由が欲しかったんです。おかげで、この件において女史が追っていた事件は連続殺人事件でないということに気付くのに相当時間がかかりました……」

 さくらの静かな視線がヨハンネスを貫いた。マクシミリアヌスは未だ彼女の隣に警戒姿勢を取ったまま、ヨハンネス・ラ・ロテッラを注視している。袖の中のホルダーに仕舞い込んだクナイの柄を、真佳は何とはなしに一度なぞった。

「……けれど真実はそうではない。私たちが関与していた事件は確かにもう一つありました。ただ殺人事件の波に押されてすっかり忘れていただけで。……外国からの麻薬の密輸入」

 パチンと何かが弾けた気がした。

「その業者を犯人として突き出したのが、私と真佳とペトルス、マクシミリアヌス。女史が言っていた“例の事件”とは、即ち麻薬の密輸入のことだった」

 ヨハンネスの目つきが鋭くなった。今にも卒倒しそうな夫人の顔色を見て確信する。さくらの話しているのは真実だ。麻薬。麻薬。女史がそれを追ってここに通っていた。ということは。

「主人だったんです!」

 と紙みたいな白い顔をしながらラ・ロテッラ夫人は言った。

「主人が、最初は主人が。この子は興味本位で、出来心でっ……」

 さくらが小さく頷いた。知っている、とでも言いたげな目をしていた。ヨハンネスの目が愕然と見開かれるのが目に見えた。彼らの父親が、教会の人間がクスリをやっていたという事実にすらこの探偵は動じない。当たり前だ。さくらは何の根拠もなく、誰かを告発したりしない。彼女の話す推理には、必ず何らかの裏付けされた基盤がある。

「アドルフス・ラ・ロテッラが数年前の少しの期間、クスリをやっていたことは分かっています。実際にそれで教会内で問題になったそうですね。しかし日も浅く、准将という立場であったことも手伝って表沙汰になる前に教会内にて揉み消された。それを見つけて興味本位でクスリをやり、密輸業者とも繋がって今の今までやめられずにいたところをミラーニ女史に握られかけた」

 さくらの瞳は迷いに揺れたりしなかった。何らかの感情の色もなく微笑もなく憐憫もなく、ただただ冷然たる瞳でもってヨハンネスに目を向けて。

「ヨハンネス・ラ・ロテッラさんの、それが女史を殺した動機。それに間違いはありませんか」

 世界の理を記したような正確な言語で言い切った。
 ……一拍遅れて、ヨハンネスの疲れたような湿った吐息が鼓膜を叩いた。

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