真佳が叩き起こされたとき、事態は既に始まっていたようだった。昼一時……。まあこれくらいなら許容範囲だとうと秋風真佳は思っている。

「どこが許容範囲だ」

 そんなようなことを寝ぼけ眼でぐだぐだ述べていたらさくらに手刀を入れられた。




「時はきた」とセイウチは言った



 ふあっと小さく欠伸をする。ラ・ロテッラ夫人が小さく眉を顰めるのを見た。次男は落ち着かなげに貧乏揺すりを繰り返し、長男は相変わらずむっつりした顔でこの集まりに列席している。食卓に座る位置としては、くだんの事件があったあの日とそっくり同じ。この家の主はここにはおらず、使用人を勤めるパウルスが夫人の傍らに付き添っていた。使用人の顔にもどこか落ち着きがなく思われる。
 視線をぐるりと振り向けた――食卓の最も下座に位置する場所で、さくらが腕を組んで屹立していた。彼女の左手にはやっぱりどこか緊張したふうなマクシミリアヌスが横に並び、下座側の戸口のところには太眉の一等兵が、戸惑った様相でもって出口の一つを固めていた。
 一人、確認するように頷く。
 成る程、事態は始まっている。恐らく真佳が寝ている間に、さくらの方が蹴りをつけた。“探偵”役におあつらえ向きの、謎解きの場は整ったのだ。この中に犯人がいる。――と、探偵役になれない真佳は訳知り顔でまた頷いた。

「二日前、この家で起こったくだんの事件についてはまだ記憶に真新しいと思います」

 とさくらは言った。
 当然日本語での発表だが、一度もさくらに出会ったことがない人間はこの場にはいなかったため不可解に思う人はいない。ただ、勿論のことただの一般人である彼女が主導権を握ったことに眉を顰めた人はいた。
 部屋のぐるりを見回して思う。こうしてきちんと見張っていれば、言葉などなくても真佳にも真相が分かる時分が来るだろうか。

「一応おさらいしておきましょうか。一昨日の夜八時頃、新聞記者のミラーニ女史が殺されました。死因は頭部を殴られたことによる頭蓋骨骨折で即死。女史が倒れていた位置、額の傷と鏡に出来たヒビとの一致等々から現場はあの手洗い場であり、それと同時に、鏡の割れる音がしたその瞬間こそが犯行が行われた時刻であると、治安部隊の方でもほぼ決定付けられました。だからこそ、あの時あの瞬間この食堂におらず、かつ現場で佇立していたところを発見されたペトルス・ズッカリーニこそが、最有力の被疑者として勾留を余儀なくされた始末です」

 そこで彼女は一度こくりと唾を呑み込んだらしかった。顔色はあまり良くなく、米噛みのところが時折神経質にひきつっているのが目に見える。恐らくそれは、彼女の右に立つ真佳にしかわからないことであろうけど。

「前口上は結構だが」

 と次男が言った。確かヨハンネス・ラ・ロテッラとかいう奴だ。垂れ下がる涙袋と同様その片目をからかうように軽く歪めて、肘をついた両手の指をいじくっている。

「結局のところ、あんたらには犯人がわかったということでオレは受け取っていいのかね? そういうふうにして集まるように言われたんだけどねぇ」

 さくらが頷くのに少しの時間もかからなかった。

「ええ、勿論。この講義が終わった暁には、既にあなた方の中に犯人の名前は刻まれていると思います」
「面白いことを言う。と言っても、オレたちは既に犯人の名が刻まれた心臓をここに持っているんだがね」

 片肩を竦めてヨハンネスはそう言ったが、誰もぴくりとも笑わなかった。ラ・ロテッラ夫人の米噛みが引きつるようにピクピクと動いただけだった。

「では」

 と涼しい顔でさくらは言う――。
 くすりと微笑って、

「ペトルスが犯人ではあり得ない理由をまず説明しましょうか? そのほうが分かりやすいかもしれません。何せ今回の犯行が行われた手順を明らかにするだけで、彼が犯人だという結論があり得ないことであることが、誰の目にも明らかになるんですものね」

 ヨハンネスが眉根を寄せたが、さくらはもうそれには取り合わなかった。「マクシミリアヌス、銀の鎚の魔術式」左手に立つマクシミリアヌスに囁いて、一枚の書面――事件番号と記述者名、何かの番号等の下に煩雑な魔術式がでかでかと描かれている――を受け取り曰く。

「あの時、現場にあった不可思議な証拠の一つに銀の鎚があったことは覚えていらっしゃることと思います。形状はご存知ですか? 普通の鎚の形をしたもので、ただ女史の頭部に衝撃を与えた影響か攻撃面の辺りに少しく傷がついていました。傷のあるほうとは逆のハンマーヘッドには魔術式。鉛筆で描かれた魔術式のその上に、何か鋭利なもので彫られたような別の魔術式が描かれています」

 書面を机に置いてから、さくら自らそこに魔力を注入した。するとそこに浮かび上がったのは、半透明になって中空に浮かぶ現場に落ちていた銀の鎚――飲食店の店先でも見られた、複製魔術式の発現だ。一方の攻撃面に、さくらが言ったような鉛筆の後と丹精な彫り込みが見て取れる。

「鉛筆で描かれた魔術式の円が、ギリギリのところで断ち切られるのを免れていることにはお気付きでしょう」

 とさくらは言った。言われてみれば、確かに本当にギリギリのところで上の彫り込みから逃れきれているようだ。ちゃんと見ないと見逃してしまいそうだけれど……鉛筆描きの線は首の皮一枚のところで辛うじて繋がっている。壊れていない。

「これには教会の鑑識の人間もちゃんと気付いてくれていて、調べてくれていたみたい。ただ、鉛筆描きのほうは円が生きていたとしても中の魔術記号、何かを構成するための要素が上の彫り込みで滅茶苦茶になってしまっているから、何かを成すことが出来たとは思えないという話。精々円が意味を持つ、強化の役割が出来るくらいだろうと。
 ただ」

 誰かが何事かを口にするのを阻むように、一際強くさくらはその接続詞を口にした。

「だからと言って、鉛筆描きの魔術式が意味を成さないものになるわけではない」

 あからさまな断言に、目の前に座る人々は皆一斉に眉を顰めた。戸口のところでは例の一等兵も眉根を寄せていたかもしれない。怪訝な顔をしなかったのは真佳と、多分マクシミリアヌスと、それにこの家の使用人のパウルスという男だけだった。

「魔術式の部分、特に彫り込みの周りの辺りをよく見て欲しいのだけど……」魔術式に手を触れながら、さくらはそれが見やすいように中空に浮かぶ鎚の方向を書類の角度で調整した。「一部に、彫り込みに沿うように鉛筆の後が残っているのが分かるでしょう」

 長男のヒエロニムスが眉間のシワを層一層強くした。

「……下に描かれた魔術式の都合上、たまたま残っていた可能性は無いのですか」
「さあ。そういう可能性も無いとは言い切れないでしょう。でもこの鉛筆描きをなぞり新たな紙に起こしたとき、その可能性はただの目眩ましに過ぎないことがお分かりいただけると思います」

 さくらがマクシミリアヌスに目配せした――真佳がすやすやと眠っているその間に、随分と謎解明のためのやり取りが二人の間で交わされてきたようだった。そこに隠されている魔術式は分かっても、魔術記号で構成された意味だけはさくらだけでは分からない。
 小さな頷きで応対したときにマクシミリアヌスが引っ張りだしたのは、粗い表面の羊皮紙に描き出された、完成された魔術式だった。
「これは」とマクシミリアヌスが補足する。

「彼女の言を参考にし、鉛筆の後を忠実になぞることで再構成に成功した、隠された魔術式である。意味を述べておくならば、酸化マグネシウムで囲んだ強磁性」

 強磁性。
 と真佳は唇の先で繰り返す。

「言わば磁石と言ってよかろう。非磁性体である銀との間に低抵抗の酸化マグネシウム層を挟むことで、魔術式の範囲内で安定した磁気を発生させることに成功しておるという……」とそこでマクシミリアヌスはごほんと一度咳払いしてから、「……俺はそういったことには詳しくはないが、彼女の問いに答えた解析班の話ではそういうことになるらしい。つまり、普通ならば反磁性体に分類される銀を磁石として使用することが出来る式というわけだ」

 さくらのほうに視線をやった。顔の青みは薄らいで、最初に比べると随分平静を保ってきていると思われる。彼女が一つ息を吐くと、更に健康的な色が頬のところに戻ってきた。

「彫り込みの魔術式については皆さん既にお分かりのことと思います。銀を構成するための魔術式……つまり、銀を銀としてこの世に顕現させるための魔術式。鉛筆描きの魔術式を自然に見せるためか幾らか手は加えられているものの、基本的にはこれは模範的な銀を形作る魔術式で、第一級魔力保持者によるものか或いは第二級によるものか、未だ教会側も判断つきかねるといった姿勢のようでした」

 鎚の複製魔術式を机の上に置き直してから、「ところで」とさくらは口にした。細くたおやかな指先は未だ魔術式の縁のところに添えたまま、継続して魔力を供給している。中空に浮かぶ半透明の銀の鎚が一瞬横に震えた気がした。

「この銀の鎚を生成した魔力が、今世間を騒がせている“マルテッロ・ダルジェント”の残した鎚を生成した魔力のそれと同一であるということは、皆さんの耳にも既に入っていることと存じます」

 ラ・ロテッラ家の三人が互いに窺うような視線を絡ませた――。応か否かに関わらずさくらは先を続けるつもりであったであろうが、二人の母である風格を取り戻したテレサ・ラ・ロテッラ夫人が結果的に応と答えた。「ですから」昂然と頭を持ち上げて、威厳と偏見に満ち満ちた声音を震わせて――

「ですから、彼がくだんの殺人鬼と通じているのではというお話になっているのでしょう? 彼の魔力と殺人鬼のそれとが一致しなかったのは残念でなりませんけれど……。彼がそうであったならば、これ以上の殺人に怯える必要は無いのですものね」

 恐らくこの場の全員が(というのは真佳を含めたさくらとマクシミリアヌスの三人だが)怒りと抱えた異議とを持って一歩前に踏み出しかけたが、三人が三人、何とかそれを堪え切ったと思われる。その結果が一番顕著に表に出たのが、さくらの冷然たる推理を織りなす口振りだろう。

「……この鎚が一体どこから出たものか、私たちはその出処を知っています」

 と、冷ややかな声音でもってさくらは言った。……一瞬、ラ・ロテッラ夫人が驚愕と恐れにその瞳孔を震わせた。

「……どこから出たと仰るの」
「路地に佇むとある商人……けれど、この話はしばらく置いておきましょう。話の論点はまだそこではありませんから」

 そう言ってさくらは一瞬満足気に微笑んだ。……ような気がした。真佳のほうもそれで多少溜飲が下がったのは確かな事実であったので、それについては深くは語らないことにしよう。

「ともあれ、この一件でくだんの連続殺人鬼が今回の事件に必ずしも関係しているわけでないことは分かりました。どういう経緯でかは分かりませんが、恐らく犯人はひょんなことから例の商人の話を聞き、今回の犯行に用いるために銀の鎚を買い取った。……私たちはその売り物のサンプルを持っています。そこに鉛筆描きの跡はありませんから、特注か或いは自分で魔術式を描いた後、銀生成の魔術式をなぞるように彫り返したか――」

 さりげない様子を装って目の前に陳列した容疑者の峰々を見回した。皆が皆緊張に顔を強ばらせているような気がしてしまう。顔を青くし、米噛みを引き攣らせ、唇の端を硬くして。――今のままでは、誰がさくらの言う“犯人”に該当するのか分かりやしない。

「とにかく、あの鉛筆描きが犯人にとって必要不可欠なものであることには変わりはない。じゃ、何故犯人にとってそれが必要だったのか? 答えはとても簡単です。ミラーニ女史を遠距離から殺害するのに、強磁性という要素を付与した銀の鎚が必ず必要だったから」

 遠距離、
 から。
 というざわめきが食堂の中を一時不穏に占拠した。

「強磁性、即ち磁石を引き寄せる性質が必要な状況というのは何でしょう? 磁石の特性で最も目を引くものは何でしょう? お分かりですね、磁石となる相方に一定期間くっつけ続けておくことです」

 一瞬、ラ・ロテッラ家の連中が互いの視線を瞥見した。今や素知らぬ顔を貫き通している者はいなかった。使用人のパウルスさえも、今や顔面を白く硬直させてさくらのほうを見つめている。
 さくらが短く息を吐いた。

「……魔術式は円さえ壊されていなければ、或いは中の構築式が魔術で補足不可能なほど滅茶苦茶に壊されていなければ、その力を失うことはありません。例えその上に別の塗料が撒かれていようと、黴に侵食されていようとです」

 思わずさくらの横顔を振り返った。――長い年月放置されて茶色くなったみたいなシミ。手洗い場の中の情景を思い返す。さくらが気にしているふうだった――でも事件とは関係ないと思われていた壁のシミ。
 どくん、と、心臓の辺りが激しく疼いた。まさか。

「……確かにあれは事件の前からあったものです。一年前から発見されていて、一見事件とは無関係だと思われました。でも、つい一週間ほど前からシミの色合いが濃くなっていた……という話を、あなたは教会にしたそうですね。……ラ・ロテッラ夫人」

 びくりと夫人の肩が震えた気がした。長年の経過によって刻まれ続けた顔のシワが強張って、開いた瞳孔は何かを恐れるようにどことも知れないただ一点を見つめている。
 失敗した、というその声が、頭の中で直接響き渡る短い錯覚。

「あなたの感性は実際とても正しかった。シミは確かに悪化し、しかもその悪化した色合いは極自然的なものではなく、作為的で且つ人工的なものでした。シミに見えるように調整された壁の塗料のその下に、魔術式が発見されたのです……磁石を生成するための魔術式が」

 誰かの声が、体が、それとも神経のどこかが震えたのかは分からない。誰かの、或いはこの場にいる全員の動揺が震えになって空気全体をたった数瞬震わせた――皮膚がピリピリと粟立つ感覚に寒気がした。一週間前。一週間前からこの事件の犯人は、くだんの新聞記者を殺そうとずっと画策してきたのだ。それは長く、陰険で悪質な紛うことなき悪意の塊の表象だ。

「手洗い場の天井にあるシャンデリア、ご存知ですね。魔術を維持する灯火を支える、タコ足状に伸びた装飾的な数本の腕木。あれは糸を引っ掛けるのにとても適した存在でした。ハンマーヘッドの部分に輪にした糸を引っかけて、磁石でもって鎚を壁に固定する――。魔術式から放たれる磁気が切れれば、振り子の要領で鎚は目標の頭を粉砕するという寸法です。少々威力が強すぎて、目標は顔面から鏡に突撃してしまったようですが、それも仕方のない結果でしょう」
「糸は」

 と誰かがぽつりと口を挟んだ。
 視線の先を巡らすと、長男たるヒエロニムスが緊張に強張った唇を言葉の形に動かしているところだった。

「その糸やトリックが、実際に使われた証拠はどこにある」

 さくらが複製魔術式から手を離した。代わりにその手をマクシミリアヌスのほうに指し示し、それで大男の手が別の用紙を取り出した。銀の鎚を複製する魔術式によく似ている――けれどよくよく見てみると、魔術式を構成する魔術記号がほんの少しだけ異なっているようにも思われる、粗い材質の羊皮紙だ。
 机に置いたそれに彼女は手を添えて、そこに描かれた魔術式を展開した。

「トイレの中の洗面台の、S字パイプに引っかかっているのを教会に見つけてもらいました。……先端に重石のついた細い糸。恐らく犯人はこうやって重石をつけることで、糸の回収さえも自動的に行えるよう取り計らっていたのでしょう。教会があそこを四六時中見張っていたおかげで、これを回収させる暇を犯人に与えずに済みました。もし気付くことが遅れていれば、あそこの見張りも解除されて実際に犯人に回収されていたことでしょう。そう思うと、本当にギリギリだったと認めざるを得ませんね」

 そう言ってさくらは細い肩を軽く竦めた。中空に浮かぶ巻かれた糸と黒く見える重石が、それに呼応するようにほんの僅かに横にぶれる――。時間がない、と繰り返し口にしていた鉄兜の男の姿が、真佳の脳裏をちらと過ぎった。

「それで?」

 苛立たしげに声を上げたのは次男であるヨハンネスだ。四角い指でコツコツと強く机の天板を弾きながら、涙袋の下がった瞳でさくらのほうを見据えている。

「謙遜はいい。それが出来た犯人ってのは一体誰だ? アンタはトリックさえ分かれば、あのズッカリーニとかいうガキが犯人でないことは瞭然だろうとのたまったが――」
「分かりませんか?」

 小さく、短くさくらは微笑う。

「この時点で、ペトルスが犯人であるわけがないのは本当に瞭然じゃありませんか。まず一つ、彼がもし犯人であったのならば、重石と糸を回収しない理由がない。二つ。もし本当に彼が犯人であったなら、犯行時刻のあの時間わざと疑われる場所に存在する必要性もまるでない。そして三つ目。ペトルスはこの家にあの時初めて来たはずで、一週間前から魔術式の工作を行えうるはずがない」

 述べながら立てた三本の指を魅せつけるように軽く振るって、さくらは一層両の口角を持ち上げた。魔術式から片手を離し、自由になった両手でもって手首に体重を乗せかけるようにテーブルの縁を軽く掴む。

「以上の点は反転すれば、自ずとこの事件の犯人を表す攻撃要素にもなり得ることにお気付きでしょう。重石と糸を回収すること能わず、あの時あの瞬間のアリバイを生成するためにこんなトリックを考えだして一週間前から準備に勤しむことが出来た人。つまり」

 銀に輝く双眸を吊り下がったシャンデリアの灯りに光らせながら――
 探偵は、粛然と断言した。

「あなた方こそ、この事件の最有力被疑者です」

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