この世界にやって来てからついに月を跨いだことに、部屋に置いてあるカレンダーを見てようやく気づいた。見慣れたカレンダーとは違う、一月から十三月までのページが綴られた卓上カレンダーだが、ひと月の長さは大体元いた世界と同じ羅列になっている。元いた世界では十三という数字は宗教的な理由も手伝って不吉な数字だと言われていたが、こちらの世界ではむしろ完璧を表す数字として尊重されている傾向にある。
「十三は、神が世界を完成させるために用いたものの数でもあります」――と、以前にペトルスが口にしたことがある。昨日の面会の終わりになって、そういう話をあちらのほうからしてきたのだ。

「魔術の源でもある核を創り、海を創り、陸を創り、地平線を創り、空を創り、闇を創り、光を創り、時を創り、太陽を創り月を創り、方角を示すための星を創り、植物を創り、それから知能ある動物を形作りました。全部で十三。世界を構成する、これが全ての基板です」

 それからほうっとため息を吐き捨てながら、

「……せめて留置所の部屋番号が十三番であったなら、これ以上ない希望になっていたでしょうに」

 本気なのかそうでもないのかよく分からない言葉で締めくくった。最初からそれが言いたくて回りくどい、世界の出来方みたいな話を一方的に始めたらしい。
 今日の面会はどうするべきだろう、と必然的にさくらは思った。会いに行って元気づけてやりたいという気持ちは勿論あるが、捜査の進展状況を考えると逆にペトルスを落胆させてしまうだけのような予感もした。結局彼が無実である、決定的な証拠というのは掴めていない。
 ――真佳が鎚を持ち帰ってから、最初の昼間が通り過ぎた。その時さくらは当たり前のように起きていて、食堂の椅子に座りながら鑑別の結果を今か今かと待っていた。時計の針が頂点を過ぎ長針が右に五度以上傾く間もおかず、マクシミリアヌスが食堂の扉を蹴破って曰く。

「……認められたよ。間違いないそうだ。“シルバー・ハンマー”の魔術痕だ」

 低くわななく声で告げられた。一度食堂の中を見渡して、

「マナカはどこだ?」
「聞く必要がある?」

 その回答だけで十分だった。マクシミリアヌスは分厚い肩を苛立たしげに竦めただけで、「また報告に寄ろう」すぐと頭を扉の影に引っ込めた。――例の鎚を持ち帰った張本人たる真佳は今、例によって例のごとく夢の中に旅立っている。昨日のうちに人相書きを作成するよう忠告しておいて本当に良かった。このおかげで真佳の目と記憶がなくても、一応それらしい人物は探し当てることが出来る。……間違いない。マクシミリアヌスはくだんの商人を探しに出たのだ。恐らく一人の男を捕らえるのに、そう時間はかかるまい。鎚のデータはマクシミリアヌスを始めとする探偵団だけでなく、その他の治安部隊員にとっても待ち望んでいた情報なのだ。
 この件に関しては、探偵団の出る幕ではないとさくらは思った。真佳の言う“銀の人”に関しては、本職の人間に任せておけばいい。土地勘も何もない自分が動いたところで足手まといになるだけだ。大人しく続報を待てばいい。この宿舎で。ルーナが立ち働き真佳が二階で眠っている、この宿舎で。
 ――しかれども、やるべきことに没した中でじっとしていられないのがさくらであった。



王手押詰



「おっ……」

 と、少しくびっくりしたらしい男が言った。振り返って見てみると、ラ・ロテッラ家の事情聴取をマクシミリアヌスとし直した際に戸口で見張り番を勤めていた男だ。太眉の下で怪訝な顔を険しげな感じに繕って、「えへん」と一つ咳をした。

「カッラ中佐は重要参考人の捜索とのことでしたが」

 ……何で捜査権もない小娘がここにいるんだと暗に含んで発された。事実その通りなので、マクシミリアヌスの様子を思い出して日本語で話してくれただけでありがたい。
 丁度良かった。聞いてみたかったことがある。
 腕を持ち上げ、壁のほうを指し示した。

「あれ」

 とさくらは口にする。

「事件の前からあったって聞いたけど、具体的にどれくらい前からあったの?」

 というのは、勿論ラ・ロテッラ家のトイレ壁にある一つのシミのことである。ミラーニ女史が死亡していた地点から真っ直ぐ後方にある、この黒茶けたシミがさくらはどうしても気になった。頭の隅のほうが嫌な具合にちくちくと刺激されるのだ。
 一等兵は途端に渋い顔をした。自分の発言が無視されたことに憤りを覚えたのか、もしくは何で小娘に我が物顔で質問されなきゃならないんだとでも思ったのか。――それでも何とか口を開いて、ぶっきらぼうながらも教えてくれた。

「……正確な日時はよく分からないそうです。誰もあんなシミに注意を払おうとはしなかったそうで。一年以上前くらいからあったんじゃないかということでした」
「……そう」

 視線を下ろす。一年前……か、とさくらは思った。それでは計算が合わない。では、やはりあのシミは事件には関係が無いということになるのだろうか?

「……ただ」

 と、一等兵の肩章を持つ男が付言した。

「一週間くらい前に見たときに、何だかシミが悪化したような気がした……と、夫人が」
「……ラ・ロテッラ夫人?」

「はい」と男は肯定した。エラの張った焼けた顔を気難しげに顰めて頷いてみせるのを確認してから、
 ……手洗い場の壁に残ったシミに視線を戻した。
 心臓が鳴っている。耳の奥から心臓と同じ、一定のリズムを刻む音がした。早鐘を打ちすぎて痛いくらいに。この感覚を、さくらは以前にも感じていたことがある。
 握っていた拳を解いてスラックスのポケットに手を――、心の中で舌打ちした。
 駄目だ。通話魔術式は使えない。マクシミリアヌスの使える魔術式は限られているのだ。彼一人ではさくらと遠隔に会話することは叶わない。この前の雨の日にさくらがやったのと同じように、近くにいる誰かが代わりに魔力を供給していてやれば話は変わってくるのだが……今この瞬間、マクシミリアヌスが誰かと一緒にいるのかなんてさくらに分かるはずがない。ということは。

「ねぇ」

 近くにいた一等兵に白羽の矢を突き立てた。

「ここに落ちていた銀の鎚と、昨日マクシミリアヌスが治安部隊に提出した銀の鎚、変わったところがあったと思うんだけど」
「……? 変わったところ、でありますか?」

 未ださくらに対する態度を決めかねているのか知らないが、眉と同じく実直ひに引き結ばれた唇から流れでたのはそんなトンチンカンな返答だった。質問の真意がきちんと伝わらなかったのかきょとんとした顔をしている。

「……そういえば、ここで見つかった銀の鎚ですが、そこに描かれていた魔術式に普通の銀魔術記号を表すものの下に、ごちゃごちゃと何かが描かれていた後があったという話を聞きました」
「……何かって、何が?」
「さあ。鉛筆で書き殴ったような後で……。魔術式を描く傷の下にあったので、下書きみたいなものじゃないかという話になっておったと記憶しております」
「……それでも、下の魔術式は発動する?」
「外の円が壊されていなければ、でありますが。しかし壊されているでしょう。何せ下書きですからな」

 最後は無理に取ってつけたような居丈高な声音でもって断言した。学生に化学を教える教師みたいだ。多少の差異はあるものの、人間の心理においてこちらとあちらの世界とではあまり違いが見当たらないように思われた。

「……ふうん」

 視線を壁の上方目掛けて跳ね上げる。心臓の辺りがまだじわりじわりと強く早く呼吸していた。ペトルスにされた、歯車と魔術式との関係性を思い返した。
 ……心臓が
 高く早鐘を打っている。

「洗面台のパイプ」
「は?」

 聞き返されて唾を飲む。

「洗面台のパイプ。に、何か引っかかってないか、調べたほうがいいと思うわ。事件が起こってからずっと見張っているんでしょう。きっとまだ、残ってる可能性はあると思う」
「残ってる?」一等兵が鬱陶しそうな顔をした。「一体何の話をしておるんです? ここに何があろうとも、失礼ですが一般の方に命令権を与えることはできかねます」
「ならマクシミリアヌスが帰って来た後にでも言っておいてくれればいい」
「あっ」

 と一等兵が声を上げたが、さくらはもう取り合わなかった。身を翻して一等兵の突っ立つドアを早々に開け放っておいてから、

「……貴方、ここでまだ見張りをするの?」
 一瞬一等兵が面食らったような顔をした。「……それがわたくしに与えられた命令です」
「そ。ならいい。暫くの間お願いね」

 戸口をくぐって出来るだけ静かに扉を閉めた。やるべきことは沢山ある。まずは優先順位を決めねばならない。差し当たって治安部隊棟に赴いて魔術式の“下書き”を見せてもらって。
 ……真佳をたたき起こすのは、全てが分かってからのほうがいいだろう。

 TOP 

inserted by FC2 system