間に合った。息を切らせて真佳は思う。遠く彼方、丸く弧を描く森林の地平線で一瞬赤い光が鋭く光った。沈みゆくソウイル神の最後の足掻きの光である。
 一度、荒い息の最後に静かな緩い息を吐いた。辺りを見回す。落日の光さえ失った教会支部は薄暗く、双子月が高みから照らす柔らかい月光が無ければその輪郭すら怪しかろうと思われた。小高い山のてっぺんに位置するこの場所には街灯一つ灯っていない。
 宿舎施設か支部のほうか、どちらに行くべきか暫し迷った。ラ・ロテッラ家にいないことはわかっていたので(ラ・ロテッラ家の次男のほうが、片手でご飯を食べるという相変わらずマナーも何もなっていない食べ方をしながら教えてくれた)、宿舎か支部のほうだと思ったのだ。
 ……宿舎のほう、でいいかな……。
 左の方角をちらりと見た。あわよくば、まだ宿舎に戻っていなかったさくらを、何時間も前からここで待ってましたよというふうで迎えられるかもしれないし。……さすがにこんなギリギリではお小言を免れないかもしれな、

「遅い」

 ……。見計らったようにソプラノボイスが耳介の中に飛び込んだ。

「……ちょっと迷ってたんだよ」
「迷うようなところに行ったのね」
「……」

 誰だ探偵ごっこなどと言い出したのは、とマクシミリアヌスをこっそり恨んだ。いつもこんな感じではあるけれど、探偵という役目を押し付けられてから一層アンテナを張り巡らせている気がする。張り詰めすぎて破裂してしまわないといいが。
 ちらりとさくらの後ろに目をやって、宿舎のほうからマクシミリアヌスがやって来ていないのを視認した。ここで誰かが待ちぶせしていたような気配はなかったから、恐らくマクシミリアヌスをほっぽって宿舎の戸口か自分の部屋の窓から入り口を監視していたのだろうと思われる。

「……大通りから外れて小路のほうに行ってたんだよ」

 と真佳は言った。案の定さくらは一瞬ちらりと片眉をつり上げたけど、……それだけだった。ギリギリとは言え約束を守ったことが功を奏したか、或いはペトルスの件でそういったことを咎め立てしている余裕が無いのかは分からない。ただ、「そ」と静かに言って真佳の次の言葉を待つ。

「……銀の鎚を見つけたよ」

 さくらが驚愕に両の柳眉を跳ね上げた。……宙に輝く月にも似た銀の双眸が、満月のように開かれる。その双眸に映る自分が不満げな顔をしていることに初めて気付いた。

「それは、」

 聞き慣れた甘美な声音はそのときばかりは枯れていた。でもそれは、不快に響く音ではない。鼓膜のところに妙に残る、引っ掻くような艶っぽさ。こいつは本当に、少しでも気を抜くと持って行かれそうな声を出す。
 片手に抱えたレザーバッグを両手でもって抱え直した。古臭い革のにおいが鼻を突く。それは、感染する絶望の双眸を思い出させるにおいである。

「マクシミリアヌスがいるとこで話そう。二度手間になってしまうもの。でも、私がどこに行ったかとかは教えないでね。何て言われるかは分かりやすすぎるほど目に見えているんだから……」
「それはいいけど」

 そこでさくらが珍しく口ごもったのは、きっとこの突然の展開についていけていないからだと思う。真佳にはその気持ちがよく分かった。ほんのつい先ほどまで、真佳だってそうだったのだ。こんな成果物を携える期待は、あの時一ミリたりともいだいてなどはいなかった。ただ、第三者である第一級魔力保持者なら別の切り口から事件を見てくれるんじゃないかって……もしかしたら、十六件目の事件があったあの時間帯、あの界隈にいた彼ならば“シルバー・ハンマー”を見かけたことがあるんじゃないかって……
 それだけ。溺れた中でがむしゃらに手を動かしていたら、まさかのところで宝石の類を掴まされた、みたいな、そんな複雑な心境である。
 ちらりとさくらが、辟易したような視線をこっちへ向けた。

「……アンタ、小路を通ったことを隠したまま、どうやってそれを見つけたのだと告白する気?」

 ……ひくしと頬が引きつった。それについては道すがら考えていたけれど、ついに答えは出なかったのだ。詳しいことを言わないとこれの効力も無くなってしまうし、でも怒られる道は出来れば避けて通りたいし。

「……ねー」

 と結局真佳は視線をあらぬ方角へ逃がしながら薄っぺらい相鎚を口にした。

「どうしようねえ……。私もさんざ考えたんだけど、良い案は全く見つからなかっ」
「お! 何だマナカ、帰って来ているではないか!」

 ――大男の声音に心臓がぐりんとひっくり返った思いがした。つ、詰んだ! しまっただからまだ私何も考えてな

「聞いたぞ! 無我の境地とやらを習得し銀河と、ひいては神と対話しておったというではないか! 君にそんな能力があったとは意外であった! 何かいい案は浮かんだかね!」

 ……宿舎の窓から意気揚々とその巨体を覗かせて大声を張り上げるマクシミリアヌスを目視した。……そのまま視線をさくらにシフト。したら即行で視線をそらされた。

「……」
「……」

 束の間、二人で無言の内に無益な応酬を試みてから、

「……あのさ」

 神や銀河と対話したって、何?




スッドマーレのジョン・ドゥ



 銀河というのは、ルクスと呼ばれるこの惑星の周囲に漂うと言われている、そのコミュニティの重力に捕らわれた星と星との集まりである。誰も実物を、遠目でだって見た者はなく、ただ以前現れた異世界人が自分のところにもあるのだからこの世界にもあるだろうと話したことから伝わった、いわば伝説上の天体だった(この世界から望遠鏡でもって宙を見ても何の変哲もない星々の群れが見られるだけだ)。銀河という本来の意味に使われるよりも、宇宙そのものを指す別称として称されることも多いと聞く。
 次いでこの場合の神というのは、ソウイル神というよりも自然そのものの意味である。この世界では神は自然であり、魔術であり、言語であるというのが通例らしい。だから神託を受けるみたいに神と対話したというよりも、自然と散歩したというのが正しい認識のようだった。

「……とゆーのがわかったとしてもだね。何で私がそーゆー超自然的なものと対話してたとかゆーような話が出てきたのか、今もって謎なわけなのですが」

 とぼそぼそ言うと、さくらがまたふいと視線をそらした。

「……しょうがないじゃない……思いついたことをそのまま言っちゃったらああなっちゃったんだから……」

 その“思いついたこと”で怪しい宗教団体の一員みたいにさせられては堪らないと真佳は思った。
 レザーバッグを取り囲んで宿泊施設の食堂。近いところに腰を下ろしたという事情により自然とさっきの無言の応酬に近い会話が双方の口から飛び出たが、マクシミリアヌスの耳には幸い届いた様子もなく(不本意ながら彼はもうあれが真実であると信じて疑っていなかったので、いっそそのまま利用してしまう段取りになっていた)、真佳が持ち帰った革鞄を険しい顔で見下ろしている。そうして小難しい顔をしていると一見物凄く頼りになる立派な軍人さんに思えてくるから不思議だ。マクシミリアヌスが頼りなくて立派でないと言いたいわけではないけれど。

「大通りを外れたのはいただけないが」

 と大男は口にした。“銀の人”の存在を提供するためには、ここを省くことはどうしても無理があるという結論に立ち返ったため、話すより他進む道はなかったのである。

「しかしとんでもないものを持ってきた。もしもこれがシルバー・ハンマーの魔術痕と一致すれば、奴の鎚が不自然に関わっていた理由に尤もらしい説明がつく。商人の話によっては、或いは――」

 そこでマクシミリアヌスは厚く固い唇を引き締めて言葉を切ったが、真佳にはその先に続く言葉を正確に受け取ることが出来るような予感がした。
 或いは。
 売った本人を記憶していて、ペトルスの無実を証明してくれることになるかもしれない。
 上蓋を開けられることで顕になった鞄の中で、くすんだ銀の色をしたハンマーが食堂の灯りを不気味な感じで照り返す。

「これを本当に、銀河や神と対話しながらの散策中に見つけたというのか?……」

 マクシミリアヌスのその言葉は半ば独り言に近かった。半ばどころか百パーセント独り言として構成された文章だったかもしれない。だから真佳は何も答えることをしなかった。
 ごめんよ、商人。割り切った体で真佳はぽつりと考える。秘密を守ると言ったけれど、実は最初からそれを守るつもりはなかったよ。あの甲冑男も、どうやらそういうつもりだった。真佳のほうへレザーバッグを押しやった、石膏の粉でもついていそうな精巧に形造られた片手を不意に思い出す。

「さあ」

 とその時冑を被った男は言った。
 小路から外れて、大通りに飛び出たときだ。太陽の沈みかけた町に人の影はあまりなく、大通りにぽつんぽつんと備えられた街灯の先が淡い光を放出する。街灯の頭に描かれたのと全く同一の魔術式が、教会のどこかにあるのだそうだ。その親魔術式に魔力の塊を注ぎ入れることで、街中の街灯が光を灯すようになっている。通常なら延々と魔術式に触れながら供給し続けないといけないところを、マギスクリーバーの技術でもって一定時間のみそこに魔力を溜め込めるようになっているとのことだった。そうなると人の手が介入していなくても、魔力が尽きない限り半永久的にそこに明かりは灯り続ける。
 押し付けられたレザーバッグを反射的に受け取りながら、当時の真佳はぱちくりと両目を瞬いた。

「これを君の教会の知り合いというのに渡すといい。君の友人を救出するのに、少なからず役には立つはずだよ」

 何で、と真佳は口にした。
 自分でも本当に声帯を震わせたのか疑うほど、掠れた小さな声だった。
 冑の男が小さく笑う音がした。

「その先を、私はあえて尋ねることはしないでおこう。恐らくどれも、答えられる類の話ではないからね」

 甘美なハスキーボイスがじわりと鼓膜の壁に沈み込む。それが小さく付け足した、「今はまだ」という付言ですら聴覚を甘く痺れさす。この点において、彼とさくらは似てると思った。思考回路が麻痺する前に真佳は鞄を抱き直す。

「……まだ、可能性はあるということ?」
「あるかもしれない」

 男がそう言ったとき、一体どの辺りを見ていたのか真佳は知らない。何での先を尋ねられる未来のほうを見ていたのか、それとも別の未来を見ていたのか。全ては冑に阻まれて真佳のもとへは届かない。
 そうだ、と甲冑男は思いついたように口にした。

「その鎚の代金は受け取らないことにしよう。その代わり、私のことは一切他人に漏らさないよう。私が良いと言うまでは、ただの一言だって駄目だよ。私は未だ、新聞に名を連ねる可哀想な身元不明の遺体のように匿名(マリオ・ロッシ)でいたいのだ」

 ……それから先は真佳は何も言わなかった。真佳を大通りにまで戻すために通った枝道を取って返した彼の背を、ただ漫然と眺め続けていただけだった。
 果たしてあれは夢の中での出来事だろうか? いいや、そんなはずはない。食卓の上に納めた銀の鎚の鈍い光が、あれが夢ではなかったことを何より如実に語っている。しかしそれでも真佳は不安になった。彼との接触その全てがいやに幻想的であり夢想的で、現実味というのがまるで無かったからだ。文脈から察するに、マリオ・ロッシというのも彼の名前ではないようだし。せめて名前さえ教えてくれればそこに一本線が通るのに。
 夢想的なものをペトルスの人生を左右する大事な証拠として提出するのは多少なりとも抵抗があった。でも結局、これに頼るしかないのだという現実は変わらない。

「その商人を洗おう」

 とマクシミリアヌス・カッラは言った。

「同時に鑑別班にこれを回す。連続殺人犯のものかそうでないかを調べるのにそう時間はかかるまい。明日の昼には結果が出ていることと思う。話はそれからにしておいたほうがよかろうて」

 そうしてマクシミリアヌスは重々しげにその巨体を持ち上げた。椅子の足が床を擦って、初心者のバイオリニストが奏でるような聴覚を不快に震わす音が出た。銀の鎚がレザーバッグに仕舞われて、マクシミリアヌスの肩に担がれる。真佳も静かに席を立った。――一瞬、さくらと視線が交錯した。

「誰なの」

 と小さな声で彼女は言う。
 何のことを指しているのか明確には言わなかったけれど、真佳にはそれが何を意味する言葉なのかがすぐに分かった。夕食の時間になるまで過ごすことになるであろう自室を思いながら、真佳は等閑に口にする。

「マリオ・ロッシ」

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