屋敷を離れる寸前振り向いた。頂点をいただいたスッドマーレ教会支部から海へと下る町並みと、中天に差しかかった太陽の春光。伏した日射が筋となって白い大通りを煌めかし、各家々の屋根を灼く。
 日が暮れるまでにはまだ間があった。危ないことをしていなければいいけど、と浅く思う。マクシミリアヌスの監視下から逃げ出すことを、見逃した負い目がさくらにはある。万が一のことがあればマクシミリアヌスの方に申し訳が立たない。
 しっかり戻れよ、と強く念じた。




刻限、燃ゆ



「いない?」

 マクシミリアヌスのすっ頓狂な声がこだまする。片眉を持ち上げた懐疑な花崗岩顔で、受付に座る一人の男を凝視した。隣でさくらも眉を怪訝に持ち上げる。色の黒い修道士服(丈の長い白いチュニックとフード付きのマント)の小男は、マクシミリアヌスの肩章にちらりと目をやって頭を下げた。

「は、はい。そのように。ええっと……この件について話すことはないからと、いないと言うように言われました」
「馬鹿な! 将軍と言えど関係者には違いなかろうが!」

 受付カウンターを殴るドンという音。一瞬行き交う人々が怪訝そうにこちらに視線をやってから、また慌ただしげに過ぎ去って行った。「申し訳ありません、申し訳ありません」カウンターの向こうにいる小男はマクシミリアヌスの剣幕にもはや縮こまっている。「あ、あの」とおずおずと目線を上――マクシミリアヌスの方向に向けて、

「あの時自分は現場にはいなかったのだから、話をする必要はないんだと――」
Cavolo(カーヴォロ)!」

 と大男は短い悪態を吐き捨てた。
 ――頬を掻く。今朝、スッドマーレ教会支部のこの玄関ホールで見た男の姿を思い出す。あの時捕まえておけば良かったのかとほんの一瞬だけ後悔した。こうなってしまっては、もう今回の件では公には会ってくれないだろう。ここでも非協力的な態度を貫かれるとは。
 故意にしろ無意識にしろ、ラ・ロテッラ家の人間は徹底して全ての罪をペトルス・ズッカリーニに押し付けようと画策している。このままでは事実、本当にそうなってしまうのだ――。
 屋敷に戻るか、とも考えた。もう一度根気強く話を聞けば。しかし何の武器も持たない状況で舞い戻ってもさっきの二の舞になるだけなのは目に見えている。どうする? どうすればいい――。
 教会支部の玄関扉の向こうへと、自然と視線を投げていた。
 真佳。
 お前は一体どこにいるんだ。


■ □ ■


 えーっと、ここからたしかこう行って、あそこがこうでこうなって……アートゥラの眷属と共に死体を見つけたのはどっちだっけ。あ、待てよあの時一回アートゥラの家に帰ったから、そこを持ち出すと訳がわからなく……。

「あっ!?」

 危うく通り過ぎかけた家屋の前で足をとめた。見覚えがある気がする……。いや、ここいら一帯の家々は皆大体こんな感じだけれど、でも――
 カーン、
 とどこかで音がした。
 カーン、……カーン――。間違いない。この家だ。音はこの家屋から聞こえてくる。長い日を経てすっかり白く汚れた窓ガラスからこっそり中を覗き込む。遠くのほうで、ちらちらと揺れる火の光が舞っていた。カン、と刀を鍛錬する音が耳殻に触れる。
 ……本当は、ちゃんと来られる自信なんてなかった。
 大通りから逃れた先に一人で分け入って、それで思うどおりの家を見つけ出せる自信はどこにもなかった。どうにかしなければならなかったから渡っただけ。それだけだった。……今回の奇跡に頭の中で感謝を述べる。

(もし来れなかったら、帰れもしなかったわけだしな……)

 と胸中で独りごちて唇を舐めた。日暮れまでに帰れなかったら、さくらがどんな顔をすることか。
 戸口の砂利を踏みしめる。男の背中はこの日もあった。甲高い音で小気味良く、鋼の刃を叩いている。肩の上に乗っているのは相も変わらず西洋甲冑の鉄兜。服は多分別のものに変わっていると思う。あの時は頭の冑に目を奪われて気が付かなかったが、こうやって冷静に見てみると色んなことが目についた。肘のところまでたくし上げた麻のワイシャツ、赤のスキニースラックス。被り物のせいで首から下随分華奢に見えるけれど、じっくり観察してみるにモヤシみたいな痩せ方をしているわけではなさそうだ。確かに縦に長い背中に見えるのだけど、ところどころの部位を見やるにどうやら必要な箇所にはしっかりした筋肉がついている。年の頃はよく分からないけれど、おじさんではないような予感はした。若い気がする。

「あの」

 と真佳は口にする。
 息を吸う。細かい灰と燃えるにおいで肺の中が満たされる。

「第一級魔力保持者ですよね」

 一息でもって口にした。
 ……カン、と間を置いて鋼が鳴った。答えはそれで十分だった。息を――自然、止めていた息を吐く。緩い、何かの時間に組み込まれていたような必然的な吐息になった。

「それに気がついたのはついさっき。すぐには全く気付かなかった。私がそもそも、魔術とは縁遠い場所で育ってきたから」

 ともすれば異世界人だと気付かれてしまうだろうと考えた。でもあまり気にはならない。彼にならバレてしまってもいい気がした。……カン、カン、カン、と打ち下ろされる音がする。

「だから気付かなかった。わざわざ鍛錬する理由。大抵は魔術で作り出せるこの世界で、わざわざ鋼を打っているのは、もしかしてキミがある一つの属性以外を魔術の力で生み出すことが出来ないんじゃないかって――」
「この世界では」

 ――と男は言った。長いこと使われなかった声帯を無理に使うような形で、しわがれた甘いハスキーボイスが冑を通してぶつ切りに宙へ放たれる。どこかもたついた印象を受けた。何かが引き攣れているような。

「長く使う代物は魔術に頼らず手で作る。そうでなければ術者が死んだその時、術者の作った代物も一緒に太陽に還ることになるからだ……」

 目を瞬かせる。魔力の供給が途絶えれば魔術で作った代物も――ああ、そうか。基礎魔術式で炎を吐いたあの時、確かに何かが持って行かれる感覚はあった。更にあの後長く吐き続けることで、継続して微量の魔力が持って行かれることになるのなら。
 ……ダヴィドに――首都で出会ったマギスクリーバーに、貰ったクナイを服の上からそうっと触れた。刃の付け根に魔術式があるやつで、これがクナイをクナイたらしめているとダヴィドは言った。魔術式が侵されるとクナイの形を保っていられないのだと。「そう簡単に傷付くことを許すようには出来ていないがね――何せ俺の仕事だもの。が、気をつけるに越したことはない」――つまりあれは、ダヴィドが死んで魔術式に魔力を供給出来なくなってもクナイの形を保っていられないという解釈にもなっていたのだ。最初に発した炎を基準に考えていたから思考の中身がごっちゃになった。

「しかし」

 と言ったのは、目の前の冑の男である。

「君の話には、当たっているものもある」
「え?」

 目を剥いた。一瞬自分が、さっき何を言ったものか分からなかった。
 ――カン、と男が鋼を打つ音。

「――私は第一級魔力保持者だよ」

 ……目を見張る。

「……え、でもだって」

 肩に垂れ下がった黒髪に手をやった。だってそもそもの起点からして可笑しかった。魔術を使わないで何かを生み出す能力がここでも必要とされるなら、手作業でもって鋼を鍛える鍛冶屋の仕事に矛盾はない。一つの属性しか扱うことが出来ないので仕方なく、ではないのなら、破綻した推理の結末も当然間違っていたはずだった。

「だっ……教会は? 第一級魔力保持者は皆ちっちゃい頃から教会に目をつけられて教育されるって――」
「君は本気でそんなことを言っているのかな。私が第一級魔力保持者である可能性を抱いたとき、君の中に一体どんな考えたあったのか。思い出してみるといい」

 一定のリズムで鋼の刃が叩かれた。元の世界にいた頃に聞いた、遮断機の警告音に似ている気がした。腕木がどんどん下がってくる。電車がぐんぐん迫ってくる。音の波が鼓膜を叩いて、列車風がぐんと重心をかっさらう。

「……、――誰も彼もが教会に飼われ続ける」唾液の塊を喉の奥底へ押し込んだ。「……はずはない、と思った」

 やっとのことで真佳は言った。唇を舐める。カン、と甲高く小気味良い音。冑の中で男の顔が、満足気に微笑んだように思われた。発せられた空気の籠り方から、無意識のうちにそう判断しただけだったかもしれない。

「じゃあ、何でお兄さんは――」

 カン、ともう一度鋼が鳴った。
 真佳の唇を止めるに足る、絶対的な金属音。
 ――男が立ち上がったように思われた。持っていたハンマーがガランという音を上げて金床の上に転がった。――大気を舐めるように燃える炎に、男の長身が切り取られる。

「君は恐らく、時間がない」

 振り返ったときのその顔は、やっぱり冑で覆われていた。

「……時間がないって」

 後じさる。靴底が砂を噛んで不快なノイズを発したとき、真佳は思わず驚いた。後じさる、という命令を、脳で下した覚えは無かったからだ。
 男の冑を上目遣いに見やりながら、慎重な声音で真佳は続けた。

「……何で?」
「新聞を見た」

 と男は言う。

「ミラーニとかいう新聞記者が書いたほうでないやつをね。あの新聞社は、彼女がいなくなってから業務もままならない状況らしいね――しかし、教会の発行している新聞でも状況は大方理解出来る。君の友人が被疑者として連れて行かれ、今君たちは彼の無実を証明するために奔走している。違うかな」

 目を剥いた。……目の前の男の言動がついさっきのさくらのそれと重なって、二重にブレてくらくらした。元の世界でもって生み出された、世界初の名探偵の名が脳裏をよぎる。もしかして、ああいう奇術師みたいなのがこの世界にはごまんといるのか。
 火戸に燃え盛っていた火が消え入るように掻き消える――いつの間にか椅子の背から引っ張りだしたジャケットを、服の上からぞんざいな感じに着込みだす。この世界では珍しくズボンとジャケットの色がまちまちで、それが何だか現代的なふうに映らなくもない。こちらの世界の目をもってして言うならば、とても異端だ。

「待ってよ。何で――」
「時間がない」

 とまた言った。
 鉄兜の中から響くとても斬新な声色で。

「お友達を助けたいのなら、話は後のことにしよう」

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