一旦家を出た先で、マクシミリアヌスと二人家の外壁に強く背を預けた。最初ペトルスと三人、連れ立って家の中を覗き見るのに利用し、また数十分前に真佳がここから逃亡する前に話していたあの外壁である。大通りを家壁に沿うようにぐるっと周って反対側、高級住宅街のみを繋ぐ小道には家から一定の間隔をあけて煉瓦道が敷かれており、それが細やかな陽光を浴びて小麦色に輝いている。飽くまで家の周囲を囲むものであるので光の恩恵にはあまり与れていないようだ。 「参った」 とマクシミリアヌスがまず言った。 「全員が全員非協力的だ。まあそれも、今回の件に関わりたくないという表れかもしれんが。何せ殺害されたのはこの家の厄介者で、加害者と思われているのも自分たちとは関わりのない人間だからなあ……」 苦々しげな顔で額を掻く。それにはさくらも同意であった。関わりたくない事件・関わりあいになっていない、または関わりあっていないと思われたい事件――。それであるからこそ彼ら彼女らの口は固い。 でも、それでもそれらを繋ぎ合わせることで自然見えてくるものはある。 「アドルフス・ラ・ロテッラ……」 さくらが小さく呟いた。マクシミリアヌスが視線をよこす。 「彼がミラーニ女史の標的であったことは、どうやら疑いのない事実のようよ。夫人の反応を見てもそれは確信出来る。なら、まずはそっちを探ることが優先かもしれない」 というのは、勿論マクシミリアヌスとて分かっていることのはずだった。マクシミリアヌスの顎の動きはそれを肯定するように動いている。二人が同時に分かっていることでありながら、それでもすぐに行動に移さなかったのはまあ、ラ・ロテッラ家の明らかに歓迎されていない空気に疲れきってしまったからではある。 折角この場が設けられたのだからと、さくらはそのままついと視線をマクシミリアヌスのほうへよこして見せた。 「マクシミリアヌスはどう思う?」 「どうとは?」 「犯行。可能だったと思う?……使用人のパウルスと、それからこの家の主人のアドルフスさん……は、まあアリバイについてはまだ聞いてないから分からないけど。この二人以外には、全員にアリバイが存在するのだけれど」 一度唾を呑み込んだ。 これは真佳とさくらが証人になる、揺るがしようのない事実である。実際ここがあるからこそ、ペトルスへの容疑が一層確信されているものと思われる。 「――あの場にいないまま、例えば遠隔的に女史を殺すことは可能であったと判断する?」 マクシミリアヌスの眉間のシワが深くなる。そうすると花崗岩らしさが強くなった。固いシワをいだいたまま、固い表情でマクシミリアヌスは正面の――ラ・ロテッラ家と背中合わせになった屋敷のほうを、じっと見つめているようだった。 「不可能ではない……と思うんだが。でなければペトルスが犯人ということになってしまおう」 「それはまあそうなんだけど」 とさくらは軽く息をついた。そう、遠隔から人を殺す方法が無ければさくららの行動するそもそもの前提が覆ってしまう。それは分かっているのである。しかし言いたかったのはそれではなかった。 「……例えば、そういう魔術があるのかって話なんだけど」 「遠距離から人を殴り殺す?」 「まあそうね。死因がそれで確定しているのなら」 「残念ながらそれは確定だ」とマクシミリアヌスはまず言って、「……そういう直接的な魔術は聞いたこともないな」小さく首を左にひねった。 まあそりゃあそうである。そういう魔術があろうものなら真っ先にマクシミリアヌスが可能性として上げただろうし、治安部隊員だって馬鹿じゃないのだからそう簡単にペトルスを連行しようとは思わない。 密かにいだいていた淡い期待を潰されて、さくらは深く息を吐いた。マクシミリアヌスは尚も首をひねっている。 「ズッカリーニ医師――まあペトルスの実祖父だが、彼が言うにはどうやら女史は結構な力でもってガツンとやられたらしいのだ。頭頂骨は外れていて、どちらかというと後頭骨側だったらしい。それが更にペトルスへの嫌疑を強めておるのだ……。彼は女史より背が低かったろう。五センチほどと言ったところか。肘を曲げて殴った場合、それぐらいの身長差なら後頭骨に傷がついてもおかしくはなかろうということだ」 苦いものがこみ上げてきてさくらは強く眉根を寄せた。ペトルスの肉親がそう言っているのだから、それに嘘は無いだろう。実の孫を貶める理由は彼の祖父には無いはずだ。 現場は手洗い場。当然女史が座っていたはずはない。いや、座っていたのなら一層傷口は頭頂部に近づくはずだった。 「骨は折れていたの?」 「紡錘形にな。シルバー・ハンマーの最新の事件にあったような円形ではなかったのでハンマーのサイズは反映されておらんかったが、無論これは珍しいことではないので問題にはならん。傷口の一致は間違いないということだからそれで十分話が通る」と言って肩を竦めて「今回の件がシルバー・ハンマーの仕業であるのならこちらが最新になるわけだが」 ……米噛みの辺りを強くぐりぐりと押さえつけた。そうだ、それも残っていたのだった……。シルバー・ハンマーと同一の魔術痕の残された銀の鎚。あれが一体どこから出たものであるかについても大変に重要なことである。本物のシルバー・ハンマーがあの場に残した? 何のために? ペトルスが残す魔術痕がシルバー・ハンマーのそれとは全く性質を異にすることが容易に証明されてしまう以上、ペトルスをシルバー・ハンマーの身代わりとして差し出すことは出来ないはずだ。では他にどんな意味があるというのか? 考えるべきことが多すぎて頭がこんぐらがってきた。更に米噛みをぐりぐりぐりとやりながら、さくらは休憩の意を込めて別の話を口にした。 「ペトルスは今、どういう状態にあるの。起訴まで行きそう? まだ正式な逮捕はされていないのよね?」 マクシミリアヌスが頷いた。「されていないようだな。だが時間の問題だろう。決定的な証拠は無いにしろ、あの家にいた他の人間にはアリバイがある上真っ先に君たちが駆けつけた先には彼がおり、その上凶器であるあの鎚には彼の指紋がしっかり付着しておったわけだから」 「……そういえば、どうしてペトルスはあの鎚を持っていたんだろう」 ペトルスがやったわけではないことだと頭から信じこんでしまっていたので、改めて考えてみようとも思わなかった。……相当焦っているなと思う。 「ああ、それは、落ちていたのでつい手を出して拾い上げてしまったらしい。凶器であるという認識はあったが、女史の死体と状況に飲み込まれて深く考えが働かんかったようだ」 「……無理もないか」 その迂闊な行動が絞首縄(この国に死刑制度があるかどうかは知らないけれど)に一歩近づかせる結果になっていたとしても、ペトルスのことは責められない。さくらだってあの時は随分錯乱していたのだし、冷静に対応しろというのが無茶な話だ。 「まあそんなわけでだな」とマクシミリアヌスは頭を掻いた。 「我々には本当に時間がないのだ。任意の拘束が難しくなってくれば逮捕に踏み込めるぐらいの嫌疑をかけられておるのだし、動機らしきものが見つかればすぐさま逮捕、起訴にまで及ぶことになるだろうよ」 ちらりとマクシミリアヌスを横目で見た。苦いものを噛みしめるように歯を剥いて、苛立ちにも似た怒気すら孕ませ向かいの家壁を睨み続けている――何か突破法は無いものか、見逃した事実は無いか、抜け穴は無いかとさっきからしきりに考えているのが痛いほどに伝わった。 「……私たちの行動を見越して探偵ごっこを持ちかけたのかと思ってた」 とさくらは言った。恐らくそれは間違ってはいない予想だろう。でも、きっとそれだけでは無かった――今のマクシミリアヌスを見ていて思う。その他にも立派な理由があったのだ。ペトルスを犯人としてしか見ていない治安部隊員から独立した、彼の無実を信じる仲間内でもってコミュニティを形成し、共に真実を掴み取るっていう。 マクシミリアヌスが喉の奥で笑う、乾いた音が小道に響いた。 「ああ、そうだな、それが後押しになったのは認めよう。君らがどうせ俺の監視下外で動くのなら切り出したところで変わらんし――いや、それより安全になるわけだ。状況が好転するのなら言い出さない手はないと考えた」 ……視軸を微妙に斜め上に逃げさせた。今現在、真佳がどういった言動を起こしているのか詳しいところは知らないが、どちらにせよマクシミリアヌスの監視下外で勝手な行動に出ているのは間違いない。あいつの手綱をしっかり握りしめていなかったのは改めて申し訳なかったと考える。いや、私はあいつの保護者になったつもりは無いんだけど。 「だが」――マクシミリアヌスは言葉を継いだ。 「無実の人間が罪を着せられようとしているのが我慢ならない、それが一番の理由であったと、俺は誓って断言しよう。俺一人ではどうしても、間に合うかどうか分からんかった。例え彼の祖父を味方につけることが出来たとしても、この焦燥は変わらんかっただろう。君たちには随分期待しているのだ――」 ちらりとこちらを見て薄く笑う。暖かくなり始めにかかる春光に似た、穏やかにそよぐ光のカーテンを想起させる笑みだった。マクシミリアヌスがそんなふうに自分たちを見ていたなんて……思わなかった。 そういえば、とさくらは思う。 周りにいる者をつい保護者然とした気持ちで接させてしまう真佳と一緒にいることが多いので気付かなかったが、マクシミリアヌスの視線は随分下に下っているのではあるまいか。今さくらに向けているそれは、既に保護者のそれではない。 いつからだろう。――いつからだったろう。全く何も思い出せない。もうそれなりの時間を共に過ごしてきたはずなのに。今までの出来事一つ一つがきっかけに見えて、けれど同時にそのどれもが違う気がした。 例えば、もしかしたら――もしかしたらの話だけれど。 さくららとマクシミリアヌスが、もしも異世界人と現地人という間柄でなかったとしたら――。 「さあ、そろそろ行動に移らねば」 と、マクシミリアヌスは口にした。 家の外壁から背を離し、二本の足ですっくと立って。 「……そうね」 一時その大きな背中を、呆然としたまま仰ぎ見て……それでようやく背中を外した。石壁の感触が背を離れる。服を通して伝わっていた冷たい石の温度の上を、春の風が吹き抜けた――。 「行きましょう。私たちには時間がない」 もしもの先を考えるのは、全てが終わってからでも遅くない。 |
石壁と陽光 |