テレサ・ラ・ロテッラ夫人は昨夜以上に縮こまって、固く口を閉ざしていた。「スィニョーラ・ミラーニが嗅ぎまわっていた件の内容ですが、心当たりはありますか」「……」無言。「……何か、共に夕飯の席についた時にでも、兆候か何かは感じませんでしたか」「……」無言。
 ラ・ロテッラ夫人は、ミラーニ女史に関する事柄については飽くまで黙秘を貫いた。何かを隠しているというよりは――ちょっとしたことで何かが暴かれてしまうのを恐れて、女史に関する受け答えの一切を拒絶しているかのようだった。ミラーニ女史に関することだけ――使用人の雇用年数や、昨夜屋敷内に存在していた人物の名前等は少しの間を置いてぼそりと答えてくれたので、本当に女史に関することのみに口を閉ざしているらしい。
 しかしマクシミリアヌスが長息混じりにこう尋ねたとき、

「……息子さん方はどうやら、スィニョーラ・ミラーニはアドルフス・ラ・ロテッラ将軍について嗅ぎまわっていたものと認識しておられたようなんですが、本当に何もお気づきにならなかったでしょうか」

 夫人の顔色が見る間に変わった。

「お、夫はこの件には無関係ですッ」

 突然の金切り声にも似た絶叫に、さくららのほうが驚いた。マクシミリアヌスも大した反応を期待していなかったのだろう、驚きすぎて微妙に椅子から傾いている。今回の質問もまた無言で終わるはずだと、これまでのやり取りですっかり予測していたのだ。
 大声を張り上げたラ・ロテッラ夫人はと言えば、白い頬をほんの僅かに紅潮させて唇を真一文字に引き結んでいた。腿の上で藍色のスカート共々拳を握りしめているのが雰囲気で分かる。頭の後ろで引っ詰めた黒髪が一房頬に流れ落ち、それが一層この場の空白を増長している。

「お、おお……」

 と一旦マクシミリアヌスはその場を取り繕うように意味の成さない呻きを漏らして、改めて座席に腰を下ろした。
 取ってつけたような咳払い。

「いや、無論、ご主人を疑っているのではなくてですな――将軍がその時この場にいなかったのは、誰もが認める事実ですから――ただ、動機を探るためにもスィニョーラ・ミラーニが調査していた件について、我々には深く知る必要が――」
「主人は関係ありません」

 もう一度、今度は静かな声音でもってラ・ロテッラ夫人は断言した。
 それからチラッとさくらとマクシミリアヌスとを順に見やって、

「……犯人はもう決まっているも同然でしょう? 動機なんて、仲間割れではありませんの? 事件当日潜り込んだ、ネ、ネズミは、ミラーニさんだけではありませんでしたもの」

 マクシミリアヌスの目が一瞬敵意で煌めいた。

「夫人、それは――」
「マクシミリアヌス」

 それ以上口にする前に釘を刺したのはさくらだった。こんなところで水掛け論をしていても始まらない。未だ女史の仲間だと思われているのなら、それでもいいとさくらは思った。そんなことよりも下手に夫人に楯突いて、情報を引き出せなくなることのほうが怖かった。
「ぅむ……」不承不承といった体でもマクシミリアヌスが矛を収めてくれて助かった。
 再びマクシミリアヌスが空咳する音。

「宜しい。では夫人には、それ以外の動機は心当たりが無いということで宜しいですかな」

 夫人は頭を傲然と後方へ傾けると「構いませんわ」とのたまった。紅の引かれた唇は震え、声には不自然に甲高いようなところがある。天井から下がったシャンデリアに照らされる顔色は白く、夫人が自分自身を必死に鼓舞しているのが痛いほどに伝わった。
 それと同時に、どうやら夫人は別の事柄をも教えてくれた。
 夫人の虹彩には定まりがなかった――一所懸命にマクシミリアヌスを睨みつけようとはしているものの、それでも完璧に御しきることはできなかったらしい。不必要に震える虹彩は挙動不審にあちらやこちらに視軸を向けて、安定というものが見られない。恐らく、それ以外に動機が見当たらないと言った夫人のそれは、真っ赤な嘘だ。
 ――マクシミリアヌスが疲れたように吐息した。

「では、これで終了にいたしましょう。ありがとうございました」

 座ったままで礼をして、ラ・ロテッラ夫人を下がらせた。次いで戸口の一等兵に視軸をやって、

「――この家の使用人を呼んでくれ」

 テーブルの天板に用意されたコップの水を一息でもって飲み干した。



 使用人のパウルスをさくらが見たのはこれで三度目だ。一度目は女史に呼ばれて客間に案内された際、ハーブティーを持ってきてくれた時。二度目は夕飯の給仕をしてくれた時。
 それから後もしばらくラ・ロテッラ家にいたのは確かなことだけど、お互いに視界の端を掠めていくような出会い方だったのであまり印象には残っていない。
 真佳は使用人だか侍女だかの態度で『日の名残り』のスティーブンスを想起したみたいだけれど、少なくとも外見に関してはアンソニー・ホプキンスに全く似ていないと言ってもよかった。と言っても、あの本の虫が小説だけでなく映画にまで手を出した可能性は圧倒的に低いので、当初の予定通り彼の容姿を見てスティーブンスを連想したというのではなさそうだけど。
 年老いてすっかり白く染まった男性だった。レンズの丸い鼻眼鏡に筆のように生えた山羊髭、年相応に顔のシワはそこいらに刻み込まれていて、あちらの世界の執事が着ているようなスーツを着ている。さすが使用人だけあって立ち居振る舞いは上品で、ピンと伸びた背は見ていてとても気持ちが良いものだった。

「パウルスさん……確か事件発生時刻には、厨房で束の間の休息中だったということですな?」
 マクシミリアヌスが尋ねると、「左様でございます」深々と辞儀して静かに肯定の意を示す。

 彼は椅子には座っていなかった。
 立ち話もなんだからと椅子を進めたのだが、立っているほうが性に合っておりますのでと微妙に強要しづらい言で辞退したのだ。だから今、彼はマクシミリアヌスの正面にある椅子に控えるように一歩下がったところにいる。まるでその椅子に彼の主が座ってでもいるようだった。

「皆様のお食事がお済みになられたので、食器を下げ、食後のエスプレッソをお持ちし下がった後のことでございました」
「何かが割れるような音は聞かなかったと」
「厨房の壁は大層厚くなってございますので」
「それで、長男のヒエロニムス君から知らされるまでは何も知らなかったと?」
「左様でございます」

 そう言ってまた使用人は一礼した。……なんとも調子の狂う相手である。或いはマクシミリアヌスはそうではないかもしれないけれど。さくらとは比べ物にならないほど、色んな人間を事情聴取した経験を持つことは疑うべくもないことだ。
 マクシミリアヌスが再び花崗岩の切れ目を開いた。

「ではあの時、我々が到着するまでは現場には一歩も近寄らなかったと仰るんですな?」
「左様でございますね。ご長男のヒエロニムス様からご一報を賜りました際には、すでに玄関口に貴方様方がいらっしゃるとのことでした」
「それで、我々を案内した時に初めて遺体を視界に入れたと?」
「いいえ、わたくしは拝見してはおりません。貴方様方をご案内いたしました際にご案内させていただいたのは事実でございますが、壁に阻まれておりましたためにチラとでも拝見することはありませんでした」

 ふぅむ、とマクシミリアヌスが小さく唸った。どこか不満気な、明らかに納得いってなさそうな吐息だった。

「では、スィニョーラ・ミラーニがこの家を嗅ぎまわっていたというのはご存知ですかな」

 使用人が小さく目を上げた。

「はあ、いえ、」

 何かを言いかけてやめたような間があった。すかさずマクシミリアヌスが補足に入る。「ああ、心配せんでもいいです。一応聞いているだけですよ。何せ被害者の身辺にかかわることですから」

「……左様でございますか」

 使用人が折り目正しく一礼した。

「わたくし自身は何も。ただ侍女の二人がそういった噂をしていたらしいのを聞いた程度でございまして」
「頻繁にミラーニさんが出入りすることに関して、何か思わなかったんですか」
「ええ、また新たなお付き合いをお始めになったとばかり」
「短い期間に、突然現れた人間が頻繁に訪れることがこれまでにもあったと?」
「……左様でございますね。遠方でお知り合いになったお客様がたまたまこちらにいらした時などは、よく見られることでございます」

 ふむ、とマクシミリアヌスが一つ唸った。使用人のパウルスは、度々伏し目がちの瞳でちらちらと部屋のいたるところを確認しているような素振りを見せたものの、不安がっていたり必要以上にマクシミリアヌスの顔色をうかがっているような感じは見られない。優れたポーカーフェイスの持ち主なのか、それともこれが素であるのかは、今は判断が難しいように思われた。

「その噂について、何か聞いておらんですかな――例えば、スィニョーラ・ミラーニが嗅ぎまわっていた人物の名前とか」
「存じ上げておりません」
「それがこの家の主であるといった話は?」
「……存じ上げておりません」

 同じ返答。マクシミリアヌスが息を吐いた。さくらもこっそり吐息する。二つの“存じ上げておりません”に違うものが含まれてあったかどうか、やっぱり現時点では判断出来ない。

「今現在」

 とマクシミリアヌスは口にした。

「はっきり言いますと、当日この家にいた者のうちアリバイが無いのは、ズッカリーニ君の他に貴殿一人ということになる」
「左様でございますか」

 コツコツと大男がテーブルを叩く音。――マクシミリアヌスの脅しに近い眼差しにもパウルスは動じた様子がない――。

「つまり、ズッカリーニ君があの場にいなければ、君が怪しまれていたということになる。……もう一度確認させていただきたい。貴殿はあの時、厨房に一人でおったのですな?」
「左様でございます。間違いはございません」

 ……マクシミリアヌスと二人、目を合わせた。
 ――先に嘆息のは彼の方だった。椅子の背もたれに巨体を預け出したのを見て取って、さくらも一人「……」深い溜息を吐き出した。
 終わりだ、ということを思ったのは、恐らく二人同時で間違いないだろう。ペトルスの無罪を勝ち取れる望みが無くなった――というのではない。使用人のパウルスから引き出せる情報は、これ以上は出てこないだろうという意味だ。ラ・ロテッラ夫人みたく感情的になってくれればまだ望みはあったのだが、自分が疑われているという段になっても顔色一つ変えやしない。

「結構。また話を聞きに来ることがあるかもしれんから、連絡は出来うる限りつくようにしてください」
「かしこまりました」

 そう言って使用人は出て行った。
 ……後には、なんともやりきれない思いを植え付けられたさくららだけが残された。



事情聴取・乙

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