「おや、マナカはどうした?」 「……疲れたから一旦宿舎に帰るって」 言うとマクシミリアヌスは神妙に頷いて、「無理もあるまい。現場を見まわったことであの忌々しい夜を思い出したのだろう……」 気の毒そうに大男はそう言ったが、さくらに言わせると真佳はそんなヤワな魂ではない。疲れたという一言でどれだけ誤魔化せるかと思っていたが、どうやらまだマクシミリアヌスは真佳を幾つか誤解してくれているようだ。或いは、探偵ごっこを言い始めたことへの負い目からくる気遣いなのかもしれなかった。 マクシミリアヌスの胸部を拳で叩いた。「? どうした」自分自身軽く叩いたつもりではあったけれど、予想以上に平気な顔をしていやがる。分厚い胸筋から拳を離して、「いや」とさくらはまず言った。 「事情聴取始めるんでしょ。アイツを待つ必要は無い。始めましょう」 |
事情聴取・甲 |
食卓の一画に腰を下ろした。あの夜座ったのとは違う、扉に近い下座の席だ。真佳とペトルスの座っていた辺が、供述者の目につきにくかろうと思ったのでそこにした。会議長のマクシミリアヌスは同じ辺の、もっと上座に近い位置に在る。さっき現場でその場の指揮を任されていた太眉の一等兵が、何気ない感じで扉口に立って警戒態勢をアピールしていた。 「ヨハンネス・ラ・ロテッラ殿を呼んでくれ」 年若の方から順に話を聞いていくつもりなのか――マクシミリアヌスが告げた名は、ラ・ロテッラ家の次男のものだ。あの日、ミラーニ女史がいなくなってから真っ先に口火を切った伊達男。 一等兵が扉を開けて声を張り上げると、次男はすぐと入ってきた。マクシミリアヌスの方を見つめる顔はどことなく強張っているように思えるが、視線を巡らせた先でさくらの姿を見とめると途端意外そうにその片眉を持ち上げた。 「ペシェチエーロでは女性を随行して事情聴取をするのが流行ってでもいるんですか?」 あの夜口を開いた時と同様の、ひどく軽薄な物言いだった。マクシミリアヌスが首都から来た人間だということを、どうやら彼は知っているらしい。彼が知っているということは、即ちこの家中の者が知っているということだ。 マクシミリアヌスは軽口には取り合わず、ただ無言で自分の正面の椅子を示した。大きな手のひらを天に向けて、最低限の敬意を払った示し方。ヨハンネスは肩をすぼめるように竦めてから、大人しく示された椅子に腰を下ろした。 「事情聴取って言ってもね、犯人はもう決まったようなもんなんだろ?」――二人に話をしているのだとでも言うようにちらりとこっちに視線を送って――「何を話すことがあるって?」 態度は飽くまでも浮薄だったが、マクシミリアヌスはそれには全く動じなかった。「スィニョーラ・ミラーニとラ・ロテッラ家の関係性を、聞かせていただきたく思いまして」 岩のように揺らぎない声と態度は、ヨハンネスを少しく鼻白ませるのに一役買ったらしかった。それもすぐに肩を竦められてうっちゃられたけど。ワックスで固められた黒髪の毛先をいじりながら、「と、言われましても」と彼は言った。 「これと言って話すことは無いんでね。関係性、関係性ねぇ……。それってーとあれでしょ? ミラーニ女史がうちの周りを嗅ぎまわってたっていうの……。確かにまとわりつかれてはいましたが、根拠の無い流言だとオレは信じますよ。お袋はどうやらその流言に根や葉があると思い込んじまったようですが。――始終びくびくしっぱなしで、全く。それが女史を調子付かせていただけでしょう」 思っていた以上にはっきりと彼は断言した。どうしてミラーニ女史がこんな家を嗅ぎまわっていたのか理解に苦しむといった体で。 「もし動機を探してらっしゃるってんなら、あのズッカリーニ君を探った方がまだ能率的じゃあないですかね」 天板の上に組んだ手に力を込めた。予想していたことではあったが、ここの人間もペトルスが犯人だと頭から決めつけているらしい――。胸のところのざわめきを鎮めるのに苦労した。 机の上を人差し指でこつこつやっていたマクシミリアヌスが、息を吐きながら椅子の背もたれに体重を預けた。 「と、言いますと?」 ヨハンネスが肩を竦める。 「まさか疑ってないわけじゃないでしょうね――犯行時刻に現場にいたあの少年を? 実質、女史をハンマーで殴り殺せる機会があったのは彼だけでしょう。オレたちは皆、ずっとこの食堂にいたんだから。……ああ、まあうちの使用人をアンタ方が疑ってるのなら話は別になりますが。あの時、あの少年と使用人だけはここにはいなかったですからね」 ――そう。それが、ペトルスの無罪を証明する時にネックになる部分なのだ。 組んだ手を改めて握りしめる。あの時食堂にいなかった、或いは途中で抜けだした人間はペトルスを含めて三人。使用人のパウルスと、この家の長男、ヒエロニムス・ラ・ロテッラ。ペトルスが殺したのでない以上、この二人のどちらかが犯人である可能性は高くなる。あの時さくららが手洗い場に行くきっかけになったあの音、ミラーニ女史が殴られた衝撃で鏡を割ったと解釈されたあの音が、例えば犯人に工作されたものであり、本当はその音が鳴る以前に女史が殺されていたのだと仮定すれば、ありえないほどのことではない。ただしかし―― 唇を舐めた。 ただしかし、音が鳴ったあの瞬間、工作をする素振りを見せた人間が食堂にいなかったのもまた事実。この論理で進める場合、犯人は使用人であるという結論に自然落ち着くことになるのだが……。 「その使用人には後から話を聞くとして」 とマクシミリアヌスがとりなした。 「君にはスィニョーラ・ミラーニを殺す動機は無いと言うのだな?」 「オレだけでなく、おふくろや兄貴にもあるあるわけがありませんよ。親父は知りませんがね」 マクシミリアヌスが片眉を跳ね上げた。「どういうことだ?」 ヨハンネスは涙袋を垂らした垂れ目を陰気に伏せ、いじけたような苛立ったような口調でもって発話した。相変わらず端々に軽薄の色は見えたものの、彼が自分の父親を疎ましく思っているのは間違いない。 ……父親のことを語った時の、ヒエロニムスの苦虫を噛み潰したような声を想起した。 「女史が嗅ぎまわっているのは、どうやら親父のことだったらしいんで」 「将軍の? 一体将軍の何を嗅ぎまわっていたというのかね」 「知りませんよ。死体に聞いてください」 と言って、ヨハンネスは本日何度目かの肩を竦めた。 マクシミリアヌスと顔を見合わせる。シルバー・ハンマー、という言葉が自然と脳裏を駆け巡った――女史が何を嗅ぎまわっていたのか、その真相は最後まで分からずじまいだったけど、それでも候補としてその話が持ち上がっていたのは事実である。だからこそ、さくららは昨夜このラ・ロテッラ家までやって来たのだ。 そして――とさくらは肘を立て、組んだ両手を唇の端にそっと添えた。 女史が殴られた凶器から発見されたのは、シルバー・ハンマーと同一の魔術痕――。 ……まさか、ミラーニ女史はラ・ロテッラ家の主をシルバー・ハンマーとして告発するつもりだったのだろうか? そういえば、“アドルフス・ラ・ロテッラが仕事で遅くなる”と女史を含めるその場の全員にラ・ロテッラ夫人が告げた時、女史を見据える夫人の目には挑戦的なものが含まれていたような気がする。わざわざ夕飯まで乗り込んで来られたのは結構ですが、この場に主人はおりませんのよ――といった風な。 こちらを横目に見たままに、マクシミリアヌスが頷いた。 「宜しい。もう結構です。しかし、暫くは連絡のつく範囲に留まってもらいたいですな」 立ち上がり様、ヨハンネスが皮肉げにまぶたを痙攣させた。「安心してください。唐突に家族全員で旅行に出かける奇跡は起こりませんよ」 マクシミリアヌスが戸口に立つ一等兵に視線をやった。 「ヒエロニムス・ラ・ロテッラ殿をここに」 短く切りそろえられた黒髪の下から、睨むように一度その場を一瞥してヒエロニムスはのっそりと食堂に入ってきた。さくらの姿にも気付いたはずだがそれらしい反応は示さない。小型動物か中型動物が関の山な弟と違って、兄の方は大型のヒグマみたいだ。猫背気味の体躯が促されるまま、マクシミリアヌスの正面に位置する座席に沈んだ。 「ペトルス・ズッカリーニ君とはお知り合いですか?」 「……?」 ヒエロニムスの片目が怪訝げに歪んだ。 「いいえ、全く……。教会関係者なら何かのついでに父親が話していたかもしれませんが、覚えてません」 ぶつ切れの小声で彼は言う。ヨハンネスの時とは違って静かなものだった。食堂の戸口に立った一等兵が、据わり悪気に片方の足から片方の足に体重を移した。 「スィニョーラ・ミラーニのことはどうでしょう?」 「時々家に来ていたようです……今回もそうだったんでしょうが、遠回しに母に夕食に誘うよう促して」 そこで一度、この家の長男はちらりとさくらの方を見た。今回の夕食までの経緯はその場に居合わせた人間の方が詳しく知っているだろう、ということか。さくらは軽く肩を竦めてから、「そうですね。今回は夫人に誘わせるよう、女史が圧力をかけていたように思います」今回は、というところを強調して頷いた。 マクシミリアヌスが顎を引く。 「その時、君のお父上は?」 ヒエロニムスが僅かに顔を顰めた――。 「……大概はいません。いたとしても、食事の席にはつきません。僕らに全てを押し付けていく感じで……」とそこで一度言葉を切ってから、「……一度、ミラーニさんが夕飯に招待された最初の日だけは列席していました」 「ほう」とマクシミリアヌスが息を吐く。「それはいつ頃のことでしたかな?」 ヒエロニムスは一瞬、逡巡したようだった――或いは父のことを話すのが、ただ単純に嫌だったのかもしれない。眉間に寄った薄いシワはそのどちらともに解釈出来る。 机の下でしばらく両手をいじくっていたらしいヒエロニムスは、やがて短く口を開いた。 「九日前です」 視線だけをマクシミリアヌスのいる方角へ投げた。 マクシミリアヌスは視線一つ動かさなかったが、一等兵が息を呑む音が大きく聞こえた――九日前は、“シルバー・ハンマー”が最初の事件を起こしたその日の翌日に当たる。 「その時列席していたのは、お父上とスィニョーラ・ミラーニの他に……?」 「母と僕、弟、それに使用人のパウルス――」 ラ・ロテッラ准将と真佳、ペトルス、さくらの他は、昨晩の晩餐と同じ面子が屋敷の中にいたわけだ――。唇の前で組んだ両手を、無意識のうちに固く握った。 「侍女の二人はその時もいなかった、というわけですか」 「あの二人が夕飯前に帰るのは数年前からの習わしです。そういう契約ですんで」 ふむ、とマクシミリアヌスが小さく唸った。もみあげから伸びた顎鬚をしきりに片手でしごきながら、ヒエロニムスの体躯を真正面からじっと見据えて、 「君は知っていますかな――スィニョーラ・ミラーニが嗅ぎまわっていたことについて」 ヒエロニムスが胡散臭げに視線を上げた。 「……この家のことで嗅ぎまわっていたことですか」 「左様。どうも誰も知らんようなのでな」 「知りません。彼女の新聞社の人に尋ねてみてはいかがです」 「それが誰も知らんようなのだよ。新聞社と言っても、彼女の他には一人の助手がおるくらいで、今まで出してきた記事はほとんどがスィニョーラ・ミラーニが持ってきて記事にしたものらしい。助手の言では、記事として使えるものになるまではその内容を教えてもらったことはないとのことだ。無論、今回の件も含めて」 ヒエロニムスは少し鬱陶しそうに椅子の上で身じろいで、もう一度だけ、小さな声で「知りませんよ」と駄目押しした。 「君の弟さんは、お父上のことを嗅ぎまわっているのでは、と言っていたが」 その時、ヒエロニムスに反応があった――はっと顔を上げ、両目を大きく見開いて、「――」メドゥーサに見つめられたみたいに一瞬動きを止めたのである。俯きがちに尋問を受け、必要以上に顔を上げることなく夕飯を食べていたその姿からは想像出来ないことだった。 彼の喉仏が一度、大きく上下に動いた。 その時にはもう、視線は下方を向いていた。 「弟が……。そうですか……」 もう一度唾を飲み込んで、 「……そういう兆しみたいなものがあったのは僕も認めます。……恐らく、弟もそれを見て親父――父のことを嗅ぎまわっていると断定したのでしょう……」 と言って、首を左右に振った。マクシミリアヌスがテーブルの上に身を乗り出す。 「君たち兄弟は、どうやらあまりお父上のことをよく思っていないようですね」 ヒエロニムスの目が一度マクシミリアヌスの方を見た。 が、それだけだった。一瞥しただけで、すぐに諦めているように頷いた。 「父から良い待遇をされたことは、僕も弟もありません。恐らく母もそうでしょう……。嫌っているというよりは、好きになる要素が全くと言っていいほど無いというのが正しいように思えます。ミラーニさんが父のことを嗅ぎまわっていると気付いたときも、また面倒事を持ち込んでと思いました。出来ればあなた方には知ってほしくは無かった」 そうしてラ・ロテッラ家の長男は嘆息した。隈の出来た両目はどこか遠いところを見つめていて、さっきまでの張り詰めたような感覚は今は無い。成る程、とさくらは思った。こちらが決定的なことを言わなければ、いつまでも隠すつもりでいたらしい。弟に暴露されたことは予想外の出来事だったということか。 「また、ということは、以前にも?」 ヒエロニムスが頷く。 「幸い表沙汰になることは無かったが、巻き込まれかかったことが何度かあります……。准将という地位を脅かされるほどのものでした」ちらりとマクシミリアヌスを上目で見やって、「……この件はいいでしょう。事件以前に起きた、家庭の問題です」 一瞬、マクシミリアヌスは追求するかどうかそこで迷っていたらしかった。それでもやがて意を決したように頷くと、他にニ、三の質問をしてから下がらせた。 一般的に考えると、以前に起きたという“地位を脅かされるほどの問題”は全くの無関係と断定するには時期尚早のきらいがある。それがいつ起きたにせよ、女史が探り当ててスクープを取ろうとした際にまだ賞味期限が切れていなければ、女史にとって嗅ぎまわるのは決して無駄では無いことだからだ。 もしかしたら、ヒエロニムスらも考えていたのかもしれない――。九日前という日にちの符号と銀の鎚とが指し示す、ラ・ロテッラ准将のもう一つの顔の可能性を。 深く椅子の背に身を預けて、マクシミリアヌスが声を張った。 「テレサ・ラ・ロテッラ夫人を呼んでくれ」 |