ラ・ロテッラ家の手洗い場に舞い戻っていた。タイルとも食堂や応接間の壁とも違う、不思議な質感の白い壁には、上品なレベルで薄っすらと赤い花びらが散っている。床は黒のリノリウム。踏むと靴のゴム底からきゅっと小さな音が鳴る。ミラーニ女史が撲殺された洗面台付近と、便器のある個室との間に黒い壁が差し挟まれていた。床と同質の色合いをした壁である。壁と言っても天井付近にまで伸びてはいないため開放感があり、恐らく――(隣のマクシミリアヌスと比べると)二メートル強。天井はそれよりずっと高い位置にある。

Tenente(テネンテ) Colonnello(コロンネッロ) Carrà(カッラ)

 と困惑したような声で一等兵が咎めるような声を出した。何で子どもがここにいるんだ――とでも言いたげな一瞥を真佳らにくれて。……よく見たら、以前ミラーニ女史と押し問答をしていた一等兵だった。 エラの張った日焼け顔、実直そうな太い眉。――以前彼に突っかかっていた婦人が死に、彼に“医術士は足りるか”と尋ねた少年が殺人容疑で捕まった。これに対して、この一等兵は一体どんな感慨を抱いているのだろう。……他人行儀にマクシミリアヌスを咎める一等兵の声色からは予想も出来ない。

「ああ、いや、気にせんでくれ」

 と、マクシミリアヌスは手を振った。
 応えた声は日本語だった。

「貴重な第一発見者を連れてきただけだ。もう一度、当時の様子を確認しようと思ってな」
「はあ……」

 なんとも言えない顔で一等兵は引き下がり、なんとも言えない顔で戸口の横に踵を合わせた。女史の遺体は引き上げられたのはここにはいない。代わりに、元の世界の推理ドラマでもよく見る白いテープが遺体の代わりを形成していた。記憶にある血痕はリノリウムの床で黒いシミになっている。
 つ、と、さくらの白いたおやかな指が、遺体のあった部分を指して鏡の方へ向けられた。撫でられた酸素がぞわりと粟立つ気配がした。

「ミラーニ女史が飽くまで洗面台の方を向いていたということは」状況を整えるようにさくらは言った――「つまり、殴られる直前まで鏡を見ていた、ということね」
マクシミリアヌスが小さく頷く。「こちらもそういう話にまとまった。犯人の姿が鏡越しに見えていても気にしないで済む相手だったか、或いは――」とそこで口ごもり「……女史より背の低い相手だったか、と」

 ちらりとマクシミリアヌスの方を見た。僅かに虹彩が強張っている――それを確認して真佳は再び前を向いた。
 ミラーニ女史の身長は真佳やさくらより数センチ高いため百六十センチとちょっと、対してペトルスは真佳よりやはり数センチ低く、恐らく百五十五センチ前後――成る程、二人の間には約五センチほどの差が出来る。おまけに女史の方が鏡に近いところにいたのなら、その老体にペトルスの痩身がすっぽり収まってしまうだろうと考えるのも道理だろう。
 治安部隊員は、本気でペトルスを犯人に仕立てあげようとしているのだ――。恐らく彼らに悪意は無かろう。それでも、全ての状況をまずペトルスという模型を元に組み立てようという節はある。状況的に仕方がないとは……思うけど。
 さくらの視軸がリノリウムの床面を撫でた。鞄の中身が散らばっていた場所には、ご丁寧に印と番号が振られている。

「口紅があったのは覚えてるの……他に何が落ちてた?」
「あらゆる化粧道具一式。化粧水、乳液、白粉、頬紅、眉墨、それから……何と言うのだったかな、異界語では。目を化かすものが二つと睫毛の――」
「アイライナーとアイシャドー……と、マスカラかしら。二重を作っているようには見えなかった」

 マクシミリアヌスは顎を引き締めて頷いた。「恐らくそうだったと思う」ともごもご言う。こういった言語に関してはあまり馴染みが無いようだ。かくいう真佳もそれほど詳しいわけではない。

「それから君の言う口紅の他には、ハンカチ、印鑑、財布、メモ帳に万年筆、消しゴム付き鉛筆、空のポーチ……」
「空のポーチ?」

 その一言に真佳の相棒が食いついた。マクシミリアヌスが再び頷く。

「恐らく化粧品を入れていたのだと思われる。封が開いていたから、そこから数多の化粧品が飛び出してきたのだろうな」

 と言って大男は肩を竦めた。さくらは黙ったままだった。
 ふいと、何事かを思いついたようにさくらが言う。

「口紅の色は?」
「口紅の色?」
「そう。何色だったかしら」

 マクシミリアヌスは少し考えるように沈黙した。鏡に出来たクモの巣状のヒビをじっと見据えて、唸るような声で。

「……赤……だったように記憶しているが」
「赤……」
「いや、正確には桃色が入っているのかもしれん。何と言うんだったかな、赤と桃色の間の子の色があっただろう――いや、兎も角俺には赤に見えたな」
「そう。いえ、いいの、赤なら赤で――ちょっとね、向こうにある推理小説を思い出しただけだから」

 と言って、さくらは割れた鏡の方へふらりと寄りに行ったらしかった。らしいと言うのは、彼女が寄ったのが鏡なのか、それとも遺体を象ったテープなのか、判断がつかなかったからだ。
 マクシミリアヌスを仰ぎ見る。真佳や一等兵と同じように、戸口のところで突っ立ったまま、少し困ったようにさくらの方を見つめていた。一等兵は既に考えることを諦めたのか、ぼうっと正面にある天井の縁(へり)を見つめている。

「この血は女史のものと一致したの?」

 見るとさくらが、クモの巣の起爆点になった鏡の一点を丹念に覗きこんでいる。そういえば、あの時鏡には擦ったような血がついていたっけ。その血はすっかり酸化して、今やドス黒い色に変わっている。触れてはいないが、乾いて固まっているのだろうことは見れば分かった。

「左様。間違いなくミラーニ婦人の血液と一致した。彼女の額にあった切り傷も、そこの鏡のものでまず間違いないそうだ」
「後ろから殴られる、その勢いで……」

 ぶつぶつと呟きながら――恐らく何の気なしにだろう、鏡を下から覗き込んださくらは、「……何?」怪訝そうな声を出した。クモの巣鏡に映る上目遣いのさくらの眉間が、不審なシワを形作って振り向いた。丁度真後ろ、高い天井のすぐ下にある――

「シミ?」

 さくらの視線を辿った真佳がまず言った。
 長い年月放置されて茶色くなったみたいなシミがそこにあった。血、では無いと思う。多分。滲みでてしまった黴が、そこに一箇所だけぽつんと残ったみたいな感じの。シミの正面にある鏡は横に長い長方形で、壁一面を覆っているものではなかったし、天井も高かったからすぐには気付けなかったのかもしれない。
 マクシミリアヌスの方を振り仰いだ。

「ん? ああ、あのシミな、無論気付きはしたが、血でもなさそうだったからなあ……。ご家族に聞いたところ、事件の前からあったようだ。ほれ、あそこにもあるだろう」

 と言われて指さされた方をよく見ると、……成る程、そのシミだけが一箇所だけ残ってしまったわけでは無かった。他のシミは薄ぼんやりとして目立たなかったから、同じように天井付近に散っていてもどうやら気付くことが出来なかっただけのようだ。

「気になるか?」
「……少しね」

 とさくらは言ったが、近付こうとはしなかった。どの道相当高いところにあるのだから、近付いたところでよく見えはしなかっただろう。
 それからちらちらと手洗い場の中の他の場所も見て回って、一旦現場を後にした。



 息を吐いたさくらに向かって、はい、とアイスコーヒーを差し入れる。さくらは唇の端で短く礼の言葉をかけてから、真佳の手からアイスコーヒーを受け取った。ラ・ロテッラ家の侍女に頼んで淹れて貰ったものだ。主人の屋敷で殺人事件が発生するなんて事態に直面しても、侍女としての態度を崩さず実に気丈に接してくれた。“自らの地位にふさわしい品格”こそ執事に必要な――と書いたのは誰だったっけ。
 隣でさくらが息を吐いた。
 ストローの内側からコーヒー色した液体が彼女の唇に吸い込まれるのを目に入れる。

「随分お疲れのご様子で」

 わざとおどけて真佳は言った。さっき思い出した小説の、主人公の口調をちょっと真似てみたのだ。執事の口調というのは慣れていないと言いづらいのだなというのが身にしみて分かった。

「スティーブンス」

 とさくらは言った。
 ……何で真佳の思い描いていた登場人物の名前が分かった!? 驚いてさくらを振り返ると、彼女はストローに指を添えながらくすりと笑った。見慣れていても見惚れるレベルの妖しい微笑。

「これを淹れたのが侍女か使用人かは知らないけれど、アンタはどうやらその仕事振りに感心したようだったから。それで思い出す小説は何だろうと考えてみた。『日の名残り』、カズオ・イシグロ。続いてアンタが口にした台詞がまるで執事のそれだったから、鎌をかけてみたら当たってた」

 髪を耳に引っ掛けながらストローの方に唇を戻す。未だ頂点に差し掛からない陽光がその横顔を撫でるように照らしていた。
 ――慣れない探偵の真似事に疲れただろうから、休憩のために外に出た……んだと思っていた。のに。あれほど緊張した素振りで長時間現場を見回して……なのに。
 ……忘れていた。
 姫風さくらという人間が、それほどヤワでは無かったことを。
 脱力したと同時にその場に膝を抱えて座り込んだ。

「さくらさん、現場を見てたときは青ざめてたんですよぅ?」
「そう? そうだったかしら。覚えてない」
「絶対嘘だ……」
「証拠」

 にべもなく一蹴されてしまった。消防車のサイレンみたいな雑音で不満を吐き出してみたけれど、綺麗な凹凸を描く横顔がこちらを振り向くことはなかった。ストローの中をコーヒーが絶えず這い上がる。

「……ペトルスは無罪に出来そうかい?」

 さっきと同じく、わざとおどけた口調で言ったが、成功したかどうかは分からない。いつもより声色が低くなってしまった気もする。
 ……さくらが小さく吐息した。

「……分からない」

 ストローがコップの底に触って、薄茶色の液体がグラスの中で揺らめいた。
 一瞬、心の中のどこかが凹んだ気がした。知らず期待していた何かが萎んだような。いつの間にか、さくらがこの探偵ごっこを演じることに過剰な期待を抱いていたようだった。
 全く、何を押し付けようとしていたのか……。治安部隊員が徹底的に調べたのだ。そうそう新しい要素が浮上してくるとは思えない。
「でも」とさくらは口にした。
 コーヒー色した水面に浮かぶ、氷の塊をストローの先で突っつきながら。

「そうそう諦める気はしないから……安心しなさい」
「……」

 馬鹿。……という言葉は、結局胃の奥底に押し戻した。他人を慰めている場合か。自分だって周囲の期待に応えることが出来なくて、自分で自分に落胆している真っ最中な癖に。
 全くやり慣れていない、不安しかないこの探偵ごっこを、緊張で顔色を真っ白にしながらそれでも踏ん張って始めてくれた。真佳を期待してのことではなかったはずだ。今回の件で真佳がさくら以上に頼りにならないということは、さくらが一番よく分かっていたはずだから。
 慣れないことに必死で食らいついている彼女を前に、自分は一体何をしているというのか。

「おいしょっ」

 わざと言葉を添えて立ち上がった。怪訝な顔をしたさくらの視軸がこちらを追う。彼女の後ろで後光のように太陽光が照っていた。

「――私、ちょっと情報収集に行ってくる」

 ハーフパンツのウエスト辺りに両手を当てて、ことさら何でもない風で言い切った。

「行ってくるって。どこへよ? 情報収集ならここでいいでしょう。もうすぐ家族の事情聴取が始まるわよ」
「いいよそれは。そっちはさくらに任せた。私は私で色々探る」
「探るって」

 一瞬さくらはその蛾眉を強く寄せた。
 眉間が微かに隆起する。銀の双眸を見透かすように眇めてから、彼女は慎重に語句を綴った。

「アドルフス・ラ・ロテッラ准将ね?」
「へ?」

 あどるふす・ら・ろてっら……? 心の中で繰り返して、……ああそういえばそういう名前の人もいたなあとようやく合点がいった。確かこの家の主人だっけか。今教会支部にいるんだっけ? ああ、成る程、確かにこの場合その彼に会うのが一番論理的……
 ……じっとりとしたさくらの眼(まなこ)に捕まった。

「違うのね?」
「え? いや、いやーそうだよ? 名前がちょっと忘れてたから咄嗟に反応出来なかっただけで……」
「私は“准将”とまで言ったのよ? いかにアンタでも、階級を知らないまま教会支部まで会いに行こうと考えられるはずがない。それに、あの反応はどう見ても全く予想外の名前を言われた顔だった」

 ぐいと詰め寄られて思わず半歩後ずさった。ちくしょうしつこい! またかけられた鎌に引っかかった形である。引っ掛け穴を晒していたつもりは無かったのに、何でこうもあっさり引っかかってしまうのか!
 さくらの頭の良さは頼もしい反面、こういう時に困るのだ……。かくなる上は。

「ごめん割りと急いでるから! 日が暮れるまでには何とかここに戻ってくるから!」
「あ、こらちょっと!」

 パチンと両手を合わせてからの敵前逃亡。鋭い声が追ってはきたが、彼女は追っては来なかった。どんなことをしても振り切る心持ちでいることを、まさかテレパシーで受信したわけではあるまいが。
 天高く昇ったお天道様を振り仰ぐ。
 ソウイル神が地平線に下るまでには、まだあそこへ向かう余地がある。
 ――唇をしめした。



ジョン・ワトソンの逃亡

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