「もう本当に、散々な目に合っていますよ」

 と、そこでペトルスは愚痴を零した。真佳らが“シルバー・ハンマー”事件の初の第一発見者になった際、マクシミリアヌスによって使用された取調室である。正方形は正方形のまま、上の方にある鉄格子付きの小さな窓は狂いもなくそこにあり、スチールデスクやデスクライトすら全く動かされた形跡が無い。時空に忘れられている場所があるとするなら、間違いなくここはその一つである。
 ――スチールデスクを挟んだ向こうに座するペトルスは、少しやつれているように真佳には見える。

「ぼくが犯人であることは前提として――あのハンマーを作らせた人間は誰なのか、今まで行われてきた“シルバー・ハンマー”事件に関わりがあるんじゃないか云々。聞く耳を持たないとはあれのことですね。ぼくはすっかり疲れてしまった」

 そう言って深く椅子の背もたれに背を預ける。そういえば、以前来たときとは決定的に違っている箇所があった。使用されている椅子の配置だ。スチールデスクの長辺に二人ずつで系四人集まっていた取調室は、ペトルスだけを向こう側に残して一つの長辺に三人というアンバランスな構図になっている。――四人の距離感がこれでもかと強調されているようで、真佳はあまり好きではなかった。
 ラ・ロテッラ家で行われたミラーニ女史殺人事件から一日経って、翌日のお昼時――それが何とかねじ込めた、ペトルスとの面会時間の概要だった。ラ・ロテッラ家の屋敷から連れだされてから恐らく今まで、延々と見に覚えのないことで絞られていたのだろう――。マクシミリアヌスがやれやれというような息を吐いた。

「あやつらも気が立っておるからな……。くだんの連続殺人鬼が見つからないで十日が経った。人民の不安は三日前のそれよりより増大し、今やいつ治安部隊員への不満として爆発してもおかしくない状態だ」
「だからって」

 と真佳は一人ぶうたれた。だからって、せめてもう少しペトルスの言うことに耳を傾けてくれればいいものを……。
 焦っているのは真佳も同じだ。昨日ペトルスが連れて行かれてから今まで、焦燥心の悪魔に取り憑かれてしまって何も手につかなかった。じっとしているのは性に合わない。せめて自分にも出来る何かを見つけたい。見つけたいのに……出来ることが見当たらない。それが嫌らしい悪魔の仕事に一役買っているのは明らかだった。

「嘆いていてもしょうがない」

 組んだ腕をほどきながらさくらが言った。パイプ椅子に座りなおして、スチールデスクの天板に身を乗り出すように腕を置く。

「あの時、ラ・ロテッラ家の人間の前で証言したことの他に、付け加えることは無いの?」
「付け加えることと言ったって」

 と、一瞬ペトルスは鼻白んだ。

「あれ以上は何もありませんよ。部屋を抜けだしたのは女史の無事を確認するためでしたから、勿論必要以上に気を配ってはいましたが、何せ女史のいた場所が場所でしたからね……」――疲れたように肩を竦めて「もしぼくが気を配っていなくとも、あの大音は勝手に耳に飛び込んできたでしょうよ」

 言うと諦めたように大息した。彼の目の下には薄っすらながらもしっかりとした隈が見えている。疲れきって思考回路が働かないのも無理は無いか……。

「君たちは三人とも、あの屋敷に行った本当の理由を証言したのだろう?」

 一瞬問われたことが何だったのか分からなかった。朝っぱらから呼び出し食らって尋問を受けたのは真佳やさくらも同じである。どの道眠れていなかったので叩き起こされることは無かったけれど。
 マクシミリアヌスの言にはさくらが小さく頷いた。

「それしか理由なんてないし、隠す必要性も見当たらなかったもの。よほど巧みに嘘をつけない限り、真実を語るに越したことは――いえ、これはどうでもいいことだわ――それがどうかした?」

 言いながら左隣のマクシミリアヌスに目を転じたようだった。……疲れているのは皆同じか、と真佳は思う。焦っているのも真佳だけなわけがない。全員が全員今回のことには参っていた。
 目線で頷いてマクシミリアヌスは口を割った。

「彼らはまだ、動機については何も掴んではおらんようだ――」

 と言ってから、「当たり前だが」と大男は付け足した。

「更に付け加えるならば」と彼は言った――「どうやら屋敷へ行った理由は、君たちが示し合わせていると考えているらしい。無論“示し合わせた”証拠は見つかっていないようだがな。今捜査陣の手元にあるものもたかだか情況証拠くらいしかなく、おまけに“シルバー・ハンマー”と同一の魔術痕という謎まで出た。――表面には決して出さんが、確定せねばならんことが多すぎててんてこ舞いになっているのが現状だ」

 そこでマクシミリアヌスは唇をしめした――鼻との間に生えそろった髭まで少し水気を孕んだ。その場にいる全員の顔を転ずるように一瞥してから、顎の髭をしごいて曰く。

「そこに、無罪を勝ち取る隙がある」

 隙、と真佳は言った――唇の端でなぞれたのを確認出来ただけで、実際に声帯を震わせたかどうかは謎だ。
 ――もう一度、マクシミリアヌスが唇を湿らせたのが目に見えた。一度躊躇ってから、……決心したように。

「……次の町へ移る前に、ここで探偵の真似事に興じるというのも悪くなかろう」


■ □ ■


 ――取調室を後にしてから息を吐いた。全く、出鼻をくじかれた。まさかマクシミリアヌスの方からああいう案を出されるとは思わなかった。どちらかと言うと、ああいうことを提案するのは――真佳か、さもなくば自分の役割だ。
 玄関ホールのソファに腰を沈めるた。首都であるペシェチエーロのそれよりも広さは無く、ラ・ロテッラ家の天井より高くはないが、その分役所らしい雰囲気が漂っている。下がっているのもシャンデリア風のライトではなくて、壁に沿うように設けられた壁掛け照明の形を取っていた。シャンデリアの型が一般的だと思っていたが、案外そうでもないようだ。
 多分、さくらに与えられた時間は少ない。
 誰がどの役割を果たすのかは想像に難くなかったし、これから結局どういう方向に進むことになるのかを考えるのも簡単だった。だから余計に、与えられた時間は少ない。マクシミリアヌスは仕事に戻り、真佳は手洗い場へと姿を消した。一人で考えられる時間があるとしたら、この時一度っきりであろう。
 ……視線の端に見覚えのある顔が引っかかった。
 首都の教会本部に則ってか、或いは他の理由からか、ここスッドマーレの教会支部もまた、玄関ホールを挟んで教会行政棟と治安部隊棟が隣り合って鎮座している。ペトルスが収容されているらしい方向や取調室の位置から推察するに、それぞれの棟の位置もぴったり同じ。左が教会行政棟を司り、右が治安部隊棟の役を承っているらしかった。見覚えのある顔が引っかかったのは、どうやら教会行政棟の方向だ。
 それとなく首を巡らせて人波の顔を見極めてから、……ようやっとその正体に合点がいった。
 アドルフス・ラ・ロテッラ――成る程、彼が脳の漁網に引っかかった顔だったのか。家で殺人事件が発生した煽りか、それとも日頃の癖から来たものなのか……せかせかした足取りで玄関ホールを抜けてから、治安部隊棟内へと入り込んでいく。さくらに気付いた様子は無かった。お互い言葉を交わしていなかったのだから当たり前だが。
 ――昨日、ラ・ロテッラ家の主は確かに家へ帰ってきた。さくらや真佳はマクシミリアヌスと共にやって来た彼をチラリと一度だけ眺めただけで、後は家族や一等兵と連れ立って食堂にこもり切ってしまったので会話らしい会話は発生しなかった。さくらの方も、ペトルスの今後についてが気がかりで彼に気を留める暇が無かったのだ。
 白髪の混じった金髪に碧眼と言う、日本人が思い浮かべる典型的な外国人といった色素をラ・ロテッラ将軍は持っていた――。口端を走るシワは深く、顎のところは固く強張っているように思われる。鮮麗なシワに埋もれた双眸は、花崗岩の隙間から覗く水に似ているとさくらは思った……とらえどころがないんである。あの一件で焦っているのか、怒っているのか、心配しているのか、昨夜の一瞥からでは想像すら出来ない。ただ、息子とよく似た濡羽色の髪を引っ詰めたラ・ロテッラ夫人が彼をいたく信頼しているようだったのは推測出来た。……或いは、それは単に日常を維持しようという依存から来るものだったのかもしれないが。
 そういえば……ヒエロニムスは、自分たちの父親が来るのをあまり望んではいないようだった。邸内で殺人事件が起きるという非常事態で、そうなることが当然であり自然のことであるはずだったのに。どんなことが起きても帰ってきて欲しくない、或いは顔を合わせたくない理由がある? ――それはミラーニ女史が掴んでいた秘密事と何か関係があるんだろうか。
 ……自然閉じていた目を開いた。
 そうだ……自分は今、この件については本当に何も知らないのだ。表面に現れたものをただ動揺して――両親の顔が頭を過ぎった――受け取ってしまっていただけで、中間地点にも立っていない。
 ペトルスを無罪にする隙――と、マクシミリアヌスはそう言った。
 無理矢理列車に乗せてしまったペトルスを救う僅かな間隙。

「さくら――」

 ――こちらの姿を認めるや否や、真佳が頬を綻ばせて小走りでもって寄ってきた。ソファに座するこっちの顔を見下ろして、ふと気付いたように立ち止まって。……それから、抑えきれなくなったみたいに弧状に口を緩めて見せた。癖を帯びた黒髪が一本唇の端に引っかかった。

「マクシミリアヌスに先手を打たれたね。まさかマクシミリアヌスから調査を提案されるとは思わなかった」

 ――それはついさっきのさくらの思考の焼き増しだった――正確に焼き増しであると確信した。

「マクシミリアヌスも」喉が少しく掠れていたが、構わずそのまま口にする――「その方が安心だと思ったのかもしれない。……止めたって、結局アンタと私とが勝手に動くことを予見したんでしょ。なら最初の一歩目から自分も加わっていた方がいい。多分、相当な決心が要ったと思うけど――」

 唇を湿らせた。
 相当な決心が要ったと思うけれど、マクシミリアヌスは間違わなかった。大事な人を守り切るという大前提を、見誤らなかった。ならば自分も。
 ――横たわる遺体にただひたすらに目を奪われて、ペトルスの様子を考えられなかったあの時の自分が脳裏を過ぎった。
 ならば自分も――。
 ――組んだ腕に力を込めた。

「もしもマクシミリアヌスが言い出さなかったら、誰がここまで話を進めていたのだろーね?」
「決まってるでしょう」

 唇を歪めてせせら笑うかのように薄く微笑った。下手くそ、と心のなかで嘲笑う。

「私かアンタだ」


間隙に水

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