何故君たちがここにいる、とまず怒鳴るかと思われたマクシミリアヌスは、確かに何かを発言しようと口を開いたはずだったのに、結局何も口にしたりはしなかった。たださっきヒエロニムスがやったように苦虫を何十万匹も噛み潰したような苦い顔で、ぷいと視線を遺体に乗せただけだった。

「即死だろう」

 と、以前フラヴィオ・ズッカリーニだと紹介された老人は淡々としてそう言った。「死亡したのはついさっき。我々が到着するほんの少し前だろう。――何かが割れるような音がしたのだったな。その時と断定していいかもしれん」固い顎でくちゃくちゃとガムを噛みながら、ちらりとこちらを一瞥してからそう告げた。――ペトルスの方は見なかった。

「そちらの用が済んだら教会まで運んでくれ。君も分かっているだろうが、確定するのは開いてからだ」
「医術士。一つだけ」

 花崗岩のような顔面を一層強ばらせてマクシミリアヌスが発話する。その拳は震えているように、真佳には映った。ペトルスの祖父が首を振り向ける。

「……凶器は、この鎚に間違いないのだろうか」

 一瞬、ズッカリーニ医術士が言葉に窮した――気がした。
 シワに塗れた表情筋はピクリともしなかったので、どうしてそう思ったのか、真佳にもまるで分からない。けれど理性以外のどこかの部分が、そうに違いないと確かに真佳に告げていた。
 医術士はツーポイント眼鏡の奥で静かに双眸を細めてから、「……開いてみんと分からんが」一瞬煙草を探すような素振りをして――

「十中八九、そうだろうな」

 肯定して欲しくなかった真実を、いともあっさり肯定した。


悉皆レアルタ



「……大変なことになった……」

 ズッカリーニ医術士が帰ってから、遺体が転がる殺害現場の中でマクシミリアヌスが疲れたように呟いた。肺の中のものを全部吐き出すような言い方で、ごつごつした片手で顔の大部分を押さえて呻いている。捜査の邪魔にならないよう、でもペトルスの傍を離れないよう、三人一組でひっそりと脇に寄ったまま、固い声で口を開いた。

「……ペトルスはどうなるの」

 後ろでペトルスがピクリと反応した。ように思えた。
 死体発見時はあれほど動揺していたペトルスだが、治安部隊員がやって来るまでにはそれでも何とか体勢を持ち直してはいたのである。白い顔をしながらも唇を堅く引き結び、両手を強く握りしめているのが割れた鏡越しに見て取れる。眉間に寄せられた細かなシワは、何事かを真剣に考えているらしいことが伺える。

「……恐らく、重要参考人として連れて行かれる」

 ――固い唾を飲み下した。

「事件の状況を聞いたお偉方は彼が犯人に違いないと頭から決め込むだろう。おまけに銀の鎚ときた――」
「銀の鎚がどうかしたの」

 同じく固い声で、さくらが小さく口を開いた。今、ここには何人かの二等兵が現場に居残っているだけで、大体の人手はマクシミリアヌスの命令ですっかり出払ってしまっている。家族の者に話を聞いたり、周辺住民に聞き込みをしたりできっと忙しいのだろう。個室の外、手洗い場のあるこの区画では、大体の複製魔術式を生成し終えたマギスクリーバーが何かのメモを余白に書き記したりして羊皮紙の束を整理していた。――ここの現場責任者は、恐らくマクシミリアヌスで間違いないと思われる。
 その現場責任者が、深く陰湿な息を吐いた。

「……医術士が持って帰ったあの銀の鎚……恐らく今、あの鎚を生成した魔術の痕跡を解読するのにみなが一意奮闘しているだろうよ」
「えっ、と、……何で? ハンマーの魔術痕と皆の興味と、一体何の関係が」

 ――頬を引き攣らせているのが自分でも分かった。
 本当は理解していたし、最初にペトルスの手に銀のハンマーが握られているのを見たとき、薄々こうなるのではないかという予感はしていたのだ。
 ――さくらが見かねたように息を吐いた。

「……“シルバー・ハンマー”の魔術痕と比べるためね」

 息と共に吐かれた言にマクシミリアヌスが頷いた。

「左様。恐らくペトルスに魔術で何かを生成させもするだろう。それは今“シルバー・ハンマー”事件に関わる人間の、最上の関心ごとでもある」
「でも」

 と真佳は否定した。
 上唇を密かに舐める。思いついたときから静かに静かに温めていた、当然の抜け穴を脳裏にすぐと過ぎらせた。

「それならもう、ペトルスが“シルバー・ハンマー”でないことが証明されたようなものじゃない? ペトルスの魔術痕が“シルバー・ハンマー”のと違うことは、ちゃんと分かってることなんだから」

 問題はそこなのだ、とマクシミリアヌスが唇の先で呟いた。
 現場が静かで無かったら、ともすれば聞き逃してしまいそうな独り言。

「……どういうこと?」

 と真佳は聞いた。

「……いいか、ペトルスが“シルバー・ハンマー”でないことは、無論我々全員が抱いている共通事項で間違いない。今回の犯人でないことも無論。しかし、それならば何故今回の殺人、わざわざ銀の鎚が凶器に使われたのかというのが気にかかる」
「……?」

 よく分からなかった。鎚が使われたのが一体何故面倒なことになるのか、問題になるのか、すぐには頭がついていかない。
 さくらが隣で息を吐いた。

「教会の人間は、今回の事件の犯人にペトルスを指名しようとしている。そこまではいいわね?」
「うん……まあ。不本意だけど」

 鏡の割れた音がしたとき、ミラーニ女史とペトルス以外の全員が食堂に会していたのだ。他にこの家にいて且つ真佳がアリバイを知らない人間は執事くらいしか存在しないが、“撲殺されたと同時に発せられた(と思しき)音にその場の全員が駆けつけてみたらば、そこには凶器を持って佇んでいる人がいた”……とか言われたら、真佳だってまず怪しく思う。死亡推定時刻が著しくズレていたり、音が鳴ったときにペトルスを見かけたという目撃証言が無ければまず覆せない疑惑だろう。
 渋々ながら頷くと、それに頷き返したさくらが次の語句を口にした。

「鎚を魔術で生成したのはペトルスでは無い。それはすぐに証明されるでしょう。だからそれは私たちも問題視していないの。問題は、この鎚が実際は誰に生成されたかということ」
「……? 実際の犯人じゃないの? あっ、そうだよ、それとこの家の人たちの魔術痕とを照らしあわせてみたら、ペトルスが今回の犯人じゃないことも確定――」
「事態はそう単純ではない」

 ため息混じりに異を唱えたのはマクシミリアヌスの方だった。さっきから二人が何を話しているのか分からない。単純では無いのなら、一体どんな複雑怪奇な事情が潜んでいるっていうんだ……。少々むっとしながら真佳は二人を交互に見やる。「いいですか」――しかしそれに応えたのは、今まで真佳の後ろに控えていた容疑者自身の声だった。

「今回の件、恐らく犯人は最初から、誰かに罪をかぶせることを前提に仕組んでいたに違いないです。被疑者役はぼくでなくても誰でもよく、例えばマナカさんやサクラさんでも犯人にとっては何ら問題は無かったでしょう。自分でさえ無ければ良かったのだから……」

 黒縁眼鏡のツルのところを神経質に弄びながら、ペトルスは濃緑色の双眸を細めて言った。実に苦々しそうな声色だった。

「それを前提条件にして――よく考えてみてください――最初からこの状況を狙っていた犯人が、わざわざ足のつく魔術痕を凶器に残すと思いますか?」
「あ――」

 と、思いもよらぬ一音が自分の口から飛び出した。
 さくらが小さく頷いて、隣で更に言葉を重ねる。

「だから恐らく、それは他の誰かに作らせたもの――足がつく知人でも無い、誰か他の――」一度だけ考えをまとめるように頭を横に振ってから、「……この国で銀の鎚が一般的に販売されているのならまだしも、そうでないのなら誰かに作らせたものでまず間違いないでしょう」
「それは俺が保証しよう。銀の鎚、或いは銀の色をしたハンマーなどというものは今まで俺は見たことがない。ペシェチエーロでも、ここスッドマーレでもな。本来銀はハンマーなどには向かんのだから当然だが」
「それだけじゃないです、わざわざ銀の鎚を凶器に選んだ理由、“シルバー・ハンマー”を模倣した理由などなど……全てが等しく洗われるでしょうよ」

 ペトルスが薄く息を吐いた。実際詰問され“洗われる”側であるペトルスはもうこれだけですっかり疲れた風である。
 成る程……と真佳も小さく息を吐いた。凶器の入手方法、それは確かに重要で、しかも凶器の特徴から随分と面倒なことではある。ペトルスを有罪にするにせよ無罪にするにせよ、ハンマー製作者の証言は決定打として欲しいところだ。特に無罪側に秤を傾けたい真佳らにとって、製作者を突き止めて証言させるのは避けては通れない重要事だと言える(何せ他に目ぼしい道が無いのだから)。だと言うのに――“シルバー・ハンマー”事件で承知の通り――魔術痕の元を辿るのは、正体不明の指紋の持ち主を何の手がかりもなく探すのと同様、ひどく骨の折れる作業であるのだ――そりゃあもう、面倒なことになったと頭を抱えたくもなる。
 それに今気がついたけれど、“シルバー・ハンマー”事件の凶器が新聞で大々的に取り上げられた今、果たしてわざわざ他人のために銀の鎚を作ってやるという変わり者がいるだろうか。魔術痕を確かめられない自信に相当溢れている人しかいなさそうな……。しかもそれが傲慢故の自信ならまだしも、根拠あっての自信であれば本当に教会が目をつけない可能性も……。……何というか、頭が痛い。

(……?)

 ……ふと、頭の中に閃いた後ろ姿があった。
 アートゥラを探していたときに偶然見かけた鍛冶屋さん……そういえば、魔術で大体のものが生成されるこの世界で、鍛冶屋とは随分風変わりな職である。わざわざ鍛錬しなくても、魔術でなら簡単に不純物の無い強い鋼を作り出せそうなものなのに。あの面倒そうにしか見えない作業を、わざわざ人の手でするというのは一体どういう了見だろう。何かメリットでもあるのだろうか。例えば、そういった魔術に頼らない刀の方が美しくて高く売れるとか。例えば――

(……魔術痕が残らない、とか?)

 自分で思いついた考えに何故だか胸の辺りがぞくりとした。
 まさか――でも銀の鎚だって、手作業で作り上げてしまえば魔術痕は残らない。でも、でもまさか――まさか。いや、違う、早合点に過ぎる――そもそもあの銀の鎚に魔術痕が残されていないなんて結果はどこからも出されていない。
 ……息を吐く。一部分だけ汲み取って突っ走ってしまうのは自分の悪い癖だ。さくらにも常々言われ続けていることでもある。危うく同じ過ちを繰り返してしまうところだった。冑をつけた鍛冶屋のあの男だって、本当にそんな理由で手作業を続けているわけではあるまい。
 ――結局、この話が実際に真佳の口から誰かの耳に届けられる機会はついぞ来なかった。掻き消えた魔術痕どころでない、とんでもない事実が少しの間も経たないうちにぷっかり浮上してきたのだ――
 精査の結果、ミラーニ女史を殺害した銀の鎚に含まれる魔術痕が、“シルバー・ハンマー”事件で使用された凶器に含まれたそれと間違いなく同一であることが、正式に発表されたのである。

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