失礼しますよ――途中女史を見かけたら、ここで連れて帰ります。ご心配なく。
 ――実際には、ペトルスのその言葉が実行に移されることはついになかった。

「?……」

 ガシャン、
 という音が届いた気がした。その場にいる全員が全員、弾かれたように視軸を上げる。皆の耳にも聞こえたことに気のせいではないことを確信したが、

(……どこだ……?)

 眉間にシワ寄せ食堂を舐めるように見渡しても発生源はどこにもなかった。部屋の中で何かが落ちたわけでは無さそうだ。そもそもそんな大きな音ではなかったはず。どちらかというと、部屋の外から聞こえたような――。

「あっちだ」

 と言って立ち上がったのは真佳だけだった。ラ・ロテッラ家の長男が座るその椅子すらも通過して、まるで壁の向こうを透視でもするかのように――真佳は一つところを睨みつけ、それからすぐと身を翻しながらこう行った。

「行こう、さくら」


銀のファレーナ



 真佳の口調と表情とは、抗おうという気を起こさせないほど真剣だった。恐らく彼女は何事かを、第六感で感じ取っているのかもしれない。どこで何が起こったか、誰が何をしているのか……。そして彼女のその言動は、どうやらこの場にいる全員の胸中に“取り残される恐怖”を植えつけてしまったらしかった。自分も行く、と長男であるヒエロニムスが言ったときには、ヨハンネスと夫人をもその一行に加えていたのだ。みな一様に不安を隠しきれていない様相のまま。
 真佳が見据えた先に何があるのか、この家に詳しくないさくらにはてんで分からないことではあったけれど、推測することは容易であった。一階にあるという手洗い場――。
 女史に何かあったかもしれない。嫌な予感で胸が埋まる。守りきれなかったかもしれない――そう考えると喉のところが強張って、上手く唾液を押し込むことが出来なかった。――だから真佳が真っ先にそこの扉を開けた時、引き攣れた喉が小さく痙攣したような気分がした。
 ……真っ先に目に飛び込んできたのは、ペトルスの引き攣れたような口元だった。
 黒縁眼鏡で覆い隠せないほど強張った白い顔で、開いた扉の寸前で固まっているその場の全員を見渡して、

「……これは」

 枯れた声色で呟いた。
 ……ひっ、と誰かが引き攣れた悲鳴を絞り出したのを耳にした。
 ペトルスの目の前に一人の女が倒れていた――倒れていた、という表現は正確には適当では無い。何故ならその女は、手洗い場に設けられた洗面台に正面からもたれかかるような形で座り込んでいたのだから。……後頭部では血が絶えず流れ、まず生きているとは思われない倒れ方で。

「……さくら」

 震える声で告げた真佳のそれが、促しであると体は捉えたようだった。そろりと手洗い場の床を踏む。そのままミラーニ女史の手を取った。動脈に触れた親指は震えていた。

「……、死んでる」

 それが自分の発したものであることを悟るのに少々の時間がかかった。喉はさっきからからからに乾ききっていて、声を出すのが億劫だった。……守れなかった。“また”。胸の内で呟いたその声は夫人の裂くような悲鳴で掻き消える。

「っいやあああああああ!!」
「ひっ」

 ヨハンネスが引き攣れたような一音を鋭く漏らし、続いてそこから始まる一つの言葉を
 ……ペトルスに向けて。

「――人殺し……っ」

 ペトルスの目元が引き攣れて――僅かに、何かに押されたように後ずさった。白かった顔色が層一層白くなった。
 目を閉じて、
 ……一度、自分を落ち着かせるために息を吐く。固い唾液を胃の奥底にまで飲み下す。
 治安部隊員を、と言いかけて、……すんでのところで飲み込んだ。手洗い場の戸口で固まったままのラ・ロテッラ家を振り切るように、真佳が手洗い場の中へと一挙に足を踏み入れたのだ。

「なっ」

 霞がかったような頭になっても“現場保全”という言葉だけは忘れていなかった。ミラーニ女史が死んでいると理解出来たこの瞬間から、この場は治安部隊員以外立ち入ってはいけない現場になる。当然真佳とてその限りでは――
 ペトルスの手首を荒々しく掴んだ真佳に口を噤んだ。ペトルスの瞳を真摯に見つめて強く言う。

「……落ち着いて。何があったのか、私に話して。……さくらも」

 落ち着け、と、ちゃんとした言葉で言われた気がして、何も考えないまま拳を握った。女史の手首を掴んだままだったことにこの時気付いた。……落ち着かせるために吐いた息は、結局ただの吐息で終わってしまっていたということか。
 ……息を吐く。今度はちゃんと、心の底からの鎮静の吐息だった。

「……すみません」

 謝ったのはペトルスだった。彼の方も、どうやら正気を取り戻したらしかった。「……教会に連絡してくる」寡黙な長男がそう言って、「あ、待って、ヒエロニムス……」夫人がそれに付いていった。次男の方はそこから一歩も動きやしない。怪しい人間と犯人だけをこの場に置いてなるものかと、きっと頑張っているのだろう。
 黒縁眼鏡のブリッジを中指で押して持ち上げる。もう片方の手――真佳に掴まれている方の手――に持っていたものが、カランと落ちた。――鈍い光を放つ銀の鎚。一瞬ペトルスはびくっと肩を震わせたが、かろうじてそれ以上動転する様子は見られなかった。代わりに疲れたような息を吐く。緩く首を横に揺すった。

「……廊下を歩いていたんです」

 と彼は言う。

「食堂から出て、言われた通り浴室まで……」

 浴室、という言葉に密かに眉尻を持ち上げた――ああ、そういえば、この国の古い一般家庭では浴室と手洗い場が一緒くたになっていることが多いということを何かの話の流れで聞いたことがある。その結果手洗い場を迂遠に言う際に浴室という言葉が用いられるようになり、だからきっとペトルスもそれを言っているのだろう。……まだ本調子でないのは明らかだった。普段のペトルスならばこういう時、もっと異世界人に伝わりやすい言葉を選ぶ。
 空いている方の手でペトルスは自分の額に触れた。

「……音がしたんです」
「音?」

 問うたのは自分の声だった。ペトルスが頷いて見せたのを、しゃがみ込んだまま仰ぎ見る。

「何かが割れるような音――丁度階段に差し掛かったところでした。この浴室の中からです――女史がそこにいるのは間違いないと思っていましたから、女史の身に何か起こったに違いないと考えて――扉を開けたら」

 真佳が小さく目を伏せた。

「死んでたんだね」

 頷く。ペトルスの顎の動きを見やってから、真佳の視軸が後方へ向いた。女子高生の牽制が見事効いたのかは定かではないが、思いやりの無い言葉は彼の口からは漏れ出なかった。
 視線を死体のすぐ上方、洗面台へとシフトする。クモの巣状に割れてヒビの入った鏡がそこにあった。真新しい血でも付着したのだろう、上方から下方へ、擦れたような赤い色が目に留まる。よくよく見れば、ミラーニ女史の額は少しく切れているようだった――剖検してもらわないと確かなことは言えないが、恐らく女史の額に叩きつけられて割れたのではないかと考えられる。後頭部を殴られた時の衝撃だろうか? 洗面台の奥行きはそう広いわけでも無いようだから、あり得ないことでは無いけれど……。
 床の方へと目線を転じた。丁度さくらが膝をついた界隈を起爆点にするように、女史の持っていたハンドバッグの中身がそこにぶちまけられている。濃緑色をしたハンドバッグはさくらの足元に落ちていた。丁度女史の右手の側だ。灰色の髪を染める赤い血は前述したように主に後頭部から流れ落ち、彼女が致命傷を負ったその箇所を何より如実に指し示している。恐らく後ろから一発。音が聞こえた時間的に、即死、だったのではないかと思われた。ペトルスが聞いたという“何かが割れるような音”は、さくららが食堂で聞いたそれと十中八九同一だ。
 ――女史の光を失った瞳孔は、さくらの存在を通過して、戸口に近い壁の辺りを見つめている。犯人の顔は見ただろうか。鏡越しに見えたかもしれない。どちらにせよ、それを尋ねる術は無い。……さくらも、恐らく真佳も確信していた。犯人はペトルスなどではない。
 足音が聞こえた。
 こんな時でもしっかと地を踏む足音と、それに追従するようなか細い足音。

「治安部隊員に連絡を入れた」

 長男のヒエロニムスが機械的にそう言った。……本当に機械なのではないかと一瞬疑ってしまうほど、感情に乏しい声だった。

「教会は近い。すぐに担当の奴が駆けつける。多分、」

 と、そこでヒエロニムスが不用意に言葉を切ったので、視線を振り向けざるを得なくなった。――初めて彼の感情というのを見た気がした。いや、“聞いた”というのが正確かもしれない。表情筋は動かさないまま、ヒエロニムスは今現在も苦虫を噛み潰しているような、ともすれば恨んですらいそうな口調で。

「……親父も来る」

 と、そう言った。

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