ラ・ロテッラ家の厄災



 大したおもてなしも出来ませんが、とラ・ロテッラ夫人はそう言ったが、それにしては大した料理の数々だと真佳は思った。こういった料理をこの人たちは日常的に摂取しているのだろうか。お金持ちというのはどういう世界にあってもお洒落なのだなあと真佳は思う。

 三種の前菜にフォカッチャ、海の幸らしきものを使用したカルパッチョにエビとホタテの海鮮リゾット、鮮魚のグリル。締めはあんずのパンナコッタ――これらが粛々と長テーブルの上に運ばれては下げられるのを見るのは壮観である。見ているだけでお腹いっぱい。首都の教会本部で嫌というほど見せつけられてきたつもりだが、こんなところで再び豪華料理を目にするとは思わなかった。
 ――現在の宿にある食堂と、そこで働くルーナとその他修道女のことをほんのちらっと考えた。皆ちゃんと先に食べているだろうか。ペトルスと一緒に外で食べるとだけマクシミリアヌスに言付けて、そのまま逃げるように通信を切ってしまった。変な心配をしていないといいなあ。ましてや勘ぐられてやしないといいな。
 ああいう場所で皆でわいわい食べている夕食が一番“食べている”という感じがする。だから多分、ふっとあの食堂がとても恋しくなったのだ。別にここの人たちが悪いっていうんじゃあなくて。……うん、まあこの気まずい雰囲気は正直居心地悪かったですが。ミラーニ女史ただ一人だけが下座でにこにこにやにやしていやがるし。
 食後のエスプレッソを喉に流し込んだ後、「ちょっと失礼して……あたくしお化粧を直しにいっていいかしら?……あら、まあ、お化粧室はこちら? まあご親切に、どうも」……ミラーニ女史が席を立った。バタンと扉の閉まる音――上座に向かって左側に座するラ・ロテッラ夫人が、ほうっと篭った吐息を上げた。続いてペトルスを挟んで真佳の左隣――ラ・ロテッラ夫人の右隣に腰を下ろした無精髭の男が、あからさまに長い吐息で空(くう)を打つ。
 ……この家の次男である、と紹介された男だった。ワックスか何かで撫で付けられたような長髪と、垂れ目の下にぷっくり膨れた涙袋が印象的な中年男性。絵の具で塗りたくられたような真っ黒な髪と双眸は、以前映画か何かで見た、どこだかの国の俳優なんかを思い出さないことも無い。イケメンというわけでは決してなくて、なんというかこう……一口で言うと、悪人面、なんである。
 ズズッとエスプレッソを口に含んだ(砂糖を入れない状態のこの苦味にも、随分慣れてきたなと思う。美味しいところは本当にこれだけで美味しいのだ)。

「いやー参ったね」

 真佳の倍はありそうな右手をぱたぱた振って、次男であるその男は至極軽薄にそう言った。名前は確かヨハンネス・ラ・ロテッラ。……ヨハネス、という名に似ているなと思って印象深かったが、それ故に“ヨハネス”と切り離して覚えるのに難儀した。

「あのオバサン、香水臭くって。テーブル挟んでんのにぷーんと臭ってくるんだもんなあ。隣だと尚更だったろう、なあ、美人のお嬢さん」

 にっこりと笑ってさくらの方へ話を振る。真佳の斜向かいに座るその“美人のお嬢さん”は、一瞬だけこっそり眉根を顰めた後、「……さあ。どうだったでしょう」丁寧な敬語でもって振られた話題をうっちゃった。この国の男性は積極的だなあと今までにも何度か思ったことをひっそり思う。自分の年齢と相手の年齢とを鑑みないでアタックするのだから舌を巻く。
 ヨハンネスは魅力たっぷりの軽い舌打ちを残したで、さくらの対応に関しては特に何も漏らさなかった。代わりに反対隣――今は空席になったミラーニ女史の右隣であり、ラ・ロテッラ夫人の正面に座る彼の兄貴に目を向ける。

「ヒエロニムス。お前はどうだぁ? ひっどい悪臭だっただろう」
「ヨハンネス」

 長男であるヒエロニムスが何事かを答える前に、彼の母であるところのラ・ロテッラ夫人が鋭くそれをたしなめた――怯えたような素早い視線を食卓に座する真佳らの方へ滑らせて。
 ……息を吐く。
 どうやら警戒されている、ようだ。そりゃあ傍目には真佳らがミラーニ女史の片棒を担いでいるようにしか見えないのだから、それも当然と言えば当然か。真佳らが女史に告げ口しない保証は無い。

「おっと」

 とヨハンネスは口にして――
 ……何故だか一層楽しそうに長卓に身を乗り出した。

「そうそう、本当のトコロ、あんたたちどうなの。あの女史のお仲間? っつうのを気取るには若すぎる気がするんだよなあ。あんなババアのところにいるなんて勿体無い」
「ヨハンネスっ」

 今度はさっき以上に強めの口調で、ラ・ロテッラ夫人が制止をかけた。テーブルの上で強く握った両手は白く、ミラーニ女史が席を外してからマシになっていた顔色が一段と悪くなっている。青白いというよりは、青緑色だ。……一体彼女は何を恐れているのだろう? バレては困る話って何?
 その瞬間、ガタッと酷い物音をおっ立てて、ラ・ロテッラ家の長男ヒエロニムスが席を立った。

「……bagno(バンニョ)――手洗い場」

 ……わざわざ日本語に言い直してから部屋を出た(イタリア語講座でも始めたのかと一瞬思った)。
 その背中を見送りながら、真佳は小さく息を吐く。ラ・ロテッラ家の長男であるヒエロニムスは、次男とは外見的にも性格的にも正反対な人である。短く切り揃えられた黒髪は整髪剤も通されることなくぼさぼさで、目の下には薄っすらと隈が出来ている。肌の色は弟よりも一層白く、あまり外に出ていないのだということがその色だけで察せられた。さっき一言だけ発せられた日本語の発音は綺麗なもので、どうやら日本語が不自由だから黙っていたというわけでも無いらしい。女史がいなくなった途端に口火を切った弟とは違って、喋るのはそれほど好きでは無いっぽい。
 双方ワイシャツにスラックス、色違いのベスト(兄が漆黒で弟が赤)という、この世界の服装では比較的寛いだ格好だった。……真佳ら以上に寛いだ格好の人間は当然ながらこの場にいない。昼間と同様藍色のドレスに身を包んだミラーニ女史といい、ワインレッドの上品な型をしたドレスに身を包んだラ・ロテッラ夫人といい……。それなりの格好をする必要があるんだと知っていたら、流石にトランクの中に無理矢理突っ込まれてからそのままの、それなりのドレスを引っ張りだしてきたものを。
 ぼそぼそぼそと思いながらエスプレッソを一口ごくり。実兄と実母の反応にすっかり興を削がれたらしいヨハンネスも、肩を竦めながら抽出されたコーヒーの旨味を喉に流し込んだらしかった。真佳のを含め右を向けられた持ち手の部分が、すぐにその放列に戻された。
 ……ちらりとさくらに視線を送る。
 素知らぬ顔でエスプレッソを舐める彼女が視軸を返す素振りは無かった。真佳の視線に気がつかなかったはずはない。
 ――あなた方がここできちんと役目を果たしてくれたら――の、お話ですけど――
 女史の言葉を思い出す。女史が何の事件を追ってきたのか、こうやってはぐらかされてしまった以上、ここで“自分たちは無関係なので安心してください”と宣言するわけにもいかなくなった、とさくらは言った。

「シルバー・ハンマー事件か否か、相変わらず命題の真偽は五分五分のままなんですもの。もしも真であった場合、下手にミラーニ女史に反発してこれ以上夫人の口を重くするのは得策とは言えないわ。夫人は女史が追っている事件について、どうやら何か知っているようだし……。それが何であれ、気の毒だけどしばらくは女史に協力するしかない」

 夕食に呼ばれる間際、女史が棚に収められたカトラリーに夢中になっている隙に下されたのがそれだった。
「でも」と黒縁眼鏡を押し上げながら、ペトルスがそれに異を唱えた。

「ミラーニ女史がわざわざはぐらかしたのは、偽であることを隠した状態でぼくらに協力させたかったから、という可能性も高いはずです。というか、はぐらかした理由がそれくらいしか思いつきません。確かに女史はどっちつかずの言動で他者を振り回すのが常ですが」
「……正直、私もそっちの方が可能性は高いと思ってる」

 腕を組みながら、苦々しい口調でさくらは言ったものだった。

「でも、可能性の高い低いで片付けていい問題でないことも知っているでしょう。これは人命に関わることなのだから。少しでも女史に危害が加わらない方法で、この場を乗り切る他は無い」

 ……眼鏡のヨロイを摘んで無言で上下させてから、ペトルスは深い、深い諦めの溜息を吐き捨てた。安全策を取ることを、彼も承知したのである。二人の中でそういう結論が出たのなら真佳もそれに従う構えだ。女史やさくららに危険が及ばないものなのなら、異論を唱える理由は無い。
 ヨハンネスが引き下がってくれて本当に良かった、と真佳は思った。はぐらかすための台詞は互いに考えてきたものの、視線が泳いだことを指摘されたが最後、隠し通せる自信は微塵も無かった。
 扉が開く音がした。
 真佳らの座る下座に近い、右側の扉からだ。扉はさくらの座る机の辺の延長線上に取り付けられているため、正確に言うと真佳は右斜前の方に視線を向けないといけなくなる。――この一瞬、場の空気がピンと張り詰めたのに気がついた。
 そうか――と思い至ってエスプレッソを一舐めする。女史が帰ってきたのなら、またあの緊張状態に逆戻り――いや、食事が終わったのだからここからが本題になるはずで、つまりさっきの緊張状態より尚酷い事態になることが想定される。
 一体この“出来上がった”室内を、女史はどういう顔で見やるのだろうと一瞬脳裏を過ぎったが……
 扉から現れたのは、つい数分前に出て行ったこの家の長男の方だった。
 隈に縁取られた双眸を怯んだ風もなく瞬いて、視線の放列をいなすように扉を閉めて座席に向かう――。
 ……ざわっと胸の辺りがざわめいた。
 そういえば、ミラーニ女史、トイレに行ったにしては……遅すぎやしないか?
 左隣からちょいと袖を引かれて思わず真佳はびくりとした。それには構わず抑えた声で、ペトルスは言葉の羅列を口にした。

「少し、女史を探してきます」

 遅すぎると感じていたのは真佳だけでは無かったようだ――向かいに座るさくらに目配せするペトルスを見て、真佳は小さくそう思った。“私が行く”とさくらが小さく目配せした。ペトルスが僅かに首を振って否定を示す。
 なら私が、と言いかけたところで先手を打たれた。

「どちらかをたった一人で放置するわけにはいきません。また、お二人同時にも駄目です。もしも“シルバー・ハンマー”がここに集わずどこかに隠れているのなら、外は危険地帯と言ってもいい」

 ペトルスがちらと上座を見たのを、真佳は見逃さなかった。主人のアドルフス・ラ・ロテッラは今夜は仕事で遅くなります――夕食前、ラ・ロテッラ夫人に家族全員を紹介された際、前置きされたのを思い出す。
 エスプレッソの代わりに唾液を呑んだ。アドルフス・ラ・ロテッラ――教会の准将がシルバー・ハンマー? ……そんな馬鹿な。けれどペトルスは、完全にはその可能性を破棄する様子は無さそうだった。

「あなた方はここにいてください。――もしもぼくがいない間に誰かに襲われそうになったなら、その時はマナカさん、サクラさんのことを頼みます」

 誰かに、という言葉を、ことさら強調して彼は言った。ペトルスの向こう側で、次男のヨハンネスがエスプレッソを舐めている。隣の彼には特に聞こえないよう調整されていた声量が、更に低く小さくなった。

「あなたのことを彼らは問題視していないでしょうからね。不意をつけばこの屋敷から逃げ出すことくらいなら容易なはずです――サクラさんとご自分の安全を第一に考えて行動するように……」
「ペトルスは?」

 前を向いたまま、唇の先で浮かせたカップに投げかけるように切り返すと、彼は小さく笑いを零したようだった。

「そう来ると思いました。……ぼく一人なら何とでもなります。何せあなた方の護衛を任されるほどですからね。この意味が分かりますか?……ご自分の役目を理解しましたか?」

 一度、さくらの方に視線を向けて
 ……小さく一つ頷いた。

「宜しい。それではぼくは――」

 そこまで小声で言い終えて、「失礼。ぼくも手洗い場を貸して頂きたいんですがね」夫人に問いかけたときの声量は、いつものペトルスのそれだった。夫人が少し慌てたように、両目を忙しく瞬いた。

「――あ、ええ、それなら食堂を出て左にある突き当りを曲がっていただければ……あら、でも」とそこで夫人は言葉を一つ飲み込んで、「……“あの方”がまだ、帰ってきていないんでしたわね……」

 名前を呼ぶのも嫌らしい。わざとらしい指示代名詞にすら苦々しさを滲ませて夫人は言った。手洗い場から帰ってきたはずの長男の方へ視軸をシフト。

「ヒエロニムス、貴方、どこの化粧室を……?」
「二階です」

 と、ぶつ切れの言葉でヒエロニムスはそう言った。

「帰って来ていなかったので。一階はまだ使われているだろうと」

 低く野太い声で、億劫そうに話すものだ――無口なのは、事実話すのが億劫だからかもしれない。
 それを受けてヨハンネスが、立ち上がったペトルスの隣で豪快に眉根をしかめて見せた。

「そういえばあのババア、随分遅いな。何か嗅ぎまわっているんじゃないといいが――」

 ラ・ロテッラ夫人が目に見えて層一層青くなった。
 確かに――彼らにしてみれば、女史の不在は即ち、家探しされていないだろうかの心配事になるだろう。ミラーニ女史ならやりかねないし。
 視軸の先をペトルスに向けた。このままでは全員が全員女史を探すと言い出しかねない。そうなると更に多くの人間を警戒しなければいけなくなる。危険度が増すのは必至だった。

「いや、あの人は化粧が濃ゆいですからね。化粧直しに時間がかかってる可能性は十分ありますよ――」

 ペトルスはことさら軽く言いやって、「二階への階段はどちらに? よもや、手洗い場に行かせてくれないなんてことにはなりますまいね?」挑むように夫人を見た。
 その表情はとてもにこやかであったけれど、“挑む”と表現するのが本当に適当であると真佳は思った。
 ――夫人は一度目を閉じて、

「……部屋には全て錠を下ろしています」

 震える、か細い吐息に乗せるように静かに言った。それはペトルスに対する返答ではなく、自分を見据える夫人の子どもたちに言い聞かせるための言葉であった。
 真っ白な顔のまま、自分を奮いたたせるようにラ・ロテッラ夫人は息を鋭く吐き捨てた。

「宜しい。階段は一階の化粧室のすぐ隣にあります。二階の化粧室も同様――、一階の化粧室への道はさっきお教えしましたね? ルームプレートがかかっているので、扉を見ていただければすぐに分かると思います。その他の扉には――執事がいない部屋には、全て鍵がかかっておりますが」

 夫人も挑むようにペトルスを見た。「それはさっき聞きました」ストロベリー・ブロンドの頭髪を持った少年は実に愛想よくそれをいなすと、「では」と小さく口にする。

「失礼しますよ――途中女史を見かけたら、ここで連れて帰ります。ご心配なく」

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