悪鬼の微笑



 長方形に近い部屋――上品な白で塗り尽くされたのっぺりした壁紙に、落ち着いたマホガニーの色をした腰壁。四方をそれらに囲まれて若干の据わりの悪さを感じつつ、さくらは用意されたティーカップの縁に口をつけた。ハーブティ、かな……。この世界に来てから、元の世界の味を参考にして料理の名前を決めることはすっかり諦めてしまったさくらである。
 部屋の奥側、と表現するのが妥当だろうか。さっきまで張り付いていた窓の付近にあるこのソファは、確かに玄関へ通じる廊下への扉からは最も遠いところにある。が、さくらの座るソファの背後にはもう一つ、別の場所へ通じているらしい扉があった。その先がどこへ通じているのかは分からない。執事が人数分の飲み物を持って出てきたので、台所には通じているのかも。正面にある窓ガラス(丁度つい先ほどまでさくららがいた窓だった)に映った光景だけでは、ここまで悟るのが精一杯。まさか自分の背後にある扉をまじまじと見つめているわけにもいかない。
 ティーカップをソーサーの上に戻してから、
 ……さて、とさくらは思って唇を舐めた。
 さくらの真向かいに座る真佳は、やっぱりかしこまった様相でティーカップの中身を舐めている。さくらの右隣に座したペトルスは、気難しげな顔で室内にいる人物の顔に順繰りに横目をやっている。ミラーニ女史と家主のご婦人は……それぞれ上座と下座に座り、優雅に紅茶を飲み交わしながら――どうやら熱い火花を散らし合っているらしかった。主に家主の奥方が。
 結局、ミラーニ女史に誘われるままこんなところまで入り込んでしまったわけだが……一体どういう魂胆なんだ?……ミラーニ女史を眺めてこっそり思う。
 彼女の身を案じてこの部屋に入りたがっていたのは確かだし、そのために第一発見者としての情報を笠に着ようとしていたのも事実である。しかし当然のことだが女史はそれを知らないはずで、見かけたからと言ってわざわざ声をかける理由も無かったはずだ。さくららが自分の前に現れたのならくだんの件に違いないとでも考えていたのだろうか? それにしてもわざわざラ・ロテッラ夫人に打診してまで招き入れる必要はあるまい。そもそも、彼女は一体夫人から何を聞き出そうとしていたのか?
 分からないことが多すぎて、上手く考えがまとまらない。沈黙の時間が痛くてもう一度カップを取り上げて口をつけた。

「テレサ・ラ・ロテッラと申します」

 さくらがカップを置いた時、必要最低限の敬意だけを払って彼女は言った。日本語だ。ミラーニ女史が招いたときの一言で、どの言語を使えばいいのかどうやら察してくれたらしい。客にするにしてはひどく簡素で無愛想な挨拶で、それだけで自分たちが招かれざる客であることが痛いほど分かる。女史が同席の話を持ちかけた時点で十分すぎるほど分かっていたつもりだが、まだまだ認識が足りなかったらしかった。

「サクラ・ヒメカゼと申します。この度は突然押しかけてしまって申し訳ありません」

 座ったまま頭を下げて答えると、本当に全くその通りだと言わんばかりの眼差しが飛んできた。一瞬だけ変わった名前だなというふうに顔を顰めたような気がするが、特に追求する気は無いらしい。彼女からすれば、とっとと話を終えてミラーニ女史共々ご退場願いたいところなのだろう。ペトルス、真佳と短い自己紹介は続いたが、ラ・ロテッラ夫人は一貫してそういう態度を崩さなかった。
 ミラーニ女史がカップを置く、カチャリという音がした。
 頬のところに刻まれたシワを層一層深くして、眼鏡の奥で彼女は友好的に微笑する。

「ではそろそろ話を元に戻しましょうか。自己紹介も終わりましたし、皆さんにお紅茶も届いたことですしねぇ。スィニョーラ・ラ・ロテッラ――」
「お話することなんかありませんわ」

 ぴしゃりとご婦人は言い張ったが、その声が微かに震えていることをさくらの耳は聞き逃さなかった。……? 何かやましいことでもあるのだろうか。いや、人間一つや二つは知られたくないことくらいあるものか、と密かに見解を改める。声の震えごときで何かを勘ぐるのは早計だ。
 ミラーニ女史は口をアルファベットのオーの字にして、「あらあら、まあ」と白々しい感動詞を立て続けに口にした。

「連れないこと。けれどそういう言い方は、ねぇ、あまり感心しませんわ。勿論あたくしから、今、ここでお話しても良いのですけれど……そういえば、あなた方は教会のお客様でしたわね?」

 唐突に話題をこっちに向けられてさくらは思わずぎくっと身を強ばらせた。カップを持ち上げかけた体勢で一時静止。命の危険があるにしろ、ミラーニ女史がこちらの正体を勘ぐっているのに変わりはないのだ。
 しかしどうやらその言葉には、別の意味が含まれていたらしかった――。下座に座するラ・ロテッラ夫人の顔が、みるみるうちに強張ったのだ。

「“例の事件”にも関与しているそうですわね。いえ、勿論これはあたくしが独自で調べたお話ですけれど。でも、まあ、ねぇ……。ご主人にでもお尋ねしてくだされば、真実が何か、すぐに貴方のお心も理解してくれると思いますわ。准将さんですもの、ねぇ……。まさか知らないはずはありますまいね?」

 おいおい……と考えながら、心のなかで密かに頬を引き攣らせた。随分煽っていくじゃないか。シルバー・ハンマーが女である可能性は一応否定されているとは言え、もしもこの家に連続殺人犯がいようものならこの場にいる全員は一夜にして殺人事件の被害者に成り下がるのだぞ。或いは、これだけの人間がいるのなら早々手は出せまいとでも思い込んでいるのだろうか。
 カップの縁に口をつけながらラ・ロテッラ夫人をちらと見た。……随分顔面が蒼白としている。紅の塗られた唇はきゅっと硬く閉じられているし、膝の上で組まれた両手は互いの手を握る力が強すぎて、顔面以上に真っ白だ。
 ……。紅茶を一口、喉に流し込んでからソーサーに戻した。ミラーニ女史の追っている事件Xについて、どうやら彼女は実行犯では無いもののそれに近い何かを内に隠しているらしい。女史が欲しいのはその情報で、そいつを引き出す特効薬としてさくららが席に呼び込まれた。
 事件Xが何であるか、素直に聞ければ良いのだけれど。シルバー・ハンマー事件であるなら付き合う必要があるけれど、もしもそうでないのならこんな茶番に付き合う必要はまるで無い。
 ちらりと女史に目をやった。ミラーニ女史はまるでそれに応えるように、目尻にシワを刻むような深い微笑を湛えてから――

「まあ、まあ、長いお話にもなりましょう。スィニョーラ・ラ・ロテッラは、もしかしてお夕飯もまだなのではありません?……」

 ……苦虫を噛み潰すことで生じたシワを揉みほぐすように、ラ・ロテッラ夫人は中指の腹を眉間に据えた。言外に含まれるミラーニ女史からの申し出を吟味するかのような間を――実際には与えられた選択肢は一つしか無かったろうと推測されるが――置いて。
 夫人は苦々しげにため息を吐いた。

「……宜しければ皆さんもご一緒に。大したおもてなしは出来ませんが」
「まあまあ、有り難いお申し出だこと! お言葉に甘えていただきましょうか――勿論、あなた方もご一緒に」

“あなた方”という言葉をさくらや真佳の方に向けて、女史はほほほと笑って見せた。


■ □ ■


「いいの? なんか成り行きでご飯ご馳走してもらうって話になってるけど……」

 ミラーニ女史が室内に飾り立てられた装飾物を見に席を離れたその隙に、テーブルの向こうから身を乗り出しながら真佳が言った。
 ラ・ロテッラ夫人は夕飯の同席者が増えたことを伝えるためか、或いは単に女史の目から逃れるためか、随分前からこの部屋から出て行っている。

「手遅れにならないうちに、今のうちに彼女が何の事件を追っているのか、ここいらではっきりさせておいた方がいいかもしれませんね……」真佳に応じるように右隣りからペトルスがひっそりと口を挟んだ。「もしも連続殺人事件に関係が無いようでしたら早々に立ち去りましょう。見張りたいだけなら屋敷の外にいればいい話ですし……これ以上女史と夫人の深いところにまで関わり合うのは御免です」

 それに関してはさくらも同意見であったので、頷きだけを返しておいた。さくらも出来れば早くここから立ち去りたいのだ。話を聞いているとどうしてもラ・ロテッラ夫人に同情を禁じ得ないものがあるし、それにこれはミラーニ女史の口車の賜物とは言え、どうやらさくららの存在自体がラ・ロテッラ夫人を顔面蒼白に追い込む要因の一つとなっているらしいので。ラ・ロテッラ夫人がいない今、現状をはっきりさせるのに今ほど打ってつけの時間は無い。

「……ミラーニさん」

 アンティーク調の食器棚をまじまじと眺めていたミラーニ女史が、さくらの呼びかけに視軸をこちらへ傾けた。……食器棚には高級そうなティーセットが上品な間隔を空けて並んでいる。
 ミラーニ女史はこちらへ向かってにっこりと微笑して見せた。

「ミラーニ女史、で構いませんのよ? あたくし、あの呼称がとても気に入っておりますの。皆さん、内々では呼んでくだすっても、中々面と向かって呼んでくださる方は少ないもので……――何か御用かしら? スィニョリーナ・サクラ」

 最後に漸く用向きを聞いてくれたらしかった。
 ちらりと一瞬真佳とペトルス双方に視線を投げてから、「ミラーニ女史」言い直す。女史が微笑を深くした。

「……単刀直入に尋ねます。貴方は、何の事件を追ってこの屋敷まで来たんですか?」

 ……女史はすぐには答えなかった。ただ、口元にあるシワを不気味なくらい深くして、怪しげな静けさを誇る灰色の目でじっとこっちを見つめるだけ。
 ――それは威圧された時間だった。さくらが彼女と接した時間は真佳らに比べてもほんの少ししかなかったが、それでも分かる。普段は相手の神経を逆撫でするような笑顔と口調で標的を翻弄するくせに、この時ばかりはそうではなかった。彼女の与える静謐の微笑は、普段の彼女を知っている者にこそより強い威圧と不安定感とを植え付ける。
 やがて彼女は、いつものようににっこり微笑ってこう言った。

「その件につきましては、近々発行される新聞をお楽しみに、としか申せませんわね。上手くいけば明日の朝刊には載せられるかもしれませんわ。もう少しの辛抱ですわよ。勿論、あなた方がここできちんと役目を果たしてくれたら――の、お話ですけれど」

 ――薄く塗られた口紅で馬蹄形の弧を描いたその顔は、新聞記者のと言うよりも悪鬼のそれに近しい気がした。

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