春の陽光に照りつけられて昼間は暖かめなくらいなのに、夜になるとこの国は急激に冷える。それは森の中だろうか町の中だろうか変わりなく、だから一旦宿泊施設に帰って遅めの昼食を食べた後、こうして抜けだしてきた時にも厚めのスプリングコートを忘れなかった。雨の中、雨具もつけずに外に出たあの夜、風邪を引かなかったのは奇跡であると言ってもいい。

「本当に……。こんなことが知られたらカッラ中佐に怒られるんですけど。ぼくも含めて全員がですよ。よりにもよって護衛対象がこんな危険な中抜け出したがるとは全く……」
「私たちが無理矢理連れ出した、とでも言ってやるわよ」

 事実その通りだし。ぶつぶつやりながら上着の前をかき合せるペトルスの、綿菓子みたいな頭髪をぽんと叩いた。知らぬフリして宿の自室に閉じこもっていればそれで安全だったのに、護衛対象だからとわざわざこんなところにまで付き合ってくれる辺り、こいつも律儀な男である。

「ってゆーか、ここらへんミラーニさんいなさそー……なんだけど」
「それらしい気配ありませんか? 新聞の制作はもうとっくに終わってるはずなんですけどね。何か優先すべき特ダネが入り込んできたならまだしも……」

 顎に手を添えてううんと唸る。ミラーニ女史の生活リズムまであの短い間に掴んできたんだから、律儀であると同時に優秀だと思わなくも。単に終業時間が五時三十分までと決められているからですよ、と言ってはいたが、調べてきてくれただけでもありがたい……というか、仕方なしにという顔をしながらノリノリだなとつい思う。

「うーーん。眷属に紛れ込ませるよーなことをされると分からなくなるんだけど、ミラーニさんって第一級じゃないよね?」
「そりゃ違いますよ。もし第一級なら彼女は今の彼女になっていないはずですからね。教会で育ち教会のために力を行使する人間にでもなっていたことでしょう」
「それはそれでちょっと見てみたかったような気も……」

 ふざけたことをのたまいながら、真佳が屋敷の角から向こうの闇に視軸を投げた。首を傾げながら引っ込んだところを見るに、その先にもミラーニ女史とやらはいないらしい。屋敷の窓から差し込む明かりから逃れるようにこうして窓の脇に潜り込んでいると、こちらの方が屋敷を嗅ぎまわる記者のような気もしてくる。
 宿泊施設からラ・ロテッラ准将の屋敷まで、そう大した距離は無かった。教会の敷地をぐるりと囲んだちょっとした緑地を抜けるとその先が高級住宅街になっていて、ラ・ロテッラ准将の屋敷は二軒か三軒の屋敷を過ぎたそのすぐ先にあったのだ。青い屋根をつけた二階建ての屋敷で、首都にある  
 教会本部の四分の一くらいの広さしかないものの、この町では十分広い方だと言える。敢えて三階建てにしないのは、これより上段にある同じく二階建ての屋敷の屋根と、高さが同等にならないようにという配慮だろうか。ここいら一帯は上下の関係も特に繊細そうであったため、そういった気遣いや遠慮もあって当然といった気配がする。そろそろ夕食時のはずなのに家庭的な料理の匂いは酷く希薄で、人が住んでいる温かみを感じ取るのは難しかった。屋敷の周囲の小道に敷かれた煉瓦道を照らす窓明かりにも、人影が映る気配は無い。

「……何人住んでるんだっけ? ラ・ロテッラ准将の屋敷」
「ええと、将軍自身と奥方、それに長男次男と……使用人の一人を加えると五人ですかね」眼鏡のブリッジを押し上げながら「あと侍女を二人雇っているはずですが、こちらは通いの使用人のため今は数に入れない方がいいでしょう。多分もうとっくに帰っていますよ」

 ふうん、と鼻から息を漏らした。屋敷の壁に背を預けると、首筋にひやりとした石の感触が僅かに触れる。侍女の情報もおまけとして返ってくるとは思わなかった。本当によく調べてある。
 しかし……。
 息を吐く。どうしよう。当てが外れてしまった。ミラーニ女史がここに存在していないのならばここに張り付く意味が無い。早めにここを離れてしまって、女史のいそうな場所に移動した方がいいかもしれない。何にせよ彼女を一人にしてはいけない。シルバー・ハンマーに狙われないように細心の注意を払わなければいけない。
「……」ひと目会っただけ、少し言葉を交わしただけの相手であることは分かっていた。粘着質で面倒な類の相手であることも分かっていたが、それでも無事が気になった。当たり前だ。シルバー・ハンマーの情報を与えたのは自分で、結果的に犯人に動機を与えたのもまた、さくら自身であったから。
 じっとしてなんていられない。
 何としても……責任を取って、守り通さなければならない。

「……使用人の人……って、男?」

 ひょこりと端から伺うように窓の向こう側に目をこらして、真佳が言った。

「男のはずですよ。実際に見たわけではないですが、名前が男性名でした」
「……女の人の声がする」
「奥方でしょうよ。生活習慣までは調べてませんけど、そこにいるんじゃないですか?」

 明々と明かりの灯った窓を見る。薄手の、レースで出来たカーテンがそれをほんのりと遮っているだけで、光を遮断するほどの厚手のカーテンは引かれていない。真佳のように目を凝らせば部屋の中身が容易に見渡せそうだった。「いや……」と真佳が口にした。

「多分、奥さんのじゃない……のもあると思う。女の人の声が二つする」

 さくらとペトルス、思わず二人揃って顔を見合わせた。「まさか……」反射的に独りごちて弾かれたように窓を仰ぐ。縦の方が若干長い、一般的な窓の向こう。今のままでは天井と、せいぜい向こうの壁の一端が垣間見えるくらいで人らしき姿は見えやしない。しかし素直に耳を澄ましてみると、確かに部屋の中側から声質の違う女の声が――二つ、耳に届くのだった。
 まさか、とさくらはまた言った。

「もう中にいるんじゃないでしょうね……」
「というか、多分もういます。聞き覚えのある声でした……あれはミラーニ女史のものに、まず間違いないですね」

 馬鹿か……と思わず頭を抱えた。向こう見ずなところは真佳に似ていなくもない。よく今まで無事に新聞記者を続けられたな。

「どうする?」

 相変わらず窓の向こうに目を凝らしながら真佳が言った。
 どうする、と言われても……。

「……屋敷にいる間は犯人も襲って来ないでしょう、と言いたいところだけど……ミラーニ女史が何のためにここへ来たのかによって、状況が大きく変わってくるわ。あの大佐――チンクウェッティ大佐が睨んだ通り、シルバー・ハンマーの件でここに来ていて、しかも本当にこの屋敷の中に例の連続殺人犯がいるとしたら――」
「途端女史は危うい立場に立たされる、というわけですか」

 眼鏡のブリッジを押し上げて、難しい顔でもってペトルスがそう発話した。その通り、と頷きを返す。丁度都合よくネズミの方から袋の中へと迷い込んで来てくれたのだ。この好機を逃すような真似を、殺人犯がするとは思えない。

「じゃあ、どうにかして中に入らないと――」
「どうやって?」

 真佳の焦燥に満ちた言葉を語気を強めて遮った。

「私たちが中に入るそれらしき理由は一つも無い。ラ・ロテッラ准将とやらと知り合いなわけでも無いし、こんなところまでミラーニ女史を追いかけてきた理由も無い。女史が危ないから護衛のためにと言うのなら、じゃあ何故治安部隊員が来ないんだと訝しがられるのは必至。そもそもここの主人が教会関係者である以上下手な嘘では騙しきれないし、准将という立場上知っているとは思うけれど――私たちの正体を知っていようと知っていまいと、治安部隊員を呼ばれて教会まで連行される恐れもある」

 現実的なことを言いながら、この状況を打破する良い案が無いものかどうか、頭の片隅で思案している自分がいることには気がついていた。何の事はない、焦っているのは自分も同じだったのだ。
 ペトルスが深い息を吐いた。

「だから、カッラ中佐に任せましょうよ。ここいら辺りが丁度いいですよ。貴方たちはよくやりました。他の治安部隊員ならまだしも、貴方たちが事情を話せば快く承諾してくれるはずです。今から三人ですぐに戻って、事情を――」

 パチンと閃いたものがあった。
 ……上唇をゆるりと舐める。

「……第一発見者として思い出したことがあるから、女史に面会を……なら、いけるかもしれない」

 真佳とペトルス両方の視軸がこっちを向いた。一様に驚きに溢れた様相で、「だっ」ペトルスがまず一音発した。

「駄目ですよ! 本当にもしもここの屋敷の人間がシルバー・ハンマーであったなら、その案はあまりに危険すぎます! 女史に代わってあなたがたが狙われることになるかもしれないんですよ!」
「そう。だからペトルスは帰ってくれていい。私たちの危険にアンタを巻き込むつもりはないわ」

 もう一度唇を湿らせてさくらは言った。ペトルスの言う通り、これが危険なものだという自覚はあった。念を入れて彼には外してもらった方がいいだろう。
 真佳が隣で頷いた。窓から差し込む屋内の光に赤い双眸を光らせて。彼女がついてきてくれるに違いないことは疑う余地も無いことなので、それは蛇足の返答だった。
「〜〜〜っ」目を怒らせて眉間にシワ寄せ、何か言いたそうに唇を盛大に歪めてから、
 バンッ、と石造りの家壁をぶん殴ったので流石のさくらも目を剥いた。壁一枚隔てたところには家主とミラーニ女史がいて、場合によってはそのどちらもに気付かれるかもしれないんだぞ!

「……そうやって自分たちだけで何でもかんでも解決しようとするのを、貴方たちは何とかした方がいいですよ」

 地を這うような、それでいて投げやりっぽい声音でもって。二度目の声変わりが起こったのではと思うほど、その声はいつものペトルスのそれより一段階ほど低かった。
 眼鏡のブリッジを左の薬指で押し上げる。反対側の手はさっきと同じ、壁に拳を置いたまま……未だ微動だにしないようだった。レンズの奥に垣間見えるペトルス・ズッカリーニの双眸には色が無く、思考らしき思考はここからでは読み取れない。

「……ペトルス……」
「“神が生物を多く創りしは決して繁殖のためにあらず”……」
「へ?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。ペトルスは眼鏡のブリッジに変わらず指を置いたまま、唱えるように滔々とそれを呟き続ける。

「“神、告げし言葉を借りるなら、そを創りしは人から孤独を奪うため。膨大な力を産ますため。人に世界を産ますため”」

 おもてを上げた。
 苔藻に似た濃緑色の双眸を、真っ直ぐこちらに向けながら。

「……創世記四十五章三十節から三十三節に渡る文句です。ぼくはあなた方から孤独を奪い、膨大な力を共に生み、共に世界を生み出すためにここにいます。あなた方二人では成し得ぬことを共に成し得ることに変えるよう、こうしてここにいるわけです。ぼくらは共犯者であり、故にあなたの言う通り一人だけが逃遁するということは許されざる所業というわけです」

 ……壁から拳をそっと外した。拳の側面が少し赤くなっている気がする。それでもペトルスはそのことをおくびにも出さなかった。まるで本当に痛くなんかないみたいに。石壁を殴って痛くないはずなんかないのに。

「……巻き込まれるも何も、既にあなた方同様当事者の仲間入りをさせられてしまっているということをお忘れなく。さ、行きましょう。手遅れになっては困ります」
「あ、ちょ……」

 引きとめようと思った言葉は完全に上滑って、虫が大合唱を繰り広げる地へと溶けてしまった。ペトルスの背中へ伸ばした手は行き場を失って、……結局何も出来ずに元に戻した。……音も立てずに苦笑する。光源が少ないからだろうか……ペトルスの背中が、少し大きめに見えるのは。
 ……ペトルスがそんなことを考えていたなんて、思いもしなかった。少なくとも彼らはさくららと違って、いつでもこの件から下りられるものだとばかり思っていた。危険になれば異世界の人間なんてほっぽって、知らぬ存ぜぬを貫き通せるものだとばかり思っていた。
 ……そうか、
 と思う。
 もう下りられないのだ。列車は出発してしまっていた。彼らもまた、最後までこの列車からは下りられない。その点において、自分たちとの違いは無い。“巻き込みたくない”は通用しない。
ならば自分も、腹を括るしかあるまいか。
 腰を上げて彼の背中を追おうとしたとき――カチャリと背後で、何かが開く音がした。

「あらまあ」

 何も考えずに振り返ってしまって戦慄する。逆光になってすぐにはその顔を視認することが出来なかったが、闇に覆われてはいても光に縁取られた輪郭と甲高くねちっこい声色はすぐに記憶の該当箇所を突っついた。鼻に乗った丸メガネの向こう側で彼女は緩くほくそ笑む。

「ごめんなさいな、ラ・ロテッラ夫人。ここに友人をお連れしても構いますまいね? 何せあたくしには貴方以外にも、お話を聞かせてくださると親切にも名乗り出てくださる方がたぁんといらっしゃいますもので」

 そう言ってミラーニ女史はおほほと笑った。部屋の中でラ・ロテッラ夫人と思しき女が、敵意を孕んだ歯ぎしりでもってそれに応じた音がした。



創世記四十五章より

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