「即死……では、無いかもしらんな」

 触れたり温度を計ったり、ためつすがめつ死体を眺めながら日本語でもって男が言った。マクシミリアヌスが真佳らに日本語で話しているのを見て、何事かを察したのかもしれない。
 色素の抜け切らない半白のストロベリー・ブロンドで、癖のある髪はさっぱり短く刈られている。瞳の色は同じだけれど、眼鏡の種類はペトルスとは違っていた。黒縁眼鏡じゃなくてツーポイント眼鏡。随分年を取っていてその表情からペトルスの面影を探すのは難しいが、れっきとしたペトルスの祖父……フラヴィオ・ズッカリーニその人であることに間違いは無さそうだった。
「おお」とマクシミリアヌスが悲嘆に暮れた声を出す。「それは真か」

「開いてみんと確かなことは言えんがな。まあ死体もそれほど腐敗してはいないようだし、解剖すれば確定するだろう」
「そうか……そうでないことを願っておこう」
「君は遺体に同情するのだなあ」

 治安部隊員にしては珍しいとズッカリーニ医師はそう言って軽く肩を竦めた。「尤も、我々が死体に慣れすぎてしまっただけなのかもしれんが」
 ちょこちょこと隣ににじり寄ってこそっと真佳は口を開いた。

「ペトルスのお祖父ちゃんって医術士じゃなかったっけ。検視みたいなこともしちゃったりするの?」

 師匠である祖父の前であるからか、彼が到着してから微妙に硬い表情を保ったままのペトルスが二回ほど唇をしめした後、眼鏡のブリッジを中指の方で押し上げた。

「祖父がやっているのは検案です。検案は医術士の仕事ですから……。さっき、祖父より前に死体に触っていた人がいたでしょう」
「うん」
「あれが検視官。遺体の外見から死因を判断するわけです。今回のような変死体が上がった場合に引っぱり出されることが多いです……。検案は医術士が、同じく外見から死因を判断するわけですが、こちらは医学的・法的な見方で行われるという違いがあります。あと、それから……」
「それから?」

 ペトルスはもう二度唇をしめしてから口火を切った。

「第一級・第二級含め、魔術が使われたか否かを鑑定するのも、検案を担当する医術士のお役目です。検視官は言ってしまえば“医学知識のある治安部隊員”に過ぎませんから、魔術に関してはまだ医術士の方に分があるわけです。これから遺体を持ち帰って解剖により死因や死亡推定時刻を特定するわけですが、検視と検案で事件性があると判断された場合、解剖の際解剖医の隣に魔術知識の権威と呼ばれる人物が立ち会って、その詳細を報告するという寸法です。……今回の場合もきっとその通りになるでしょう」

 そう言って、眼鏡の奥で目を細め、随分と遠くに見える遺体に視線をやった。銀鼠色をしたシーツに遺体をくるませたその横には、元の世界でもテレビで何度か見たことのある担架が並べられている。丁度その解剖のためにスッドマーレ教会支部かどこかへ運び込まれるところらしい。死体の顔はもう真佳の目には映らなくなった。周りを取り囲んでいる野次馬の群れから、ほっとしたような安堵の吐息が漏れた気がする。怖かったのなら見に来なければ良かったのに。
 あれから――真佳らが死体を発見してからマクシミリアヌスらが駆けつけるまで、随分な時間がかかった。
 いや、もっと正確に、“真佳らが死体を発見してから彼らに連絡するまでに”――と言った方がいいのだろう。遺体を発見して思わず一瞬、全員が全員放心状態に陥ってしまって、次の行動に移るまでに少しの時間が要ったのだ。
 で、マクシミリアヌスがここへたどり着いたときにはもうすっかり出来上がっていたのが、真佳らや遺体を取り囲むこのドーナツ型の野次馬群。みな遠巻きに眺めやってはご近所さんと囁き声を交わしていて、それが合わさって結構な騒ぎになっている。一体どこから嗅ぎつけてきたのか……。真佳にはさっぱり分からない。
 ちらりと隣を――ペトルスのいる方とは反対隣を振り返った。
 或いは、彼女がいつも通りの彼女だったならば、そんなタイムロスを出さなくて済んだのかもしれないけれど……。同じく硬い表情を崩さないさくらの横顔を覗き見る。けれどもあの時、残念ながら姫風さくらは、まるで別の何かに気を取られてでもいるかのようにすっかり沈黙を守っていた。――気になる一言を呟いて。

(シルバー・ハンマー……)

 口の中で繰り返す。
 確かにさくらはそう言った。
 聞き覚えの無い言葉だ。銀の鎚……で、いいんだっけ。元の世界でそういう事件でもあっただろうか。ホームズみたいに事件記録の知識を詰め込んでいるわけではないのでやっぱり真佳には覚えがない。
 遺体が運ばれていく横で、マクシミリアヌスとペトルスの祖父とか立ち話を交わしているのをどこか遠いところで眺めながら、ちらりともう一度さくらの方へ視線を送って――
 思い切って、聞いてみた。

「シルバー・ハンマーって」

 さくらの睫毛がぴくりと動いた。構わず真佳は口唇を動かす――「何?」

「……」

 一瞬さくらは言おうか言うまいか考えこむような目つきをした。じっとマクシミリアヌスと自分との間にある、広い空間に睨むような視線を送って、
 ……やがて小さく息を吐いた。

「別に。バカバカしい話よ。今回の事件とは絶対的に関係ない」
「それでも気になる。シルバー・ハンマー」

 さくらがもう一度息を吐いた。今度は溜息に近かった。

「……洋楽のタイトル」
「へ?」
「『マックスウェルズ・シルバー・ハンマー』。世界的に有名なバンドの曲なんだけど……まあいいわ。それをちょっと思い出してしまっただけ。遺体の傍に銀色のハンマーがあったから……」
「銀色のハンマー?」

 食いついたのは真佳ではなくて、右横にいるペトルスだった。

「落ちていたんですか、ハンマーが」
「ええ、まあ……」
「柄のところも銀色でしたか?」
「そうよ。だから咄嗟に洋楽のタイトルが思い浮かんだわけなのだもの」

 ペトルスが薄く目を眇めた。それまで祖父の方に気を取られていたはずの彼が、考えこむように顎を撫でぶつぶつと細切れの言葉を発している。「シルバー……鈍器……条件は……」細切れすぎて真佳には一体何のことなのか見当もつかない。

「……そのマックスなんとかって人、何したの?」
「え?」

 結局歌の方が気になったのでさくらにそのことを尋ねてみたらば、彼女は一瞬虚をつかれたような顔をした。

「歌。何したのかなーって」
「……銀の金鎚で人を殺しまくったのよ。それだけ。もういいでしょうが。私だって、一瞬でも現実と歌とを繋げて考えてしまったのは本当に馬鹿げたことをしたものだと――」
「シルバー・ハンマーねぇ……」

 唐突に割り込まれた甲高い女の声に、さくらがぴたりと喋るのをやめた。
 黄色を思い起こさせる甲高い声。ねちっこくて慇懃無礼な、聞く者に無意識の内に警戒心を抱かせるようなその女声に真佳の方は聞き覚えがあった。さくらが訝しげに振り返るのを横目で見ながら、心臓を縮み上がらせる思いでその場で硬直。気付いていませんようにとソウイル神とやらに初めて願う。

「いいんじゃなくて? 噂の連続殺人鬼、その名も“シルバー・ハンマー”……。こちらの言葉で言うならば、“マルテッロ・ダルジェント”といったところですかしら――その歌のお話、あたくしもっとよく聞きたいわあ」

 マクシミリアヌスの方を探る。こちらに背を向けたまま、地面を調べていた鑑識官と何やら会話を交わしていた。どうやら呼びかけない限りこちらに気付きそうにもない。ペトルスは考え事に夢中だし、さくらの方は彼女の怪しさなんて耳にしてもいないのだ。いや、日本語で話しかけてきた時点で怪しむべき相手であることは理解しているだろうけれど、新聞記者であることや、どうやら異世界人であることを疑われているらしいことなんか、自力で察することは出来やしまい。
 あの時、こっちを尾行しようと狙ってたのは何のため? 今日本語で話しかけたのは何のため? ……異世界人であることが確定したら、一体何を書くつもりだった?
 首筋を伝って汗が流れる。
 バレたら無論、神格視されている異世界人は注目の的、鬱陶しいくらいに増えた護衛の中心に据えられて、一挙手一投足をしつこいまでに取り沙汰される……。
 ごくりとツバを押し込んだ。
 もういっそ、怒られるのを覚悟の上で、さくらを連れて無理矢理にでもここから逃げ出した方が――。

「――ねぇ、マナカ・アキカゼさん?」

「ヒッ!?」左手首を掴まれた。名前を呼ばれた。何故こちらの名前まで知っている!?
 振り返ったその先で、鼻に乗せた丸メガネの奥、にっこり微笑うミラーニ女史と目が合った。



シルバー・ハンマー



「へえぇ、そうなの、異世界の歌」

 口の端に刻まれたシワを層一層深くしてミラーニ女史はそう言った。目の色と揃いの髪色は最初に会ったときと同じく肩のところでふんわり広げられていて、今日もデザインは違うけれど深い藍色のドレスを着ている。近くで見て初めて知ったが、耳のところに真佳の親指大くらいの大きな耳飾りが下がっていた。

「そんな歌を知っているなんて、あなた方、まるで異世界からやってきた方々みたいね?」
「や、本で見ただけで」

 咄嗟のうちに嘘を吐いていた。でもこれが一番効果のありそうな嘘ではある。ここには異世界に関する本が数多あると聞いているから。

「歌を持ちだしたのは、貴方でなくて隣の彼女では無かった?」
「と、友だちなので。本よく読んでるの知ってるので」

 さくらの方に話が振られて思わず肩を震わせてしまった。さくらは咄嗟の嘘に弱い。このまま彼女に任せていたら、昨夜に異世界人が降ってきてとかとんでもない方向に話がすっ飛ぶ可能性すらある。

「ふぅん……そおぉ」

 ミラーニ女史が納得したかどうかは疑わしい。それでも一応という体で頷いたのは事実だった。とりあえずこの場を凌げたというだけで真佳にとっては大きな収穫だ。

「それより、どうして貴方がマナカさんの名前をご存知だったんですか?」

 隣でペトルスが話の矛先をあっちへやった。ミラーニ女史に拙くも歌の説明をしている間に、どうやら彼の方もようやっと彼女の存在に気がついてくれたらしいのである……。ミラーニ女史の存在を目に留めたと同時に大きく見開かれた濃緑色の双眸と、信じられないものを見るような彼のその表情を、真佳は一生涯忘れないだろう。
 ミラーニ女史が骨ばった肩を小さく竦めた。

「あら、調べれば分かることではなくて? 宿の名簿なんて、たとい教会のものとは言え漁れば一発ですものね……。無論、名前以外のことは一切分かりませんでしたけれど……そこがまた、少し怪しいと思いません?」
「ほ、本人を前にして怪しいなどとのたまわれましても……」

 視線を極力ミラーニ女史に当てないようにしながら苦し紛れにそう言った。どんなに話題を別の方角へ向けようと、どうしたって彼女はこちらが隠す秘密の鉄扉の前に居座ろうとする。正体を知って脅そうとか、知識を搾り取ろうとか、そういう理由だったのならまだやりやすかったのだろう。けれどジャーナリストの目的は、常に真佳らの真の正体だけなのだ……。

「で、シルバー・ハンマーの元が分かったら何? 貴方はそれをどうする気?」

 腕を胸の前で硬く組んで、こちらは肩を怒らせながらさくらが言った。その時、やっと周囲に視線を巡らせる余裕が出来た。彼らの言う“異界語”でもって怪しげな会話を滔々と交わす、この四人の存在が殺害現場を囲む彼らの目に一体どういう風に映るのか……最悪の場合二次被害も免れまい……。

「あら、皆さん殺人事件にしか、あまり興味はありませんようよ?」

 唐突に顔を覗きこまれて心臓が跳ねた。空笑い。まるでミラーニ女史の手のひらの上で踊らされているようである。
 目尻のシワを一度深く刻み込んで、ミラーニ女史は改めてさくらの方に向き直ったようだった。

「どうする気、と仰ったかしら。無論、一面に飾るのです。連続殺人犯という呼称だけではどうも何か足りないと、以前からずっと思っておりましたの……。“シルバー・ハンマー現る!”良い煽り文句ではありませんこと?」
「悪趣味なだけだと思うけど」

 柳眉を歪めながらばっさりとさくらは女史の口上を切って捨てた。正体を追求されたらヤバイと言うのに何がそこまで彼女を大胆に仕立てあげるのか、真佳にはてんで分からない。
 次に脅し文句が飛び出すのではと思われていたミラーニ女史の唇はしかし、温和な言を紡ぎだしただけだった。

「あなた方にもいずれ分かります。そういう悪趣味が最も人心を動かすというのがね……。
 情報提供の件はありがとうございましたと申し上げておきましょう。無論今回の件は匿名でのタレコミ扱いとさせていただきますので、ご心配無く」

 満月型の眼鏡の奥、和やかに微笑みながら言われたそれに、……思わず拍子抜けしてしまった。本当に飽くまで、殺人犯の呼称に適したものを聞き出すためにここまでやって来ただけだったのか。その割には不用意にこちらの鉄扉を突っつきすぎだった気もするけれど――

「今度お会いするときはもっと他のこともお尋ねしたいわあ。例えばあなた方の故郷のお話とか……そこは一体どこにあるのか」

 ひくっと頬をひきつらせた。
 前言撤回。やっぱり洋楽の話を聞きに来たのだけが目的なのでは絶対無い!

「おお、マナカ、サクラ、ペトルス! 遅くなってすまない、そろそろ話を――おや! そのご婦人は知り合いか!」
「違います全然違います」

 洒落にならないくらい遅れてかかったマクシミリアヌスの野太い声に全身全霊で突っ込んだ。隣で女史が「あら、連れないこと」とさも愉快そうに呟いた。

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