ひくひくとしゃくり上げながら彼女は言った。

「朝起きて、お散歩してたの。お兄ちゃんとお姉ちゃんいつ来るかなあって、楽しみだったから、お部屋でじっとしてられなくて、アルブスも外に出たそうだったし、一緒にお散歩してたら、いきなりアルブスがどっか行っちゃって」ぐすっと鼻を鳴らす音。「わたし、いっぱい探したんだけど、見つからなくて、お昼になっちゃってたの知らなくて、でも見つからなくて、」

 宇宙の銀河から溢れだした大粒の涙が頬を伝っていくのを必死に拭いながら、一層支離滅裂になっていく言葉を小さな唇から垂れ流しているのを、ペトルスが頷いて押しとどめた。

「分かってるよ。ぼくたちもアルブスを探すから、アートゥラは心配しないでも」

 綿菓子みたいなふわふわした黒髪を優しく撫でながら、ペトルスはいつもより力強い声音で言った。ペトルスの顔を再び視認した途端安心したように泣きじゃくって、アートゥラが全てを彼に吐露したのにも頷けるほどの頼もしさだった。彼女の前に目線を合わせるようにひざまずいているのも、騎士に見えないことも無い。
 アートゥラの頭部から手を離して、ペトルスが立ち上がった。

「アルブスを探しましょう。――無論、協力してくれるのなら、ですが」
「しないわけないじゃない」

 と、真っ先に了承したのがさくらである。肩を竦めて言い切った彼女に、倣う形で真佳も微苦笑して了承の意で肩を竦めた。ほころんだペトルスの唇から小さく安堵の吐息が漏れた。

「アートゥラはどうするの?」

 彼女の小さな肩に手を添えながら、さくらが言った。今ではアートゥラも流れる涙を何とか拭いきって、すんすんと鼻を鳴らすだけに留めるよう努力しているようだった。気丈な子だ。

「連れて行くしかないでしょう――」
「こんな危ない中を?」思わず驚いて声を上げた。「お父さんも心配してるだろーし、一回家に送り届けた方がいいんじゃ」
「いや、アルブスは彼女無しでは見つかりませんよ――」

 こちらの言葉に被せるようにそう言ったかと思ったら、ペトルスはいつものように眼鏡のブリッジを右手の中指で押し上げて

「何せぼくたちがこれから探しに行くのは、彼女の眷属なんですからね」



血の階梯



 一旦ジャクウィント家にアートゥラが見つかったことの報告に戻った。頬のこけた父親は心底安堵したように何度も礼を繰り返して、教会の方にもそう話しておくと請け負った。あの時見かけた、軍服を着た人たち――やっぱりアートゥラを探しに出ていたようだ。多分何人かの手の空いていそうな治安部隊員とか街の見回りに駆り出された人たちにも連絡がいっていたに違いない。
 眷属を探しに行くと話したら、アートゥラの父親は一瞬不安そうな顔をしたが、アートゥラの宇宙を宿した強い瞳に根負けする形で了承した。子どもばかりの集団で探すより治安部隊員の人と探しに出かける方が安全なのは言わずもがなで、渋々でも了解してくれた父親の勇断に感謝した。

「眷属って逃げるの?」

 ジャクウィント家を後にして開口一番、ペトルスの背中に向かって問いかけた。とりあえずアートゥラのお父君に状況を話してからと断られてから今まで、質問するタイミングが掴めなかったのだ。真佳が知っているのはマクシミリアヌスら第一級魔力保持者に忠実に付き従う獣の形をした眷属だけで、今回のように術者から逃れて自由気ままに逃げ出す眷属は聞いたことも無い。
 半分だけ振り向いたペトルスの隣で、アートゥラがきょとんとした風に振り返った。

「無論、絶対に逃げ出さないと断言出来ない分、逃げ出すこともあります」

 答えたのは勿論、四人の中で最もこの世界に精通しているペトルスである。振り向いたことで足元が疎かになりつつあるアートゥラの背中を軽く押して前を向かせて、自分はこちらと目を合わせたまま言葉を繋ぐ。

「第一級魔力は生まれながら備わっているものであり、したがって第一級魔力の最大の特徴である眷属も生まれながらその身に備わっているものです……。初めて眷属が形を成した時期に個人差はあるものの、大体の術者は二歳か四歳までの間に形ある眷属を認められていることが多い、という研究結果も出ています」

 アートゥラの背から手を離し、教卓の前で指し棒を振るうみたいに人差し指を立てて指揮を取る。一旦前方にやっていた目を再びこっちに戻してから彼は続けた。

「つまりその頃から、術者は眷属と交流を――眷属の方は動物同様喋られないながら――持つことが可能なわけですが、ここで一つ問題が生じます」
「問題?」

 真佳の隣でさくらが言った。話を聞きながらもアルブスらしき影を探してきょろきょろ辺りを見回しているが、それらしきものは影も形も無い。マクシミリアヌスの眷属が見回りのためによくやるように、屋根の上に登っていたら事であるがどうだろう。
 ペトルスが前を向いたまま、小さく顎を引いて頷いたのが視界に入った。

「術者が幼いと眷属を抑える力も不足していますから、眷属を常に付き従わせることが出来ません。それでこういったように、眷属だけが逃げ出してしまう事例が生じるわけです。カッラ中佐やあなた方がご存知の第一級魔力保持者のお歴々も、そういった過去をお持ちかもしれませんよ。無論断言は出来ません。逃げ出されることなく過ごした場合も存在します」
「……それで、逃げ出して……」アートゥラに聞こえないように声を潜めて、「見つからないままだと……どうなるの?」

 ペトルスは一瞬ちらりとこちらを見た後、やっぱりさっきよりも声を低めて語り出した。

「……どうもなりませんよ。眷属は第一級魔術師の魔力の塊ですが、いなくなったくらいでは術者が魔術を使えなくなるわけでもありません。せいぜい強力な魔術が使えなくなるくらいです。どこかで攻撃を受けて死にでもしたら通例通り二日間魔術を使えなくなりますけど、むしろこっちの方が探す手間が省けていいかもしれませんよ。死亡した時にどこにいようが、回復時を過ぎれば眷属はいつの間にか術者の傍に戻っているものですからね」
「ア、アルブスは死なないもん……」

 震えた声でアートゥラが言った。
 どうやら聞こえていたらしい。一瞬どきりと嫌な具合に心臓が跳ね上がったが、「おお、勿論」と取り繕うようにペトルスが言を紡いだことで、どうにかあるべき場所に収まった。

「だからして、アートゥラに付いてきてもらっているのだから。アートゥラがいるならじきにアルブスも見つかるよ。心配しなくともいい」
「でも、どうやって……? わたし、いっしょうけんめい探したけれど、でもどうしてもアルブス見つからなくて、だから……」

 嫌われたのかと思って、と涙声でアートゥラは訴えた。
 アルブスという眷属が一体どういう容貌をしているのか、具体的なことを真佳は知らないが(白くておっきくてふわふわしてて、とアートゥラは言ったが巨大なしろくまのぬいぐるみしか思い浮かばなかった)、相当主人に愛されているらしいことは確かだ。話を聞くにこれまで逃げ出したことは一度も無かったと推定されるが、今回に限って一体アルブスの身に何が起こったと言うのだろう?
 ペトルスは、隣で小さな足を必死に動かして精一杯の速度を保とうとするアートゥラの頭を兄のように優しく撫でて、「なあに、簡単なことだよ」と笑って肩を竦めた。

「意識を集中して、自分の魔力の片割れがいる方向を指し示せばいい。そうすればぼくらがそこへ付いて行く。曲がり道のたんびにそれを繰り返していけば、すぐにアルブスのところへ辿り着くさ」
「ホント?」
「本当だとも」

 事実その通りだった。
 アートゥラを落ち着かせて神経を研ぎ澄ませるようちょっとペトルスが助言を加えただけで、瞳を瞑って周囲に意識を走らせていたであろう彼女はぱっと勢いよく顔を上げ「あっち!」と真佳らを引っ張って走りだした。そう焦らないようにとまた助言を与え、ペトルスの言う通り一定の距離を走る度に方向を確認してまた走りだす。そうなるとアートゥラはレーダーみたいに正確に、しっかりと行くべき道を教えてくれた。眷属と第一級魔術師の間を伝う力強い繋がりみたいなものを感じて真佳は胸を熱くする。
 右へ行き左へ行き、直線してまた右……じぐざぐと建物の間を縫うアートゥラに付いて行くだけで真佳には精一杯で、やっぱり自分が今どこを走っているのかは把握出来ない。けれどもそこは流石地元民というだけあって、ペトルスには今いる場所がどうやら分かっているようだった。勿論どうしたら帰れるのかということも。

「来た道を辿ればいいのだから、地元の人じゃなくても道は分かるわよ」

 とアートゥラに付いて行きながら、真佳の話を聞いたさくらは小さく言って肩を竦めた。

「でも迷路みたいじゃない。同じ建物ばっかだし、方角が分かっても行き止まりにぶち当たるだろーからやっぱり迷うよ」
「曲がった箇所の近くには今まで必ず目印があったでしょう」
「目印?」

 きょとんと目を瞬かせる。そんなものは見えなかった。ただ古びた、多分人が住んでいるんであろう建物が同じ顔で軒を連ねていただけだ。奥へ進むにつれて人が住んでいるかも疑わしい、戸口の開いた廃屋みたいなものが増えてきたような気はするけれど、それも似たようなものばかりで何かの目印にはなりそうもない。

「屋根と壁の色とか、壁に描かれた落書きとか――さっき曲がった角の、正面にあった壁にはイニシャルみたいな落書きがついていたの、見なかった?」
「見なかった」

 即答したら呆れたような半眼を向けられた。
 そんな顔をされても見ていないものは見ていないし、そんな細かなところまで普通視線はいかない。

「今はペトルスがいるからいいけれど、もしも道中はぐれて自分で帰らなきゃいけないようなことになったらアンタどうすんのよ」
「……どうしましょう」

 とは一応言ってみたものの、まあどうしようも無いのだけれど……。逃した視線の先では屋根の隙間、青空が素知らぬ顔で白雲を流してこっちを見下ろしているだけで気の利いた言い訳を教えてくれる気配は無い。空を飛べるかしたら楽なのだけど。いっそ屋根の上を走ってみようかとも思ったが、言ったら絶対さくらに怒られるだろうと思ったので言い訳の種にはしなかった。

「おおい」

 数メートルくらい前方で救いの声がして目を上げた。
 こちらの会話の内容など少しも知らないペトルスが、道の先で呑気に右手を振っている。その向こうはどうやら小さな広場になっていて、アートゥラはそこに向かって飛び込んで行ったようだった。
 どうやら無事見つかったらしいと悟る。さくらと一瞬顔を見合わせて、ペトルスまでの残りの数メートルを小走りでもって駆けつけた。

「見つかった?」
「見つかりました、見つかりました。アートゥラがいち早く駆けつけたところですよ。今頃感動の再会と洒落こんでいるところでしょう――」

 家の外壁に阻まれて見られなかった光景が、角を曲がったことではっきり見えた。
 まず真っ先に視界に入ったのは白い物体――アートゥラの言う通り白くておっきくてふかふかの、アートゥラの何倍もの体躯を持った――
 イノシシだった。
 立派な牙と三角耳、豚みたいな鼻を持ったそれは間違いなくイノシシだった。日本の山奥にいる印象の強いイノシシをこんな南欧然とした風景の中見かけるとは思わなかったので正直ビビった。真っ白い体躯というのも真佳の想像するイノシシのそれとは違う。それを言ったら炎を纏った獅子だって、実在するわけが無いのだけれど。
 アートゥラの言うアルブスはイコールイノシシだったのか……。小さい女の子があんなにも可愛がるものだから、ぬいぐるみみたいなふわふわしたファンシーな生き物を勝手に想像していたのが実際のところ。だからさっきも言ったように一瞬ビビって、それですぐには次の一歩を踏みしめることが出来なかった。

「……? アルブス? どうしたの?」

 放たれた荒々しい鼻息が、イノシシに抱きつくアートゥラの前髪を浮かせてみせたのがここからでも分かった。
 意外と小さな、丸ボタンみたいな穏やかな目が緊張で強張っているのを察知する――今気がついたが、空気に溶けそうな白い毛先はどうやら震えているように真佳には思えた。イノシシは確か臆病な性格だったはず。見知らぬものを見かけるとそれだけで避ける。けれども確か、

「……下がって」

 さくらが喉を震わせて発話した。真佳の行く先に白くて細い腕を出し、それ以上先に行かせまいとする。ペトルスが一瞬怪訝そうに眉根を寄せた――。
 白いイノシシのその向こうで、何かが倒れているのが視界に入った。
 イノシシの影に隠れてすぐには目に入らなかった。多分アートゥラもそうだったのだ。アルブスを見つけたことに歓喜して、彼女の目には彼だけしか見えていなかった。その向こうで何が起こっているのかなど想像もしなかったに違いない。アルブスが一体何に引き寄せられてここまで単独で来たのかも。
 血が
 アルブスの蹄の向こう側で、血が、地面を伝うように流れていた。
 ろくにならされていもしない凸凹の地面を、まるで何かに誘われるように流れて、流れて――それまでそれらの居所であった、肉の塊には見向きもせずに。
 アルブスがふるふると身を引いた。アートゥラの視界にそれが映る。ペトルスが慌てたように駆けつけて、アートゥラの目をしっかと覆った。でも多分、ほんの一瞬だったとしても、見えてしまっていたならば、脳裏に強く焼き付いてしまったことだろう――。
 ――そこで、人が死んでいた。
 顔や頭を殴打された跡の残る、顔の判別もつかないエグい死体。間違いない。唾を呑む。今朝読んでもらった新聞で得た情景が、目の前の光景と重なった。これが別人による犯行であるはずがあろうか? 否。
 連続殺人犯による十六人目の被害者。
 真佳の目の前で事切れているその人物は、後にそう呼ばれることになるであろう。
 ……――真佳の隣で声がした。
 小さな、どこか放心したような困惑気味の肉声が。真佳と同郷の人物の、ソプラノの声がそこでした。

「……シルバー、ハンマー……」

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