「今朝早くにどこかへ行ったきり、未だ戻らないそうです。出かける直前までぼくらが来ることを楽しみにしていたはずなのに、この時間になっても戻らないのは可笑しいって」
「迷子になった可能性は?」さくらの冷静な肉声。聞き慣れたそれが潤滑剤になって停止していた脳の歯車をのろのろと動かし始めるのを自覚した。
「分かりません。そうかもしれないし、違うかもしれない」違うかもしれない、という言葉にどきりとした――「ともかく、居場所が分からないのは事実です。考えたくありませんがもしも――」

 もしも、……の先はペトルスも口には出さなかった。言葉と一緒に喉奥に唾を押し込んで、何事か口にしようと唇を開いたが結局何も思いつかなかったのか眉間に強くシワを寄せて眼鏡のブリッジを押し上げた。
 もしも。
 もしも連続殺人犯の手に渡っていたら――?

「探しましょう」

 何かを抑えているような低い声音でそう言って、さくらは真佳の背中を仄かに叩いた。



甲冑



 スッドマーレに来てもう一週間も経っているが、これほど本筋から離れた枝道を通るのは初めてだった。ペトルスが先導してくれているのでどれだけ方向感覚が滅茶苦茶になるくらい走らされても道に迷う心配は無いが、それにしてもこれでは彼らがあれほど脇道に入らせようとしなかった理由に合点がいくというものだ。全体のイメージを形成することなく無計画に家を追加していった結果こうなったのだとは思うのだが、まるで自然に出来た迷路である。これまで行き止まりに出会うことなく(道の入口から覗きこんでアートゥラがいないかどうか確認するくらいの出会いはあったけれど)ペトルスがするすると家々の間を縫っていくのが魔法のように思えてきた。首都育ちのマクシミリアヌスだってこれではきっと迷うだろう。
 二日前の真夜中――性格には昨日の未明、ルーナに見送られて街へ繰り出したマクシミリアヌスのことを、自然と考えていた。あの後発行された新聞をペトルスにねだって読んでもらったところ、遺体は大通りの端っこに放り捨てられていたらしい。鼻から上が幾度もの殴打によって滅茶苦茶で、被害者の身元も今のところ不明とのこと。ただ着物は上等なものだったから、そうでない場合よりは時間はかからないだろうということだった。
 これまで、大通りにて遺体が発見されたのは今回の件を含めて二回。あとは全て裏通りで発見されたものだそうだが、大通りから入ってすぐそこが殺害現場だったり教会付近の裏道が現場になっていたりが多々あって、統合的に考えると人目を避けているとはとてもじゃないが考えられない、というのが公式の見解らしかった。
 つまりそれは、昼間であろうが何であろうが機会さえ見つければ奴は殺人に及ぶ(・・・・・・・)ということだ……。アートゥラの行方が分からないと告げられたとき、真っ先に思い浮かんだのがそれだった。

「やっぱり私だけでも大通りの方を探すわよ」

 ペトルスの後を走りながらさくらが言った。
 随分の距離を走ってきた上に短い階段の上り降りの連続ですっかり息が上がっている。大通りで遺体が見つかったことは、ペトルスの音読を一緒に聞いていたさくらも勿論のこと知っている。

「と言ったって、サクラさんはアートゥラの容貌を知らないでしょう」
「じゃあ私が」
「駄目です」

 咄嗟に口を噤んで目を瞠った。
 申し出た途端に切って捨てられた。先頭で息を切らせながら路地の先に祈るように目を凝らすペトルスを眺めながら、……整えるときに吐き捨てる吐息で不満の意を表明する。
 ペトルスが呆れたように吐息して、真佳の方を振り返った。

「あなた方は護衛対象だと言ったはずです。本当はぼくという付添人がいてでさえ、こんなところへ入り込むのは許されることではないんです。きっと大人しくしていられないだろうし緊急事態だからこそこうしているだけで……」
「はいはい、分かったからアートゥラを探そう」

 くどくどとした苦言を聞いていられなくて一方的に話を切ると、彼は少し不満そうに押し黙ってから「……あと探してないのはこっちです」ちょっと引き返して真佳らを先導しながら角を曲がった。アートゥラを探すことを優先させることにどうやら異論は無いようだ。
 ペトルスについていく途中、さくらの興味深げな銀目と視線がかち合ったので瞬きした。

「何?」
「……別に? 随分慣れたのね、彼に」

 笑いを含んだ目顔と弧を描いた唇に一瞬面食らってから、

「……どーゆー意味だ」

 言うだけ言ってペトルスについて行ったさくらに向かって、というよりは独り言つように呟いた。見透かされたようなのがいたたまれなくて居心地悪く、すぐに付いては行けなかったので路肩に吹き溜まったゴミの塊に視軸の先を固定してしばらくそのまま立っていた。

「真佳?」

 角の向こうから名前を呼ばれたので「……はーい」小さく答える。だんまりもしていられない。というか、今一番に考えるべきはまずアートゥラだ。アートゥラの身の安全だ。
 一つ息を吐いて決意を固めて、一歩路地を踏みしめた――刹那。
 カーン、という音がした。

「……?」

 それほど小さな音ではない。このすぐ傍で聞こえた音だ。でもどこかか細く遠い印象を受ける音。きょろきょろと辺りを見回して、すぐ近くの家屋の窓から明かりがチラついているのが目に見えた。時刻はせいぜい昼前で太陽は高い位置にあるものの、陽光を上手く取り込めないのか家の中は総じて薄暗く明かりが見えるとすぐに分かる。
 よくよく見ると、その明かりはどうやら火の明かりらしかった。奥の方で橙色と赤色に燃える炎が踊り狂うように燃えている。一瞬火事かとも疑ったが火の前に人影がいるのを見て思い留まった。腕を小さく振り上げて振り下ろす。カンカンカンという小気味良い音がした。人影の前にも明かりみたいなものが見えていて、それが徐々に光を失っていくのが分かる。
 戸口が開いていたのでひょいと顔を傾けて覗いてみた。見るからに男らしい背中をこっちに向けて座り込んでいる。カンカンいう音はまだ聞こえた。家の中へ一歩足を踏み入れてみる。土と炭の積もった木床が靴の底でじゃりっと音を立てた。が、家の中の人には聞こえなかったらしい。

「あの、」

 と声をかけてしまってから自分で自分にびっくりした。何で声をかけちゃったんだろう。というか、何で中に入っちゃったんだろう。カンカンいう音がどこか懐かしい響きを帯びて心に迫って、他人ごとで無くなったとしか思えない。
 声をかけた相手は無反応だった。目の前のものをカンカンと叩くことに夢中で、こちらの存在に気がついたような素振りも無い。このまま何事も無かったように帰ることも可能だが、でもずっとここにいたのなら若しかしたらアートゥラのことも知っているかもしれない、ということに気がついた。

「あのー……鍛冶屋さん?」

 小首を傾げて問うてみる。鍛冶屋さん、と呼んだのはほぼ適当だった。どうやら目の前で打っているのはまだ歪な形をした長刀のようだったし、熱を持ったままのそいつを目的の形に整えるためにハンマーを振り下ろしているようだったので、鍛冶屋さんではないかと思った。元いた世界で一度見学に行ってみたことがある。そこでは刀の鍛錬に機械が使われていたっけ。
 まだ無反応だったので、鍛冶屋さん、とさっきよりも大きめの声をかけようとしたとき、
 ……相手の鍛冶屋の頭の形が、奇妙なことに気がついた。
 肩や体格に比べて頭の方が、真佳の想像しうるそれより一回りくらい大きいのだ。前方の火に照らされるそれに頭髪らしきものはなく、頭頂部のところがトサカみたいに隆起している。首と肩の接続部分もよく見ればちぐはぐだった。人より太めだと思っていた首は首というよりも、被り物の下側と言うのが多分正しい。
 真佳が見ていた鍛冶屋の頭は、甲冑だった。骨ばった背中に乗った頭に被せられる、身を守るための冑だった。

「――」

 思わず息を呑んで半歩後ろへ引き下がった。薄暗がりの中、冑をつけて炎を前に刃を鍛錬する鍛冶屋の男。異様だった。あまり見慣れた光景ではない――。

「マナカさん?……」

 遠くで自分を呼ぶペトルスの声に我に返った。
 カン、カン、とハンマーを打ち鳴らす男の背中に視軸を向ける。カン、カン、カン……。どうやらまだこちらに気付いていないみたいだ。或いは、気が付いていながら気が付いていないフリをしているのか。
 一つ唾を飲み込んで、最後に相手の肩甲骨の辺りを見やり、それで家の外へ抜けだした。
 太陽光が枝道を照らす光に目が眩む。中にいるときは気が付かなかったが、屋内は炎の熱気によって随分と空気が濃縮されていたらしい。髪をかき乱す風と容易く気道に入る空気が新鮮なものに思えてうっかり目を白黒させた。

「マナカさん」

 さっきさくらとペトルスが曲がっていった角の方から、ひょっこりペトルスが顔を出したのに気がついた。「おう……」咄嗟に言い訳を考えようと思ったが特別気の利いた答えは出てこなかった。これから始まる説教を思いつつ首を縮めて待っていると、意外なことにペトルスは口から飛び出る小言を抑えて努めて別の言葉を口にするような素振りをした。

「マナカさん、アートゥラが見つかりました」
「えっ!」

 ぱっと顔を上げてペトルスを見る。すぐに見つかって欲しいと願ってはいたけれど、こんなに早く見つかってくれるとは思わなかった。

「どこ? どこ?」

 頬が緩むのに任せながらペトルスの方へ一目散に駆け寄った。家の中で見た異様な光景はこの時すっかり頭の中から追い出されていた。

「落ち着いてください。見つかるには見つかりましたが……」
「が?」

 そこでペトルスは複雑な顔で口をもごもごさせて視線を逸らして、

「――ともかく来て下さい。サクラさんを置いておくわけにはいきませんから……。話の続きはそこでします」

 ついてくるようにと人差し指で示しておいて、ペトルスは角を曲がっていった。
 ……ちょっとの間思わぬ不穏事態に対処しきれなくて立ち尽くした。見つかりましたが、何? “が”って何?
 居ても立ってもいられなくなってペトルスが去った方向へ、枝道の細い通路を全速力で駆け出した。

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