スッドマーレ教会宿舎から出て真っ先に見上げた先の大空は、曇天だった。厚い灰色の雲が海の向こう側まで制圧し、遠くに見える波の流れもどことなく不穏な様相を見せている。また雨が降るのではと危惧したが、それに対してペトルスは、「どうせ通り雨ですよ」と言って軽く肩を竦めただけだった。「ここいらは通り雨が多いんです」……その割りには五日前、かなりの時間流れた気がする。
 ここの人たちは雨に降られるのが普通で、濡れることに関しては気にしていないのかもしれないなとふと思った。だからペトルスもあの雨の中傘もささずに外に出たのだ。尤も、それは真佳とて同罪なのだけど。
 空は暗いが気分の方は晴れやかだった。斜め後ろを振り返る。スラックスのポケットに指先をちょいと引っ掛けて、大通りに立ち並ぶ家々をぼんやりと眺めながら歩いているさくらの姿が目に入った。久しぶりに彼女と一緒に外に出た。それも遊び目的で。ペトルスの方はれっきとした訪問診療としてアートゥラのもとを訪れるのだから、遊び気分で行くのは失礼なような気もするが。
 二日前、ペトルスの言う“用事”に同行させてもらう約束をした。それが今日だ。さくらとアートゥラを引き合わせる日――それがずっと楽しみだった。さくらは子どもの扱いも上手いから、きっとアートゥラともすぐに仲良くなるだろう。一人で彼女と接するよりは幾分かだけ気が楽だ。今度は自分も、もう少し話を続けることが出来るかもしれない。

「そのお爺さん、どこが悪いの?」

 とさくらが聞いた。
 アートゥラの祖父の話であると、少し考えてから気がついた。

「腎臓の辺りが少し。入院するほどのことでは無いんですが」
「でも通院は難しいのね」
「ええ、足腰が弱くて」

 成る程、とさくらは頷いた。
 どうやら一瞬でこの街の立地と患者さんや病院の状況を把握してしまったらしかった。ペトルスは小さく笑って、黒縁眼鏡のブリッジを左手の中指で押し上げる。

「――お二人にはお話しておきますが、あの家、ことにアートゥラに関しては、特別な事情がありましてね」
「特別な事情?」

 それに関しては初耳だった。尋ねると、ペトルスは真佳の少し前を歩きながら小さく縦に首を振る。大通りは教会付近の住宅街を卒業し、雑貨店や服飾店の多い界隈に入ったところだった。この辺りからちらほらと外食店も見えてくる。

「第一級魔力保持者なんです。彼女」
「えっ」

 ――という声は一体どちらの口から漏れ出た言葉だったのか。でも、という言葉が思わず口をついて出ようとしたが寸でのところで思い留まった。第一級か第二級かを第三者が意識するには、その一、既成品の魔術を使ってもらうか、その二、眷属を見せてもらうしかない。真佳はそのどちらもアートゥラにお願いしたことはない。

「保持する魔力が第一級か第二級かは、生まれた時から決まっています。子どもの第一級魔術師も当然存在しますとも。通常は第一級だと判断された時点で首都に招請され、教会の庇護の下教会の下で働くことを前提に無償で教育を受けることになるんですが、今回の場合、教会はその招請を拒まれています」
「拒まれた?」

 今度尋ねたのはさくらの方だった。階段の段差を下りながら、その地面の落差のせいで随分低くなったペトルスの後頭部に視線をやる。

「まあ拒むまでは行かずとも、不安がる人間がいることはそう珍しくはないです。男の子ならともかく相手は女の子ですから。第一級魔術師と聞いて国民が真っ先に思い浮かべるのは、治安部の服を着て我々を護ってくれる軍人ですからね。尤も、いくら教会が〈神の光の恩恵〉たる第一級魔術師を手元に置いておきたいと思っても、アートゥラみたいな女の子をカッラ中佐らと同じような治安部隊員に積極的に放り込むような真似はしないことは確かです」
「それでも反旗を翻されたとき厄介な第一級は、治安部入隊以外の道を作ってでも教会で囲んでおく必要がある」

 さくらの一言にペトルスが僅か顔を振り向けて、ニヤリとした。

「頭の回転が早いですね。
 その通り――アートゥラのような女の子であってもそれは同じです。ただ彼女の場合、父親の方が折れないだけなんですけど。具体的には、ちょっと待ってくれないかと頼まれているだけなんですが」
「頼まれてる?」

 反芻。さっきのとはまた別の短い階段を、最後の一段だけぴょんと弾みをつけて飛び降りた。段々高級そうな服飾店も大通りに見なくなってきた。しばらくしたら外食店が大手を振るう近辺に突入するが、アートゥラの家に行くにはそこに入る前に右折する必要がある。

「どうやらアートゥラが、祖父と離れたくないようなんですよね。さっきも言ったように、彼女の祖父は体調も足腰も良くはない。行くとしたらアートゥラと父親だけが首都に行くことになるでしょう。ま、彼の方は、自分は置いて行って来なさいとアートゥラに話しているみたいですけど。神様に授かった力を人のために使えるのは名誉なことだからと、ね。――父親の方も、アートゥラが首都で教会のために働くこと自体には反対していないそうです。ただ、もうしばらくは彼女の意見を尊重して、祖父と共に過ごさせてやってくれないかということで」
「それで、教会は待ってるの?」意外そうにさくらが言った。
「ええ。せめてアートゥラが小学部に入ることの出来る年になるまで、という話だったので――。男児であればきっとこうはならなかったでしょうがね。大事な戦力候補になったでしょうから、お爺さんを担ぎあげてでも早々に首都に召喚したはずです」
「アートゥラのお爺さんも、教会の人が頑張れば首都に連れて行けるんじゃないの?」と聞いてみる。
「お爺さんの方が首都行きに弱気になっていますから。それに、この場合教会としても要望が無い限り動かない方が得策なんですよね。首都で第一級の家族として優遇するより、こちらで少しばかり面倒を見る方が動く資金が少なくて済みますから」
「アンタはそのアートゥラの見張り役?」

 ペトルスが少しびっくりしたようにさくらの方を振り向いた。そのまま足以外が硬直したように顎の位置を固定して、きょとんと瞬き。「――ああ、いやいや」笑いを含んだ声音でもって立てた片手を振り振り、前を向く。

「見どころはいいです。確かに彼女に魔術の使い方を教えるという名目で出入りしている、教会から派遣された第一級魔術師は複数います。彼らが彼女の宗教観を形作ろうとしているのも確かでしょう。でもぼくは本当に、ただのしがない医術士ですよ」

 しがない医術士ですよ、と言ったとき、彼の背中がどこか淋しげに映ったのは気のせいだろうか。改めて見極めようとしてみたが、「さあ、ジャクウィント家はこっちです」の一言で右折され、真佳の視界から一瞬彼が消えたため比較しようにも出来なくなった。
 嫌われるのもまた一興かもしれませんよ、と言われたときのことを思い出した。
 あれは確か、初めてこの道を通った帰り道。ここから更に脇道に入ったところでぽつりと言われた小さな声明。

「どうして?」
「え?」

 先に行くペトルスの背中に向かって、さくらが密やかにそう尋ねた。

「どうして私たちに話そうと思ったの?」
「……」

 顔を振り向けたまま視線だけをよそへやって、ペトルスはそのまま暫し黙した。大通りから届く雑踏と、妙に身近に聞こえる自分たちの跫音だけが空白の時間を埋めていく。その間、真佳もさくらも何も一言も話さなかった。

「お二人がアートゥラを好いてくれそうだったので」

 と、ペトルスは語った。

「お二人なら友人になってあげられると思いました。先ほど言った通り、彼女はいずれ祖父と離され首都に行き、教会の教えを霧に溶かされるように静やかに説かれる未来があります。小学部に入れば同い年の友人は出来るでしょう。でもそうではなく、出来ればここで彼女に友人を見つけ出して欲しかったのです。祖父と離されたという思い出があるだけの悲しい土地にするには、あまりにもったいないですからね」

 最後のところは少しおどけるような調子で言って、こちらに背中を向けたまま肩を竦めた。常々思っていたけれど、成人にも満たない少年でありながら彼は時々ひどく老獪な挙動をする。
 右折した先には数日前に見たような細い枝道が続いていて、その短い階段の連続をペトルスが飄々と上るのを、暫く黙って後ろから眺めた。

「ペトルスはもう、アートゥラと友だちだと思っていたよ」

 わざと明るい声で呟くと、ペトルスは少しだけこちらを振り返って苦笑した。

「ぼくでは役者が不足していますよ」



埋没のステッラ



「あれ……」

 と前方でペトルスが独り言ちたのが耳に入った。たった二センチほどとは言え、真佳より背の低いペトルス越しに彼の視線を辿るのはそう難しいことではない。少しばかり頭を横へ傾けて、その先にある景色を見た。その昔造られたみたいな丸みを帯びた住宅が連続して続いている。見覚えのある風景だ。この中の一つにアートゥラの家族が住まう住居がある。
 その住居はすぐに見つかった。
 頬のこけたアートゥラの父親が、家の前できょろきょろと辺りを見回していたからだ。
 ……お出迎え? それにしてはペトルスは不思議そうな声を出していたけれど。

「ちょっと待ってくださいね――」

 と言いながら、ペトルスは真佳らより一足先に駆け足で父親の下へ駆けて行って、何事か話をし始めた。何となくそこに突入していくのは場違いに思われたので、通路の終着点になっている少し広まった広場の端で二人揃って足を止めることにする。家々に囲まれて開けた広場から見る空はぎざぎざした屋根の侵略を受けていて、閉塞感がある故にどこまでも突き抜けて見える気がした。
 二人の見知らぬ男が厳然とした足取りで目の前を通り過ぎていった。
 ……二人とも軍服を着ていた気がする。
 視線をペトルスのいる方向へシフトする。数センチを残して開いていたはずのアートゥラ家の扉が、いつの間にか全開になっていた。
 ……嫌な予感がする。

「マナカさん、サクラさん!」

 飛んできたペトルスに左腕を掴まれた。この短い距離を疾駆してきただけなのに、すっかり息が上がっている。
 ペトルスの向こうにいる父親の方へと無意識のうちに視線を送る。アートゥラとは違って少しばかり色黒で、それ故すぐには顔色の変化に気付くことが出来なかったが今改めて見てみるとその顔色はすこぶる悪い。

「ペトルス……」

 ペトルス・ズッカリーニが面(おもて)を上げた。眼鏡のレンズに阻まれた濃緑色の双眸は、いつもとは違う切羽詰まった輝きを受けて鈍い色味を帯びている。

「アートゥラの行方が分かりません」

 腕を掴まれた手に力が入った。
 こちらの思考に被せるように急いた声音で告げられて、自分の視界が一瞬トんだ。

 TOP 

inserted by FC2 system