バンバン、カンカン――。
 という声が聞こえた気がした。幻聴だろうか。それともいつの間何か自分の口から漏れたものだろうか。或いは他人の? 月夜の綺麗なこの晩に、自分以外に外に出ている人間の影は無い。今夜の月は双子月。丁度一個の丸い月がぱっくり半分に割れた半月同士で、それなりに縁起は良くない出だった。
 この時間帯、スッドマーレの街並みは毎度妙に静まり返る。
 海底に沈んだ化石を見ている感覚に似ている。遥か昔に死に絶えた彼らのように、この街も毎日毎夜死んでいるのだ。人も時間も神さえも。生の象徴であるソウイル神も死までは司れなかった。それらは地底のものに託された。赤ん坊は死とはあまりに程遠い。遠く聞こえる海のさざめきが死へと誘う鎮魂歌のようだった。実際のところ海はソウイル神に属する事物であるから、そういった感想は普通は抱かないものかもしれない。
 人影は――その時初めて自分の姿形が、地面に薄い影を描いていることに気がついた――地面を縫うようにするする歩く。薄い影だった。双子月でなければもっと薄くなったかもしれない。スッドマーレでは大通りにやっとぽつぽつと街灯が灯っている程度で、それでも大分暗かった。首都ともなるとこうはならないのだろうか。首都へ行ったのはどのくらい前だろう。幼いころに連れて行かれたきりだったはずだ。通りで記憶の引き出しを漁っても何も出てこない。
 前方で別の影がチラついた。
 跫音を立てて淀みのない足取りで、一歩一歩確かめるように歩いていく人影があった。自分のそれと同じように地面に縫い付けられたまま、ソウイル神自身ではなくソウイル神に属する事物に切り取られたそれがするすると地面を、歩いていく。
 この死に絶えた街中で、人に会うとは思わなかった。

「こんばんは」

 嬉しくなって挨拶すると、人影は地を這う影のようにするっとこちらを振り返って、

「こんばんは」

 花のほころぶ声で歌った。
 どうやら女のようだった。声の調子と、それから薄い月光に照らされた輪郭。体の線は分からなかったが、それを隠す長髪でそれが女のものだと知れる。女性がここにいるとは思わなかった。化石の群れで一輪の花を見つけてもこれほど嬉しい気持ちにはならないかもしれない。世界には自分たち二人だけ。丁度今宵の月のように。そう考えるとたまらなく嬉しくなった。一体何が凶兆だろう。

「お一人ですか?」
「お一人よ。貴方は占いを信じないのね」
「双子月の凶事のことですね?」

 頷く。頷いて、彼女はやっぱり歌うようにこう付け加えた。

「半分と半分のお月様。まるで均整が壊されたみたいだとか、あの中心から破滅の大魔王がやってくるだとか、色々のことを言われているのよ」
「昔の人は想像力が豊かですからね。他愛もないことに一々怯えて神に救いを求めるのでしょう。天体の神秘が異世界人によって解明されて五百年、そろそろ惑星の外側に飛び立っても良い頃なのにソウイル神を信ずるあまり何も行動を起こせないでいらっしゃる」
「愚かなことだと?」
「いいえ。私はそういった人類が大好きです。たまらなく」
「おや、私もそうだわ。“上弦の月”や“下弦の月”を始めとする素敵な名称を教えてくれたのは異世界人だったけれど、その全てを真似る必要は無いと思うの。神という鳥籠の中で、ゆるゆると生き長らえるのも楽しくなくて?」
「鳥籠の鳥を眺めるのも含めて?」

 女性は笑った。
 ような気がした。
 声と同じ、ほころぶような笑顔を見せるのだろうなとふと思った。五つの月が全て並べばその微笑みを見られただろうか。或いは想像の世界である首都ペシェチエーロのように街灯が多ければ。

「残念だわ」

 と彼女が言った。

「貴方の顔が見られないのが。私たちとても気が合うのだから、お友達になれたかもしれないのに」
「ええ、全く。残念です」

 首を鳴らした。自分は大層飽きっぽい方だが、彼女との会話は楽しかった。久しぶりに有意義な会話が出来たと思う。それ故に本当に残念だった。

「貴方を殺さなければならないのが」

 え? と聞き返す間も与えぬまま、そのまま鈍器を振り下ろしていた。


■ □ ■


 殺す回数は決まってなかった。ただ息絶えるまで、気が済むまで振り下ろすのが常だった。一人の人間を何度も殺す。一振りする度に人を殺した。二振りしたら二人殺した。もう何人殺したか分からなかった。それでもまだ足りなかった。腕に血肉が飛び散り蔓延っているのを一拍遅れて理解した。多分もう、ソウイル神自身の恩恵の下彼女を見ても変わらず顔は分からないままだろう。もう一生涯彼女の顔を見ることは無いだろう。そう思うと残念だった。残念で、だからこそ身が震えた。
 ふと我に返ると、いつの間にか鈍器の下にあるのはぐちょぐちょになった何かだった。硬い感触はそこには無かった。最初は額の辺りを狙っていたつもりだったけれど、いつの間にかそれは随分下に逸れていた。薄暗がりでよくは分からない。でも唇は残っているような気がした。良かった。猟奇的な死体は身に堪える。汚らしくて見ていられない。
 そこでようやく自分の影を認識した。
 薄い影。地面に張り付く薄い影。
 彼女と同じ色味を帯びていたそれは、今唯一動くものとなって、何だかよく分からないものにまたがりながらぼんやりとこちらを見上げていた。

「あ。あー。あ……」

 喉のところに手をやった。
 べったりしたものが喉についた。変にかしこまった声を出したから喉のところが可笑しい気がする。べたべたしたものが内側にまで入ってきたような気さえした。
 首を鳴らした。
 やっぱりかしこまるのは飽きるなと思った。
 誰にかしこまっていたのだっけ? それもまあどうでもいいか。ただこの快楽に浸っていよう。星が散った快楽に浸っていよう。割れた月の間に破滅の大魔王が現れることは今宵も無かったが、化石の群れの中羽毛に包まれて眠る安楽を見いだせただけで十分だ。
 ――コツ、という靴音が鳴った。
 近づいてくる。気配がする。安楽の深層から引っこ抜かれる。襟首を掴まれて引き戻される。靴音が持ったランテルナ(ランタン)が遠く彼方に見えている。

「――!! だ、誰か――伍長! リッチ伍長!!」

 慌ただしい肉声を背中で聞いたそのときには、闇に紛れて歩き出していた。



割れた月



 がたがたと窓ガラスが小さな音を立てていた。それほど風は強くなかったはずだけれど、海から来た潮風が真っ直ぐここまで吹き上げられてガラスの窓を揺らしたのだろうか。大通りの果てにあるスッドマーレ教会は、障害物がない分海からやってくる贈り物をそのまんま直に受け取られる。それは良い意味でも、悪い意味でもという意味で。
 硬く閉ざしていた瞼をそっと押し上げた。ノイズがかった暗闇が仄かに四方を侵食し、上空に見える天井を異空間染みた存在に見せる。
 階下の方で、誰かと誰かのささやき声が聞こえていた。
 ただ単にささやき合っているというものではない。鋭く固いささやき声。位置からして玄関口で話し込んでいるようなので、上半身を持ち上げて枕元にある窓を少しばかり押し開いた。

「本当に行くんだね」

 ルーナの声だ。
 生々しい潮風が前髪を撫でて室内に入り込んだのが分かった。窓の下を覗きこむ。バレないように。真佳の部屋は玄関口に窓が面している部屋の一つだ。ここから玄関口まで、果ては屋敷を囲む小さな林を超えて街の下、海の方まで見渡すことが出来る。多分恐らく、マクシミリアヌスがこの街の景観を見やすいようにと配してくれた部屋だった。
 そのマクシミリアヌスの声が窓の外から聞こえたことに、そう驚きはしなかった。

「ああ。行かねばなるまい。今回の件を仰せつかったからには……」

 そこから先は本当に小さくて聞こえなかった。マクシミリアヌスならこちらの気配を察知して一層声を潜めるくらいはしそうで、いつも以上に気を引き締めて気配を消さなければならなかった。

「あの子らにはどう伝える?」

 ルーナの声。

「朝までには帰れるだろう。しかし、まあ、それから新たな犠牲者が出てこんとも限らん。正直に、例の件でと伝えてくれて構わんよ」
「不安がらないだろうか」
「なあに、あの子らはそれほど柔ではないさ。むしろ心配するべきは中々捕まらない犯人を探しに行くと言い出すことで……ううむ……」

 そこでマクシミリアヌスはちょっと唸ったようだった。思案するような不安がるような沈黙を置いて、それからルーナを心配させまいと豪快に笑った。それでもその笑い声は、窓を開けていないと分からないくらいに抑えられたものだったけれど。

「いや、いや、もしもあの子らがそう言い出したら俺が止めるさ。その前に犯人を捕まえて見せるがな。首都の中佐が助太刀に来たのだ。これほど頼りになる存在はあるまい!」

 そう言ってマクシミリアヌスはまた呵呵と笑った。首都の中佐の肩書きなどたかが知れていて、それが決して万能を表す意味ではないのだということは何より首都で暮らしてきたマクシミリアヌスが一番分かっているとは思うけれど、それでもその言葉に、ルーナが少し笑ったらしかったのは事実だった。

「日本語だったわね」
「っ」

 唐突に別方向から声が飛んできて体が跳ねた。声の調子に覚えがある。この世界に来る以前から慣れ親しんだ口調と声音。縮み上がった心臓をゆるゆると伸ばしながら息を吐き、ゆっくりを首を巡らせた。恨みがましい目つきで。
 視線の先でさくらが少し肩を竦めた。

「アンタなら気配で察知することくらい出来たでしょう」
「下に意識取られててそれどころじゃなかった。ってゆーかなんでここ?」
「どうせアンタも盗み聞きしているだろうと思って」

 抑えた会話を交わしてから窓を閉めた。ガラスの向こうではマクシミリアヌスが背中を向けて、振り返りもせず大通りを下って行こうと歩き出しているところだった。ルーナは多分、宿舎の中の自分の部屋に引っ込もうとしているところだろう。気付けばすっかり夜目がきいている。
 張り詰めていた息を吐き捨てた。さくらも盗み聞きしているとは思っていなかった……戸枠にもたれかかったさくらを見据えて、開口一番彼女が呟いた言葉を改めて口の中で吟味する。

「……そういえば、日本語だったっけ」

 宿舎では日本語以外の言語を、少なくとも耳で聞いたことは無かったので忘れていた。街中の雑踏ではこの国の言葉で交わされる会話がほとんどなので、そんなこと忘れたりもしないのだけど。

「あの二人ももうすっかり癖になっているんでしょう。それより早く寝なさいよ。いい加減昼に起きるの何とかしないと、元の世界に戻ったとき学校生活に差し支えるから」
「やな現実を叩きつけるなあ……」

 この幻想的な世界において、と心の中だけで付け足した。
 今宵の月は満月を二つに割ったような半月の双子月。ペトルスが言うには不吉の凶兆で、真佳自身心もとないものを感じさせる月模様だけれど、元の世界では見ることの出来ない光景なのは確かなのに。そんな世界で学校生活だなんて現実の象徴。
 ……そういえば、その凶兆はどうやら当たったらしかった。
 マクシミリアヌスのあの口ぶり。連続殺人鬼がまた出たのだ。隠す素振りも見せなかった。間違いない。昼間に死体が発見されたばかりだというのに、また犠牲者が出るなんて。ペトルスの言う通り、本当に一日に二人殺すことも珍しいことではないらしい。ああでも、日付が変わっているのならそうれはないか。そういえば今何時だろう。

「さくら、今何時?」
「知らない。おやすみ」

 世間話に興じるつもりは無いらしい。まあいいけど。この部屋にも時計はあるし、それに知ったところで犯人が殺した数が変わるわけでもない。

「おやすみ、さくら」

 大人しく布団を引っ張りあげて床についた。戸口の向こうでさくらの手のひらが、ひらひらと数回振られたような気がした。
 瞳を閉じる。
 殺人犯。
 殴殺された死体、真夜中の月……。
 どれだけ瞳を閉じようとも、瞼の裏で繰り返し上映される疑問の種が、しばらく真佳を寝かしつけてはくれなかった。

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