残りの数件を順々に回って、途中小腹が空いたので野菜がたっぷり詰まったパンをぱくつきながら宿舎に戻ると、時計の針は丁度夕刻を指したところだった。あれから――港での一悶着があったあの時から――真佳ら以外に宿泊客が増えた様子は無かったので、ひそひそした人の気配が感じられるだけで活気づいた様子は無い。教会の宿泊施設なのだからこれくらいで丁度良い気もする。今動いているのは、多分ルーナを始めとしたシスターの何人かだろう。
 玄関を入って横たわる廊下を右に曲がり、突き当りを左に曲がったすぐ左壁。そこにかっちりした片扉があった。首都ペシェチエーロで見るような格式張った豪華さでは無いけれど、せいぜいそれなりの上品さはある片扉である。そこが真佳らがいつも使わせてもらっている食堂だった。この扉のすぐ近くには二階に上る階段があって、その先に真佳らにあてがわれた部屋がある。
 食堂の扉をそっと押し開けると、「遅い」分かっていたようにさくらが言った。



アートゥラ



「ルーナに聞いたのよ、ペトルスが訪問診察に行く時間だから、それに付いて行ったんだろうって。アンタが一人でどこかに行った気配は無かったから……」

 とそこまで言いやって、不意に米噛みに指を押し当て揉み解した。

「……ルーナにもバレてたわよ。アンタが無茶をやって飛び出るような女だって」
「……あは」

 真佳としては視線を逸らして空笑いをするしかない。診察鞄を部屋に置いてきたペトルスは横でコーヒーをすすりながら、我関せずといった体を貫いている。眼鏡のレンズが一瞬曇って霧が晴れるように霧散した。

「で、どこ行ってたの? 診察しに行っただけじゃないんでしょう」

 ……思わず頬を引きつらせたまま固まった。さくらの三日月の先端みたいな銀目がじっとりとこっちを見つめている。証拠はない。はずだ。でもどうやら何かを掴んでいる。……ように見える。

「……えーっと、ご飯は食べたよ」
「それから?」
「屋台行って軽食を少し……」
「それで?」
「……」

 言葉に詰まった。
 いや、悪いことはしていない。何もやましいことはしていないはずだ。ただ野次馬の群れに突っ込んで、それでペトルスに連れ込まれるままに大佐と話しただけだもの。その時例えどれほど心中で好奇心が膨らんでいたとしても、実際に首を突っ込んでなければ有罪にはならないはずだ。

「殺人事件があったので、見てきました」
「あっ!」

 あっさり言った! 真佳が必死に目を泳がせている間に!
 さくらが短く溜息を吐いた。

「マクシミリアヌスが事件だって言って出て行ったから、若しかしたら巻き込まれたんじゃないかとは思っていた」

 頬杖をついてまた溜息。巻き込まれた、と言ったさくらの言葉の言外に、“首を突っ込んだ”といった意味の言葉も紛れ込んでいる気がした。が、多分気のせいなどではない。

「実際言うほど“巻き込まれた”といった感じではないですね。遺体を見たのはぼくだけで、彼女はその間事件の担当者であった大佐と少しお話してもらっていただけです」
「アンタは何で見に行ったのよ」
「好奇心が勝りまして」

 悪びれずに言う。そのペトルスの神経が真佳は少し羨ましい。

「それに一応ぼくも医術士の卵ですから――担当の医術士が来るまで時間があるようでしたから、ざっと検視させてもらっていました」
「出来るの?」
「あの事件はぼくも書類を読み込んでいたりしてましたので……」

 ふうん、とさくらが相槌を打った。
 頬杖をついて、

「ということは、やっぱり前言ってた連続殺人事件の件なのね」

 言われたことに真佳だけでなくペトルスの方も驚いた。一瞬目を見交わして、改めて机の正面に座るさくらを見る。にやりとその口元が歪んだ気がした。ペトルスが唇を湿らせる。

「……知ってるものと思っていました」
「知らないわよ。マクシミリアヌスは正確にはどの事件か言わなかったし……。まあ、今朝この件の補佐役として任命されたとは聞かされていたから、十中八九そうだろうとは思っていたけれど」
「またそれか……」

 真佳の知らないところで重大発表がなされていて、真佳以外の全員が知っていたという事実が微妙に気に食わない。明日からは早起きしよう。……どうせ二度寝の誘惑に勝てないに決まっているのだけど。

「そういえば、もう知ってるみたいだけどアンタはこれをどこで聞いたの?」
「ペトルスが教えてくれた。……マクシミリアヌスには会ってないよ」
「入れ違いになったのかしらね」

 頬杖を解いて人差し指を顎に添え、ふうむと小さくさくらは唸った。そういった所作だけでも花の匂いがこちらにまで漂って来るのではないかと思われるほど様になる。
 マクシミリアヌスが途中で抜けたということは、つまりそれからずっとさくらはここに――シスターを除いて――一人きりだったということだ。異世界人は極力一人で外を歩かないよう仰せつかっている。思い返すと真佳は結構頻繁にペトルスにくっついて外に遊びに出ているが、さくらの方はそうでもないのだよなと考えて何だか微妙な気分になった。

「……診察した先で、女の子に会ったよ」
「女の子?」

 さくらの復唱に、うん、と小さく頷いて答える。

「患者さんのお孫さんなんだって。ちっちゃくて可愛いの」
「アンタ子どもは好きだものね」

 接するのは苦手だけど、とこれまた言外に含んでさくらは言った。うるさいなあと真佳は頬をふくらませる。

「でも仲良くなったもん。ちょっとだけ」
「へえ」

 興味があるのか無いのかよく分からない返答で片肩を竦めて見せる。真佳と違ってさくらの方は器用だから、子どもとも難なく接せられるためアートゥラともすぐ仲良くなれると思うのだけどなあと思う。あの可憐な微笑を見たら、骨抜きにされるのも可笑しなことではないということが分かるだろう。

「何人家族?」

 一拍遅れて、アートゥラの家のことを言っているのだということが分かった。

「三人家族。お爺さんとお父さんと、アートゥラちゃん」
「アートゥラ」

 と小さく呟いて、暫くしてから「……ふうん」と言った。下唇の辺りに人差し指の第二関節を添えて微妙に考えこんでいる風だ。彼女の唇を見ていると、見慣れている真佳でも何だか吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える。

「その子、目か髪が黒なの?」
「どっちも黒だよ。目が夜空みたいでとても綺麗で――何で分かったの?」
「アートゥラ。ラテン語で“黒”の意味だから」
「そちらでは“ラテン語”って言うんですか」

 さくらとの応酬に割り込んできたのはペトルスだった。椅子の上でシーソーみたいに体を前後に揺すぶって、面白そうに濃緑色の目を輝かせる。
 そういえば、初対面の時こちらの世界のことを知りたいと言われていたのに関わらず、これまでそれらしい話をしたことがなかった。ペトルスの方からも話を振られなかったので、すっかり忘れてしまっていた。

「古代言語だけどね。今でも医学を始め色んな専門知識分野で活用されているから、学んでるところも多いみたい――そっちではなんて呼んでるの?」
 ペトルスが小さく肩を竦めて、「普通に“古語”です。昔使われていた言葉みたいですね。伝統によって、殆どの民族はこれをもとに人名をつけます」

 一瞬前に会った殺し屋のことを思い出してちくりとした。随分昔に会ったような気がするが、実際は十日と少ししか経っていない。
 机の上に腕を乗せて、わざと別のことを口にした。

「ペトルスはどうゆー意味なの?」
「さあ。昔の偉人の名前だとかなんとか……」
「“岩”だと思った」

 と言ったのは、勿論この中で唯一こちらのラテン語を解しているさくらである。

「何故です?」
「こちらの世界ではそれが由来だと言われているから」

 さらっと言ってまた頬杖をついた。一体どういう経緯があって、過去その由来を調べるに至ったのだろう。ラテン語など習ったことのない真佳にはてんで想像がつかない。
 岩か、とペトルスが唇の先で呟いたとき、唐突にバタンと扉が開いた。

「おお、皆お揃いで! やあやあ、マナカも起きたようだな、おはよう!」
「……おはようございます」

 思わず敬語。マクシミリアヌスの唐突さと豪快さには随分慣れたと思っていたが、毎度こういう登場の仕方をするのだけは慣れそうも無い。そっと扉を開けることが出来ないのかもしれないとも思う。
 テーブルの向こうでさくらが意外そうに瞬きした。

「早かったじゃない。仕事終わったの?」
「いやまだだ。ちょっと取りに来たいものがあったから寄った。ついでに君たちはどうしているだろうと思ってな。サクラ一人であればさぞや寂しかろうと思うたが、その心配は無さそうだ」

 そう言って顎髭に埋もれた白い歯をむき出してニッカリ笑う。二メートルは優に超える大男だが、浮かべる笑みはいつも少年染みた子どものそれだ。
 この食堂には扉が二つついてはいるが、一つはシスターが主に使うものであり、その先にあるのは厨房とか倉庫なんかの“裏方”に通じる道である。マクシミリアヌスが取りに来ると言えば普通部屋へ向かうはずで、部屋へ向かうために食堂を覗く必要は無いのだから、どうやら本当にさくらの状況を案じて覗きに来てくれたらしい。

「これから出かける予定も無いですから、大丈夫ですよ」

 とペトルスが請け負った。マクシミリアヌスが重々しく点頭する。ペトルスが訪問診察に出かけるということは、あらかじめマクシミリアヌスの方に伝わっていたようだ。真佳がそれについていった件については、多分伝わっていないと思うけど。

「うむ、十分護ってやってくれ――悪漢からだけでなく寂寥からもな」(「一人でいることに寂しさを覚えるほど殊勝なタマか」頬杖をついたまま小声でさくらは応じたが、どうやらそれはマクシミリアヌスには届かなかった)「それでは! 俺は仕事に戻る!」

 言うや否や風のようなスピードで扉を閉めて階段を駆け上がって行った。ばたばた言う足音と共に「うおおおおおおおお!!」とかいう猛り声が聞こえてくるのは気のせいだろうか。

「……けっこー普通に楽しんでそーだね。仕事」

 思ったことをそのまま言うと、ペトルスから苦笑が返った。まあ、マクシミリアヌスなら何でもかんでも全力投球で真剣に向き合うのだろうとは思う。そこが長所であり、多分短所だ。

「そういえば明後日、またアートゥラの家に行く用事があるんですがね」

 とペトルスが言った。
 机の縁に頬杖をついて、空いた左手の中指で眼鏡のブリッジを押し上げて。

「お二人とも、同行されますか?」

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