思ってもいなかった事態に愛想を尽くす余地さえ無く、気がついたら大佐の隣で壁に背を預け立ち尽くしていた。野次馬の壁に阻まれて使えるスペースはそう多くなく、チンクウェッティという噛みそうな名前の大佐から距離を取ろうにも半人分の距離しか保てない。野次馬からの好奇の視線に晒された上、ミラーニ女史の品定めするような目が最高に居心地を悪くした。
 肺を灼くような強い刺激臭が鼻を突いた。煙草のにおい。意識せずとも思考の先が首都の知人に向けられた。……誰もお付きの人はいなかったように思うけれど?

「アンタ、あれだろう。首都から来た“例の子”だろう」

 左手に持った煙草の先を上下させて大佐が言った。真佳は大佐の左隣にいることになるので、否が応でも視界の端に赤く灯った煙草の先端が入ってくる。

「……内の一人です」

 とだけ答える。一瞬チンクウェッティが真佳の正体を知っていることにびっくりしたが、大佐なのだったら知らされていても可笑しくないかもしれない。ペトルスが護衛についてくれたのと同じ理由で、それなりの階級の人間になら異世界人が行くから気をつけるようにとの任くらい下っていても不思議は無い。どちらにせよ、首都では教会関係者のかなりの部分に異世界人の存在を知られているのだし。
 一瞬ミラーニ女史の視線が気になって横目で伺うように目をやった。この人混みにこの雑踏。相変わらず路地の真ん前に陣取っているミラーニ女史に会話の内容が聞こえているとは思えないが、それでも用心に越したことはない。
 ――唇をしめした。

「大佐みたいな階級の人が本当に付いててくれるとは思いませんでした」
「敬語はいいよ」

 煙草を持ったままの手を視界の端で軽く振って、チンクウェッティは一度一服してからまた口を開いた。

「ズッカリーニの孫もそんな顔をしていたなあ。俺に押し付けておいて、一等兵や二等兵にお目付け役を任せると思っていたらしい――いや、二等兵は無いか」

 と言ってもう一度美味そうに煙草を吸った。四十四、五歳かな、と思う。マクシミリアヌスと年の頃は同じに見えるけれど、風格からかそれとも階級故なのか、あの大男よりも幾らか年上に真佳には見えた。
 じっと見ていたことに気付いたのか(隠すつもりも無かったのだから当然か)、チンクウェッティは横顔をちらと振り向けてくつりと笑った。

「俺の顔に何かついているかね」

 大体のものは、と答えそうになって、流石にそれは不躾すぎるのでやめにした。代わりに別のことを口にする。

「……多分だけど、恐らくだけれど、第一級……じゃないよね?」

 驚いたというよりは感心したようにチンクウェッティは目を瞠った。

「よく気付いた。この国じゃあ大佐なんて地位についているだけで第一級魔力保持者と決めつけられるのが常なんだが」
「煙草吸わなかったら気付けなかった……と思うけれど。炎属性なのかなとも思ったけど、なんかそれとは違う気がした」

 自然、炎を属性に持つマクシミリアヌスのことを思い起こしていた。真佳がこの世界に来てからずっとここまで文句も言わずに付き添ってきてくれた人。真佳は魔力が見えるわけではないけれど、隣にいる時の気配や空気からマクシミリアヌスのそれとは違うことくらい理解出来た。漠然と。

「第二級でも大佐になれるのだね」

 嫌味でもなくするりとそんな言葉が出た。
 チンクウェッティが小さく肩を竦めてみせた。

「この世の中なんでね。戦時中に随分と位が上がったのは事実だが、段々力でなく頭一つでのし上がれる時代に変わってきている――それでも第一級に敵わんのは変わらんが」

 そう言ってもう一度一服する。ふうんと頭の中で簡単な相槌を打って、改めて壁に背を預けた。何かのお店が閉店して空き家になったようなところで、振り返ると肩越しに厚く埃の積もったカラのショーケースが見える。ショーケース越しに見える店内は薄暗く、人がいる気配が無かった。もしこの路地から犯人が出るか入るかしたとしても、この空き家から目撃者が出てくることは無いだろう。
 すぐ隣にある路地を横目で見やる。せいぜい入り口から数歩くらいのところしか見えない。けれどこの奥で、ペトルスが仕事をしているのは確かだった。真佳を大佐に任せて、すぐに中へ入ってしまっていったのだから。何の仕事をしているのかというと――
 多分。

「チンクウェッティ大佐」

 真佳が言う前に先に誰かがその名を呼んだ。振り返らなくともすぐに分かった――隣の路地からひょっこり顔を覗かせるペトルスと、ほんの一瞬目が合った。

「おお、お疲れさん。間違いないか」
「間違いないです。ぼくも祖父からちらっと書類を見せてもらっただけですけど……」
「おおよその見当でいいよ。今のところは。後でお前さんの祖父さんが来るから、そこで正式に決まるだろう」

 とチンクウェッティ大佐が気軽に言うと、途端ペトルスが少しむくれたように唇を尖らせた。そういうところはやっぱりまだ成人前の子どもっぽい。一体何が気に入らなかったのだろうと内心きょとんとしていると、

「……性格悪いですね」

 じっとりしたいじけた声でペトルスが言った。
 目を瞬かせる一瞬の間に大佐が呵呵と豪快に笑って、野次馬のざわめきをたった一瞬途切れさせた。

「そう言うなよ」(まだくつくつと笑いながら)「祖父さんが来るのにはまだ時間がかかるから、お前さんに一応でも見てもらえたのは結構ありがたかったんだぜ?」
「だからって祖父と比べるとは……」

 そうやって気むずかしげな顔でもごもごやって、それでも結局言葉は続けず諦めたような苛立たしげな溜息を吐いた。――空き家の角、真佳のすぐ傍にある角の壁にペトルスの右手が添えてあったのだが、溜息を吐く時に力が入り過ぎたのか、小指の爪先が灰白色の壁の欠片を削りとったのが目に入った。

「行きましょう」

 と多分真佳にそう言って、こちらの手を取りひどくあっさりと真佳を空き家からひっぺがした。会話の邪魔にならないようあれだけぴったりと空き家に背中を貼り付けて息を殺していたというのに、酷い会話の終わり方もあったもんだ。大佐が軽く肩を竦める。

「ミラーニさん、ちょっといいですか……」

 後ろでチンクウェッティの声がした。
 ……釣られるようにミラーニ女史に目をやると、どうやら彼女もその場を離れてこちらに来ようと画策していたらしいことがうかがい知れた。名残惜しそうにこちらに視線を送ってきてはいたけれど、この件の責任者に声をかけられてしまったら報道者として無視するわけにはいかないらしい。結局彼女は一度もこちらへは来なかった。

「……すみません」

 眼鏡のブリッジを押し上げながら――腕の動きでそうと分かった――前方斜め下辺りからペトルスの声が小さく言った。
 近くにいた一等兵が気を利かせて野次馬の群れから通路を確保し、どうにかそこから脱出しきった矢先のことだ。さっきペトルスが大佐や真佳に向かって口にしていたようなピリピリしたものは、もう言葉の端から消えていた。

「何で謝るのかよく分からないけど、よいよ」
「分からないのに許すんですか?」振り返ってペトルスが問う。
「分からないのに許すのです」

 わざと仰々しく頷いてみせたら、そこでようやく彼も小さく笑ってみせたようだった。
 繋いだままだった手をついと引かれた。きょとんと目を瞬かせる。

「早く離れましょう。大佐がミラーニ女史を引き止めておいてくれている間に」

 真佳にだけ聞こえる声量で呟いて、そうして歩きながら微かに後ろを振り向いた――。
 真佳も視軸を後ろへ投げる。外縁の、状況がよく分かっていなさそうな野次馬の好奇の視線とぶつかっただけで、そこにはミラーニ女史のねっちりとしたそれは無い。足を早めてペトルスの隣に並びながら、こちらもこっそりと声をかけた。

「やっぱり時間稼ぎなんだ、あれ」
「間違いないです。あのタイミングで呼びかけたのだから……。多分、それなりに一面を飾れそうな部分だけ提供して、こちらのことは忘れさせるか後回しにさせるつもりですよ」
「じゃあこの辺りでご飯食べてたらまずいかな?」
「いや……。大丈夫だと思います」

 そこで彼は一度唾を飲み下した。

「ぼくらを探す時間は無いでしょう。何せ彼女には、これから今回の騒ぎを新聞に書き上げるという作業がまだ残っているんですから」
「新聞記者さんも大変だねぇ」
「その“大変”に付け込みましょう――で、食べたいものは決まりましたか?」

 軽く肩を竦めて、濃緑色の瞳で見上げていたずらっぽくペトルスは言った。……実は全く店先なんて見ていなかったのだけど、じゃあ――。

「ペトルスがさっき言ってたの。二つ目のやついってみよー」
「“主、その仰せのとおり”」

 いつぞや言われたそのままを、今度は弾むような声音でもって贈られた。



五線譜上にて踊るノータ

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