お昼ごはんの時間を大幅に過ぎてしまったので、ここらで一旦休憩を入れて昼食を取ろうという話になった。ペトルスは真佳より先に起きていたのだから、当然もう済ましているのだと思っていたのだが。でも、別に真佳に気を遣って昼食を食べようと言い出したのでないことは確実だ。
 嫌われるのもまた一興かもしれませんよ――と呟いたペトルスの言の葉が、頭の中で反響するようにリフレインしていた。あの後どういうことかと何度か問うてみたのだが、失言でしたと言われるばかりで言葉の真意は分からずじまい。結局粘り負けしてやっぱり連れられた犬みたいにペトルスの少し後ろを海に向かって歩いていた。碧い海が近くなった。




横道のキープアウト



「カルツォーネ、アランチーニ、アクアパッツア、カポナータにキッキ鳥の甘ダレパニーノ、コトレッタ・アッラ・ミラネーゼなど」

 呪文のように唱えながら、飄々と肩を揺らめかすような歩き方でペトルスは南へ下っていた。キッキ鳥の甘ダレ云々言っているので多分料理の名前か何かだと思うのだが、この国の言葉が分からない真佳には全く何を言っているのか分からない。アートゥラの祖父を診療しているのを見ていたときだって、ペトルスが日本語で話すよう頼んでくれていなかったら話の断片すら聞き取れなかった。実際日本語で話してくれても診察内容はイマイチよく分からなかったけど。

「ま、大通りを歩きますんで気になる店があれば言ってくれたらいいです」

 真佳がよく分からない顔をしていたのを確認したのか、ひょいと肩を竦めてからそう言って、ひょいひょいした足取りで更に階段を下っていく。徐々に人波が増えてきた。ここからずっと南へ下れば市場だから、皆そこへ向かうか帰るかする途中なのだと思う。お昼どきを過ぎたら後は仕事とか夕ごはんの支度とか、兎に角やらなければいけないことは目一杯ある。この世界に地に足つけて住んでいる人には。

「前から思ってたんだけどさ」
「はい?」
 適当にそこらの店先を指さして、「あれ面白いね」

「あれ?」と真佳の言を復唱して怪訝げにペトルスが店先を覗きこんだ。さっきペトルスに探せと言われた食べ物屋さん。日本では世界でも珍しいらしい食品サンプルがあるけれど、スカッリアの食べ物屋さんにあるあれもそれに近いものがあると思う。三次元ではなくて飽くまであれは二次元だけど。
 写真、というのに近いと思う。ただその下には複雑怪奇な魔術式があって、そこから数センチくらい浮いたところにある四角いそれは、アニメや映画とかでよく見るホログラム的に透けていた。メニューのうちの幾つかの画像がそこに浮いているのだとすぐに分かった。時折動いているものもある。

「ああ、複製魔術の応用ですね」
「複製魔術?」初めて聞いた。
「これも人工魔術式ですよ」

 と前置きしておいて、階段の端に寄って一旦止まった。通行の邪魔になりそうだったので真佳もその隣に立ってペトルスを見下ろすことにする。一段分高いところに立っているのでいつもよりペトルスの頭が下にあった。ちょっと優越感。

「それ独自の魔術式に一定の記憶を保存させて、それと全く同じ魔術式を書き込み魔力を注入することで魔力が切れるまで記憶させた映像が浮かび上がるって寸法です。当然転移魔術と同じく魔術式は煩雑になりますが、魔術師ならば問題なく行えるでしょう」
「で、現に行えてるのだね」
Appunto(アプント)!」
「?」
「“その通り”」

 疑問符を浮かべていたら答えてくれた。この国に来てからよく聞く文字列だったわけだけれど、そういう意味だったのか。
 黒縁メガネのブリッジを、薬指の腹で押し上げてペトルスは大路に居並ぶ店舗に改めて目をやった。

「で、どうします? 気になる店は見つけましたか?」
「大通り沿い限定?」
「当たり前です、そんな油断はしませんよ。“しかして主は兎(ウ)の甘言に惑わされず”――地底に住まう悪魔にソウイル神が惑わされなかったようにね」と言って彼は肩を竦めた。
「ソウイル神って赤ちゃんだよね?」
「ええ、そうですよ。赤ん坊こそ叡智の塊であり揺らがない存在です――ちょっと待ってください、いくらなんでも人が多すぎる気がする」

 きょとんと目をしばたいた。がやがや言う人声が、いつの間にか更に大きく真佳の耳に入り込んでいた。飲食店の多いこの界隈でこんな時間にこんなに大勢の人が集まっているのは確かに不思議に思われた。何かあったのだろうか……?

「ちょっと見てきます」

 飲食店の外壁から背中を離してペトルスが言った。

「マナカさんはここで待っていてください」
「ウサギに甘言吐かれたら、多分惑わされてついてっちゃうと思う」

 今度は真佳が肩を竦めて口にすると、ペトルスがひどく苦そうな顔をした。にこりと笑む。真佳だってこの騒ぎがちょっとは気になっているのだ。それに、こんな場所で一人残されても心細いだけなのは事実だし。

「……分かりましたよ、付いてきて下さい。離れないように」

 苦虫を何千匹も噛み潰したような顔と声で不承不承そう告げた。
 ざわめく周囲の視線の先が、段々一点に集中し出してきているのに気がついた。飲食店と飲食店との狭間の狭い通路、そこに人だかりが出来ている。向こうから歩いてきた人が騒ぎに気付き、亀みたいに首を伸ばしながら引き寄せられるように野次馬の群れに加わった。密やかに交わされる声音が重なりあってざわざわしたささめきの塊となり、円の外縁に立った真佳の耳にはそれが強い攻撃的な固体か何かを想起した。
 ぎゅっ、と右手を握られた。

「離れないように。奥に進みます。人混みに押されないでくださいね」

 少しだけ目線の低い位置から覗き込むように囁かれた。秘密の作戦でも告げるような物言いで、そう言い終えたときには真佳の反応を見ることなく握った手を引っ張るように人波の渦中に放り込まれていた――ささめき声が強くなる。まるで不思議の国の洞窟を巡っているみたいだと真佳は思った。真佳らより身長の高いその群れは、どこまでも伸びる高い高い草の壁に似ていたから。男の人の汗臭い背中にぶつかって、女の人のふくよかな肩にぶつかった。子どもにはぶち当たらなかったように思う。子どもがいたら多分ここで溺死してしまっていたのではあるまいか。
 ドーナツ型に展開された野次馬の群れから顔を出したとき、「tuttavia――」という声が一際高く鳴り響いたのを真佳は聞いた。

「それが知る自由というものですから――知っていて? 五百年前にこちらにいらしたあたくしたちの敬愛する異世界人様の世界では、報道の自由という言葉があるのですって。あたくしたちにもそれを適用するべきではございません? ここにあることを、是非聞かせていただきたいのですけどねぇ」

 黄色を思い起こさせる甲高い声だった。でもそれと同時にねちっとしていて、それがどことなく慇懃無礼にすら思える女の声を更にマイナスの方向へ助長させている。口の両端にあるシワが、一際くっきり刻まれている女だった。満月みたいな正円をしている丸メガネを鼻の頭にちょこんと乗せて、灰色の目を相手に向けてにっこり細めて見せている。どことなく嫌味に感じる笑みだった。目と同じ灰色の髪は肩のところで上品にふんわり広がって、深みのある青いドレスとぴったりした調和を奏でている。

「ミラーニ女史ですよ」

 揶揄するような口調でペトルスが言った。
 さっきの女史の言葉を懇切丁寧に訳してみせて、それから彼は付け加えるように彼女のことをこう言った。

「いわゆる記者というやつです。女記者」
「記者? 新聞会社があるの?」
「ありますよ――そういえば教会ではあの新聞は取りませんからね。あなたが知らないのも無理からぬことです。教会新聞なら知っていますか」
「……えへ」

 あからさまに視線を逸らしたらペトルスのじっとりした視線が右頬に突き刺さってくる感覚に追い込まれた。語尾にハートマークでもくっつけそうなくらいかわいこぶったのに。それが駄目なのか。

「文字通り教会で作成している新聞です。広場の掲示板に貼り付けられているんですが見ませんでしたか? カッラ中佐は特に持ち帰って読んでいたんですが……ああ、見ていないでしょうね、大体読んでいるのは朝ですものね」溜息混じりに諦めたように言われた。
「なんだか馬鹿にされてるなぁ」
「事実馬鹿にしていますもの――話を元に戻しますよ」と言って眼鏡のブリッジを押し上げる。「その教会新聞とは別に、この街で配布されているのが民間新聞です――もっと仰々しい名前がつけられていますが、ぼくたちは皆民間新聞と読んでいます――教会新聞よりも世俗的で、教会新聞よりも信義に欠けて、教会新聞よりも低劣な――少なくとも、教会の人間はそう見ていると見てまず間違いは無いでしょう」
「実際のところは?」
「何とも言えません。教会新聞と比べて見てもおおむね事実を語っているのは間違いないですが、装飾過多でそれにいささか浪漫的です」

 読んでるんだ、ということにむしろびっくりした。教会側だからとかいう理由ではなく、真佳より年下の男の子が新聞を読んでいるという事態こそが驚きだったのだ。若しかして色々と年上として終わってる? いやでもここでは他に娯楽が無いから新聞の世界にそいつを見出しているのかもしれないしと苦し紛れに視線を逸らす。

「そんなことより重要なのは」

 と言ってペトルスは上唇を舌先で湿らせた。

「かのミラーノ女史がどうしてここにいるのかということです。ことによるとこの先には――」

 ペトルスが何事か言いかけようとしたとき、「ですから」という形式張った肉声が、それに覆いかぶさるように耳に届いた。硬く籠った軍人の声。ペトルスがすぐさま真佳の知る語で訳してくれた。さっきミラーノ女史に捕まって滔々とした説得を聞かされていた治安部隊員だ――。エラの張った日に焼けた顔で、実直そうな太い眉毛をきりっと釣り上げて厳格そうな声を出す。――肩章の方に目を滑らせた。一等兵。

「先ほど申しました以上のことはお話出来ません。教会が公式に掲示板に貼り出すものを待ってください」
「それでは最新版の新聞は作れないじゃありませんか――」

 と、ミラーノ女史はじれったそうに甘ったるく言ったらしい。ペトルスの即訳は頼りになるなあと人混みから顔を出しながら人事みたいに小さく思う。
 一等兵の屹立しているその箇所が、ミラーノ女史の視界から路地を隠すのに最も適した場所であることに気がついた。あの路地に何かあるんだろうか。

「“報道側には教会新聞が出る前に教会側から真実を語られる権利がある”――それに同意してくだすったのは、あなた方ではなくて?」
「その真実を語っていただくためです。現在調査中ですのでいい加減なことは申しかねます」
「すみません」

 と、訳した後にペトルスが日本語で叫びだしたので驚いた。一等兵がこっちを向いた。また面倒そうな野次馬がとその目は語っていたけれど、すぐさま黒い瞳の中に隠されて感情の色は見えなくなる。ミラーノ女史が隣からこっそりとこちらを見つめて――少しく驚いた、興味深げな顔でこちらを見たのに気がついた。
 一等兵はそこから一ミリも動くことなく、顔だけを向けて正確な日本語で一言。

「何ですか」
「医術士は足りているんですか?」

 一等兵は驚いたような顔をした。

「医術士の卵で良ければお手伝いさせていただきますが」
「いや、ああ……」

 一等兵の困惑したような呟きが微妙に掠れて地面に触れた。ペトルスの申し出はさぞびっくりしたものだったに違いない。真佳だって驚いている。医術士が必要な状況だとは誰も一度も言ってなどいなかったのに、直感で事を進ませてしまって、しかもこうして実際医術士が足りてなさそうな反応を引き出している。
 勘で動くなどと信じられんみたいな顔を前に港でしていたくせに自分はそうやって突っ走るんだからなあ、と思わず仏頂面。

「いい。いれてやれ」
「チ、チンクウェッティ大佐」

 一等兵が一歩引きかけた。それを片手を上げるだけで抑えやって、視線をついとペトルスの方へやる。話を聞いていたのかこちらもやっぱり日本語だ。

「ズッカリーニ医術士のお孫さんだろ。今彼はいないが、事を把握して報告してくれるなら手間が省ける」

 そう言ってチンクウェッティと呼ばれた男は頬を覆うもみあげを指の先で弄った。リーゼント――正確にはポンパドールと言うのだったか。かっちりセットされた金髪に、見ようによってはオレンジにも取れる茶色い瞳が覗いている。大佐と呼ばれるのも当然な、抜け目の無い男だと真佳は思った。

「ペトルス」

 一等兵や二等兵の脇を通り抜けようとしたペトルスの袖を引っ張って、真佳は懇願するようにペトルスを見た。連れてって欲しい。中で何が起こっているのか見てみたい。
「――ああ」とペトルスは明るい声音でそう言って、ぐいと真佳の肘の辺りを掴みやった――人混みから半身を引っこ抜かれながら、思ったより荒っぽいやり口に目を白黒させたその瞬間、

「大佐、この子、ぼくの仕事が終わるまでここで見ていてもらってもいいですか」

 ――思ってもなかったことを口にした!

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