じっと見つめる視線の刺突にぶち当たって数秒経って、結局真佳の方から視線を逸らした。ちらっと横目で盗み見てみる。まだ見つめられてた。宇宙を封じ込めた巨大な宝玉みたいな二つの目玉がずっとこっちを見つめている。
 ……視線を更に横にずらしたその先で、ペトルスの濃緑色の目とかち合った。ペトルスゥ……。声に出さずに視線だけで訴えてみる。ペトルスはそれを見て一、二度ぱちぱちと瞬いて、
 ぷはっ
 と真佳とは反対方向を向いて思う存分吹き出した。
 がんっ、とそれに衝撃を受けたのは真佳だけだった。



コズモ旅行



「くくく……いや、いや、違うんです、そこまで困るとは思ってなかったので……」

 とか言いつつも診療そっちのけで腹を抱えて笑っているのだから世話がない。遊んでいる。絶対に遊んでいる。殴っていいだろうか。でも子どもや老人の前で殴るというのはどうなんだろう。
 恥辱と殴りたい衝動と理性との間を右往左往しながら、正面の鏡に映った女の子の存在に一瞬ぎくりとした。体をくの字のして笑い揺れるペトルスの頭髪がちらちらと鏡の端に映り込んで、その正面に困惑に目をぱちくりされている患者さん。真佳と正面向かい合っていた女の子は二人の奥、患者さんの体に半分その身を隠しながら、きょとん顔でペトルスをまじまじと見つめている。引力がペトルスの方を捉えてくれてほんのちょっとだけほっとした。
 最初の診療場所というのはちんまりした平屋の一軒家だった。老人一人に男性一人、それに男性の娘さんに当たる女の子が一人――これがジャクウィント家の家族構成の全てである。
 然程大路から離れていないこの家は、この港町スッドマーレでは富裕層とは言えないまでもある程度平均的と言える一般層に分類される家庭で、他と同じく煉瓦と土の間の子みたいな壁にちょこんと乗っかるように煉瓦の屋根が葺いてある。
 ペトルスが呼ばれたのは、患者であるお爺さんの足腰が弱くて杖をついてもほとんど歩けないからという理由だった。ペトルスの言う通り、そういう人たちにとってこの立地条件は実に不便だ。最初は少し足腰が弱いだけだったのに、段差があることを気にして長いこと外に出ることを敬遠しているうちに歩けるものも全く歩けなくなってしまう。そういう人が結構数いると言う。
 真佳らが通されたのは玄関兼客間とそのお爺さんの部屋だけだが、家の建ち方的に多分もう一部屋くらいはあろう。一部屋一部屋は狭いけれど三人で暮らすには申し分ない家だった。
 ひーひーとひとしきり笑った後最後にくくっと喉を震わせて、「あー」とか何とか言いながらペトルスがついと身を起こした。

「面白かった」

 やっぱり面白がられていた。
 目に浮かんだ涙を眼鏡を若干浮かせて拭うという怠惰なことをやりながら、ふとペトルスが女の子の視線に気付いてにこりと笑う。

「マナカお姉さん。ぼくの友達です。怖くないですよ」

 すいっと宇宙の引力がこっちを向いた。ううっと思わずたじろぐ。子どもは嫌いでは無いけれど、どう接したら良いのか分からないのでどちらかというと苦手だ。特にこうしてまじまじと見つめられると何か悪いことをしただろうかとどぎまぎした気分にさせられる。

「……」

 一度ちらと視線を落とし、手にした黒い、耳のところがボロボロになったテディベアをぎゅっとして、

「……アートゥラ」
「……うん?」

 口の端だけに申し訳程度の愛想笑いを貼り付けたまま尋ねてみた。

「……アートゥラ・ジャクウィント」

 真っ向から少女の宇宙とぶつかった。……一拍遅れて、「あ」名前か。ということに思い至った。ブラックホールに吸い込まれるところだった。

「えと」

 と一言まず呟いて、

「……アートゥラちゃん」

 トゥ、という音が若干発音しにくくて、変な感じになってしまったかもしれなかった。それでもアートゥラちゃんはこくりと小首を横に傾けて、
 ――薄っすらと、にこりと笑った。
 少しぎこちない感じの、故に可愛らしい笑みだった。

■ □ ■


「意外だった」

「何がですか?」

 まだ目と喉の奥とに笑いの色をこしらえながら、ペトルスが覗きこむように質問した。南の中天を過ぎた太陽光がペトルスの双眸を照射して、まるで内側から照らされているみたいに二対の苔藻を印象深く煌めかせた。

「子ども。得意なんだね」

 素直に言うと、

「……子どもに得意も苦手もあるんですか?」

 呆れたような胡乱げな顔で肩を竦められてしまった。そういえば今まで出会ったこの国の人たちは皆陽気で屈託ない人たちばかりだった。いやでもあれが一般的なわけは無いと思うが。と、信じたい。

「私は苦手なんだよ。子どもとお話するのは」
「ご自分もお子様だからですか?」
「……年下のキミに言われたくない」

 くつくつと目の奥で笑うペトルスに半眼のじっとりした目線で突っ込んだ。
 すっと後ろで扉の開く気配がして振り返ると、淡い墨色のふわふわした頭がそっとこっちを覗いていた。ばいばい、と口の形をそう変えて、小さな右手で小さく手を振る。ちょっとびっくりした。見送りに来てくれるとは思わなかった。アートゥラの後ろで頬のこけた父親が、軽く会釈をしてくれた。
 屈託ない笑顔で応じるペトルスと違って、真佳の方は何とか愛想笑いを浮かべるので精一杯。手を振り返して後はくるりと踵を返して先に枝道を行ってしまうペトルスに、慌てて追い付きながら真佳は言った。

「ほら、そういうの」
「どういうのです?」
「笑顔。自然な笑顔を私は作ることが出来ない」
「子ども相手だけでは無いでしょう」
「……いつから気付いてた?」
「しょっぱなから。口数が少なくなったと思ってました。その調子だと随分ぼくには慣れられたようですが」

 思わず苦い顔をしてそっぽを向いた。人見知り。隠せていると思っていたのに。
 コンクリートとも土とも違う不思議な感触の道を踏みしめながら、途中途中にある白灰色の階段にぶつかる度に下り歩いた。ペトルスが大路を目指していることは明らかだった。いくら分かりやすい一本道とは言えその足取りに迷いはなく、幾度目かの階段に辟易した風もない。きっと彼にとってそれらはすっかり慣れてしまったものなのだ。

「……まだ慣れられていないよ。やっぱりペトルスやマクシミリアヌスの前でだるーっとしたところは見せられないもの」
「それは慣れているのではなくて怠けていると言うんです」

 きょとんと目を瞬いた。若干一瞬考えて、
 ……ふうん? と尻上がりの息を吐いた。

「じゃあ、私はキミに慣れている」
「動物か何かのことを言っているように聞こえますね」

 ペトルスの小さな肩がおどけたように竦められるのを後ろから朗らかな気持ちで一瞬見送ってしまってから、「――じゃなくてだね!」足早に歩いて相手の肘をぐいと引いた。一瞬相手の片足が宙を搔いて、一拍遅れて枝道の路面に縫い付けられた。

「子ども好きなの?」
「はあ?」

 素っ頓狂な声で聞き返された。

「フツーに話してたからさあ……。何であんなぽんぽん会話のネタ出てくるの? 魔法? ずるい」
「どちらかというと魔術で――いえ、そもそもそんな魔術は無いですけど」

 がま口の鞄を持ちながら、掴まれてない方の手で黒縁眼鏡を押し上げる。何を言い出すんだとでも言いたそうな顔だった。陽気で屈託ない人たちばかりが集う国。お喋り上手で誰かと接することに気後れを感じない国民性。
 それが真実であるのなら、少し困るなと真佳は思った。そうだとしたら真佳のこの性格は、この国では異世界人特有のものになってしまう。異世界人でなくなりたいわけではないが、全てを異世界人だからで片付けられるのは嫌だった。絶滅危惧種だって子どもと気軽にお話することは出来るはずだ。

「つまり」

 と、ペトルスが掴まれた腕はそのままに再び歩き出したので、真佳も慌てて足を動かした。でも掴んだ肘は離さなかった。

「アートゥラと仲良くなりたいんですね?」

 きょとんと思わず返事に詰まった。
 それは考えてもいなかった結末だった。思考回廊の出口を示した地図だった。

「……仲良くなりたい、ということですよね?」

 呆れたような声音でダメ押し。連れられた犬みたいに(と言うとリードは真佳自身の腕ということになるのだけど)一歩後ろを歩きながら、一瞬ついと視線を流した。土とも煉瓦とも言えない建築物が真佳の視線を流れて行った。

「……うん」

 一拍遅れて頷いた。多分ペトルスの言う通りなのだと思う。そう思いだしたら一気に視界が開けた気がした。視界を覆っていた靄が一挙に眼中から消えた気がした。名前を呼んだときの、花が咲くような瞬間的なアートゥラの笑顔を思い出す。もっと仲良くなれたらもっと屈託なく笑ってくれるんだろうかと思った。それはさぞかし可愛かろうと思った。でも――多分それだけじゃない。

「アートゥラというか、出来れば皆」
「皆?」
 頷いた。「皆。ペトルスとかマクシミリアヌスとか――に、なるのかな。出会った人たち皆」
「中々贅沢なお願いですね」

 言いながらまた黒縁眼鏡を中指の腹で押し上げた。がま口鞄がそれで揺れた。ハーフパンツから伸びた白い足が――それでも男らしい筋肉を淡くはっつけた白い足が、灰白色の通路を怠惰に仄かに踏んでいく。肘のところまで捲し上げたワイシャツにハーフパンツ。そういえば、明確に意識したことは無かったけれど真佳とペトルスの服装はサスペンダーさえ除けばおんなじだ。

「……皆と仲良くするにはどうすればいいだろう」
「そんなこと、ぼくが知りませんよ」
「私も皆には好かれたことが無いから分からない」
「えっ」
「えっ」

 ……ペトルスが眼鏡のブリッジを押し上げた。

「じゃあどうして皆と仲良くしたいなんて言い出したんですか」
「皆に好かれたいとゆーのはほとんどの人類が抱いている共通のお願いごとだと思うのね?」
「ぼくはそうは思いません」

 しかつめらしい顔で言ったら一刀両断されてしまった。まあ全員に好かれたら全員に好かれたでそれは確かにちょっと面倒臭いかもしれないけれど。

「嫌われるよりはよいよ」
「嫌われていたんですか?」

 ちょっと言葉に詰まった。

「……うーーん、うん。そうかもしれない」
「曖昧ですね」

 正しく言う通りの曖昧な笑みを浮かべて場を繋いだ。嫌われていた、と言われればそうなんだろう。元の世界にいた過去の人たちは、その原因が真佳の容姿であったとしてもそれでもやっぱり秋風真佳を嫌っていた。
 容姿がまずズレのようなものを産んで、それが結局修復されないまま、修復可能な期間を大幅に超越した結果が……あれだったのではないかと思う。ベルンハルドゥスやトゥッリオだってそう――ズレに気付いて修復を怠らなければ、……ああいう結末にはならなかったかもしれない。
 だから仲良くしたいのかもしれないし、だから好かれたいのかもしれなかった。もうああいう結末にはならないように。でもそれが正解だという自信は無い。正解な気もしたし不正解なような気もした。自分のことなのにそれはよく分からなかった。ただ純粋に、好きになったから好かれたいだけかもしれないし、皆で仲良く色んな話をしたいだけかもしれない。不仲の渦中に放り込まれるのはあまりに辛いから。

「……嫌われるのも」

 淡く色づいた唇でペトルスが言った。

「また一興かもしれませんよ」

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