朝起きるとペトルスが何やら黒い鞄を持って、玄関へ続く道を歩いて行くところだった。いつも肩から提げているのとはまた別の手提げ鞄で、がま口になったそれは医者が持つようなそれに近いみたいだと秋風真佳は直感した。

「ペトルス、どこ行くの?」

 寝起きの舌っ足らずな声で呼び止めると、ペトルスは一瞬びっくりしたみたいに振り返って、

「……ちょっと訪問診療に」

 目をぱちくりさせてから、予感的中、予想通りのことを口にした。



レッドリストの王さま



「面白いことでもありませんよ? 以前にもお話したようにぼくは医術士の卵ですから、そう煩雑な診察もしませんし」


 空いた方の手で黒縁眼鏡のブリッジを押し上げながら言い訳がましくそう言って、ペトルスは軽く片肩を竦めて見せた。淡い桃色をした癖っ毛が肩の大分高いところで小さく跳ねた。苔藻みたいな深緑色の双眸には、明らかな戸惑いの色が微かな霞となってたゆたっている。
 先に行きたがるペトルスを何とか強引に押し留めて、用意が済むまで宿舎のところで待っていてもらって付いてきたのだ。用意と言っても外出着に着替えて顔を洗って歯を磨いて、髪の“ハネ”にちゃちゃっと水を引っ掛けただけの簡単なものだ。途中さくらに会わなかったのは僥倖だった。もしもそこで会っていたら、色々苦言を呈されて付いてこれなかったに違いない。
 天然もののウェーブをこさえた長い黒髪を抑えるように引っ張りながら、真佳はうんと頷いた。

「それでも。どんなものか見てみたかったんだもん。毎回こうやって、その、訪問診療とゆーのに行くの?」

 確か時計を見たときは昼を少し回っていた時刻だっけ。しばらくここに滞在することになってから、真佳の起床時間はすっかり健康的なそれとはかけ離れたものになっている。それでもペトルスがあの港での事件の後、こうやって出かけている素振りを見せたのは初めてだったので気になった。
 中指の腹でもう一度ブリッジを押し上げながら、緩やかに傾斜した向こう側を見ながらペトルスは言った。

「普段は。こうしてマナカさんたちの護衛を引き受けてからは免除される予定だったんですけどね。予想外に仕事が伸びてしまったので、こうして馳せ参じることにしたというわけです」
「……それって私のせい?」

 頬を引きつらせて尋ねてみた。
 ペトルスは一瞬こっちに目をやって、

「……いえ、どちらかというと、ぼくら二人のせいですね」

 頬を掻きながら微苦笑気味にちょっと微笑った。
 下る道の向こう側、町の境界線を突っ切って、そこに碧い海が広く広大に横たわっている――。曖昧な地平線に分かたれた空には海鳥が白い翼を閃かせ、太陽の日差しを目一杯受けた海面に小さな影を落としているのが瞼の裏にも思い描けるようだった。この町の海、とりわけ日に当たった明るい海は初めてこの町に来た翌日、ペトルスに連れられて見させてもらったあの時以外には間近で見る機会すらも与えられていなかったが、それでも真佳の視界の先にはそんな真夏日の光景が、しっかりと目に焼き付いていたのである。滞在延長のそもそもの原因となったあの事件から三日、ここぞとばかりに怠惰の限りを尽くしてきたがそろそろまた見に降りて行くのもいいかもしれない。
 ま、それより先にペトルスの仕事を拝む方を優先させたわけなのだけど。

「訪問診療って何するの?」

 眩しい大海から真横のペトルスへ視線を振り向けて、尋ねてみた。

「おお、特別なことはしませんよ。診療や治療、薬の処方等、まあそういったことをするだけで」
「患者さんの家でも治療するんだ」
「簡単なものだけですけどね」と言ってくすくす笑う。「定期的に診療を受けるのが望ましいけれど、都合上病院にまで行けない人がいる場合に、こうしてぼくが駆り出されるってわけです」
「病院……」
「そう大きなところでもありませんよ。家を一軒借り切ってやってるだけの小さな町医療所です……。場所柄もっと大きな医療施設があっても、いいと思うんですがね」
「無いんだ」

 ちょっと意外だった。
 そういえば、この町のてっぺんに当たる宿泊施設のある教会の敷地から見下ろしてみてもそれらしい建物は無かったように思う。真佳の言う病院とペトルスの言う病院にそう差異が無いのであれば、確かにここらには大きな病院は無いのだろう。

「そういうのは大抵教会が請け負いますから。そもそも教会の管轄ですしね」
「……そういえばペトルスも教会の人だったね」

 どういった経緯で真佳らの護衛につくことに決まったのかを思い出して声を漏らした。そんな感じがさっぱりしないから忘れていた。ペトルスが医術士として教会の治安部隊側に属するのであれば、無論医術士も教会側に属するわけだ。
「おお、忘れていただいても構いませんよ?」おどけるようにそう言って、彼は隣で肩を竦めた。

「何で教会でしないの?」
「診療をですか?」
「うん。あのー……病院とか持たなくても、教会でやればそれで事足りそう。入院しても教会に入れられるんでしょ?」
「そうですね。まあでも――」

 と、そこでふと視線を前方へやって太陽光を反射する海原に当てられたように濃緑色の目を細めた。黒縁眼鏡の奥に宿る一対の瞳は、あの海の底に沈んでみたらそういう色をしているんだろうなと思わせるような色をしている。

「――ここは広いですから。その上階段が多くて更に教会はその最上階ときている。上り降りは老人や病人には苦痛でしょう?」
「あー」
「教会で全てを請け負うよりも、そういった理由から小さくても医療施設が他にあった方がいいんですよ」

 そこでペトルスは溜息を吐いた。複雑なそれぞれの事情というものがあるのだろうなあと漠然と思う。彼らのそういう事情について、真佳は詳しく話を聞いたことは無かった。この世界の人間の生活習慣については積極的に尋ねるが、政治とか教会とかについてのことはよくしらない。多分知っても詮なきことだろうと思うし、理解出来ないと思うから。彼らがそれをそれとして認めてそれで世界が回っているのなら、別にそれでいいような気もした。
 大通りを外れて脇道へ逸れた。
 脇道と言っても二人並んで通るには申し分のない通りで、多分ここはまだ樹幹から伸びる枝葉の中でも広い部類に入るのではないかと思う。そこから伸びる枝道はもっと狭くて複雑そうだった。多分だけれど、ペトルスはわざわざ遠回りをして訪問診療の目的地に向かっている。

「本当はあなたがいるので本道から外れない方がいいんですが」

 噛んで含めるような言い方でペトルスが言った。

「迷うから?」
「それもありますし、脇道辺りは本道ほど安全でありませんからね。連続殺人鬼の話は、初めて会った日にしていたでしょう?」
「ああ、うん――」

 無差別に人を殴殺しているという話だ。
 確か教会がその対応に忙しくて、それでペトルスが遣わされたという流れだった。あれから五日が経っているが、くだんの犯人はまだ捕まっていない。

「本道にいれば必ずしも安全というわけでは無いですが、脇道よりはマシのはずです。いくらあなたが強くても、」
「いやそんな言うほど強くは無いよ」
「……謙遜ということにしておくとして。兎も角、いくら強くても脇道へ逸れるのは明達じゃ無いですよ。一人でこんなところに出歩かないようにしてください」
「だから回り道してるの?」

 ペトルスが驚いたように目を瞬いた。

「気付いてたんですか」
「勘。これから右に曲がったら、その勘が確信になるところだった」
「せめて右に曲がった後で言ってくれれば……」

 言ってペトルスは中指の腹で眼鏡のブリッジを押し上げた。大通りから右に逸れたのだからまた右に曲がったら、方向的にはきた道を戻ることになる。それは明白なことだから、そうなってから口にしたらきっとペトルスはそう驚かなかったんだろう。じゃあやっぱり今口にして良かった。と、悪戯心から思ってみたり。

「ペトルスがいるから脇道通っても大丈夫なのに」

 両腕を後ろに回して手を組んだ。ペトルスがダメ押しとばかりにもう一度ブリッジを押し上げる。

「駄目ですって。道を覚えられたら困るので」
「信用されてないなあ」
「あの雨の中、大男に突っ込んでいった人間が言っても説得力無いですよ」肩を竦めて茶化すように言う。
「私から突っ込んでったんじゃないもん。あの人が殺そうとしてきたんだもん」
「それでも他に手はあったはずだ。確かにあなたは強いです。ぼく個人としても護衛など必要無いと感じるほどに」

 ぱっと視線を閃かせた。……ペトルスが何やら苦い顔で釘を刺すようにこちらを見上げていた。そうくるだろうと思っていたとでも言いたげな目つきでもって。

「――それでも自分が教会の護衛対象なのだということを、もっと肝に銘じてください」

 唇を尖らせた。解せない。
 そこに戦力があるのなら、例え護衛対象でも使うのが効率的なことなのに。確かに真佳は一部の人間ほどには強くないと自覚しているが、それでも十分な戦力になれる自負はある。だからこそ護られるだけという待遇は性に合わなかった。昔も今もそれは変わらない。
 ペトルスが小さく肩を竦めた。

「膨れないでくださいよ。それが護られる側の勤めでしょう?」

 飽いたようにそう言われると何も反論は出来ない気がした――そういった反論を許さない断言だった。彼らにとっての異世界人は、きっと絶滅危惧種のようなものなのだ。護らなければ処置無くいずれ尽き果てる存在。護る必要のある存在。それがどんなに自然界の王として君臨していようとも。

「ほら、着きましたよ。ここが最初の診療場所です」

 細い枝道を右に曲がり、くねくねした道を道なりに進んだその先で、ペトルス・ズッカリーニはそう告げた。

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