「サクラさんですか?」

 カッラ中佐が通信魔術式を扱えるはずが無いので開口一番こう言うと、『……ペトルス?』絹のこすれるような耳にこそばゆいサクラの声に被さって、『おお! 合流出来たか!』カッラ中佐の野太く粗野な声がした。雨のフルッショ(ノイズ)がまだ頑固に鼓膜の表面を叩いている。幾分雨は弱まったような気はするが、それでも十分大雨と言うに差支えのない雨量であった。尤も、これだけの大雨が数時間ほど続くのはスッドマーレではそう珍しいことではなかったが。こうして木箱に身を隠して、飛沫の音に度々意識を持って行かれながら雨に打たれ通信魔術式を握りしめてさえいなければ。

『真佳は?』

 多分元来の直感でもって魔術式の向こうに在る彼女は聞いた。この魔術式は元々マナカのものであったし、ペトルスが真っ先に声をあげたことで疑念を覚えられて当然だ。
 ……ちらりと、意識せぬままにペトルス・ズッカリーニは背後にある木箱の向こうに目をやった。ばしゃんとこれまた派手な飛沫が上がる。襲いかかった二人の悪漢から同時に放たれた拳をいなし、うち一方の――多分力の向きを――若干下方へスポスターレ(シフト)。腹部に添えられた手を押し上げ、大の男を三六〇度回転させて背中から(未だ増大中の)水たまりの中へ叩きつけていたところだった。間髪入れずやってきたもう一人はというと、突っ込んできたところを下段の蹴りで迎え入れ、相手が呻き怯んだところに側頭部に上段回し蹴りを叩き込んだ――また派手な波頭が一つ。

「……戦ってます」

 頬を引き攣らせながらそう報告するしか無かった。『はぁ!?』予想通りの反応が魔術式の向こうから魔力を伝って飛んできた。ちくちくしてきた米噛みに人差し指を押し付けて(本当に誰だよあれに護衛をつけろとか言い出したの)、半ば自棄になりつつもペトルスは改めて言葉の羅列を舌に乗せる。

「だから、戦っているんです。密輸現場を目撃したと思ったら密輸業者に見つかって。今彼女が戦っていますが――」
『貴様はマナカの護衛だろうが! くっちゃべっとる場合か!』
「……それ、ぼくが行く意味あります?」

 というのがペトルスの本音である。カッラ中佐の怒りは尤もだが、あれを見せつけられた後では最早彼女を護って戦う意義は見当たらない。彼女なら一人で密輸業者を壊滅させることも出来そうな気がするし。
 けれどもまあ、当然ながらそれがカッラ中佐の怒りに油を注いだ。

『貴様、何のために遣わされたと――!』
「兎も角!」

 強引に男の怒号を遮った。

「早く応援に来ていただけませんかね? 中佐の感触では眷属が動いたんでしょう? あの中に第一級魔術師がいるのなら、ぼくがいたところで流石にちょっときついです」

 まだまだ言いたいことはありそうだったが、とりあえずそれでカッラ中佐が言葉の塊を呑み込んだのが気配で分かった。後で怒られるだろうなあと考える。

『どこ?』

 サクラの静かな声がした。

「港です。大路を真っ直ぐ南に下ったところです」
『了解』
『っ、貴様ッ、万が一にも彼女を死なせたら容赦は――』

 魔術式向こうの雑音が途切れた。カッラ中佐の話してる途中で通信を切るとは、あっちはあっちでいい度胸しているなあとペトルスは淡く息を吐き――

「おい小僧!」

 言葉と共に飛んできた拳を右に避け、そのまま左膝頭でもって

「――ッ!!」

 無防備になった相手の股間を蹴りあげた。
 ……一拍遅れて、今度は自分のすぐ近くで水の跳ねる音がした。通信魔術式をタスカ(ポケット)に仕舞う。一命を取り留めた木箱の向こうに視線を投げた。魔術光は見えていない。流石に魔道具を強化・或いは作成してくれるようなマギスクリーバーの知り合いは彼らにはいないらしかった。それが目的でスクリーバーを高額で抱え込んでいるのだからそうほいほい所持者がいたら困るのだが。我ながら気怠い感じで目を細める。
 ……まあじゃあ、補助くらいはしときましょうか。
 別のタスカ(ポケット)から取り出した魔術式を扇型に広げ持ち、薬指の腹でもってポンティチェッロ(ブリッジ)を押し上げた。



樹枝状モルテ



 突っ込んできた相手を避けざまに、腹に懇親の膝蹴りを叩き込んだ。うめき声。水たまりが弾ける音。
 靴のつま先で硬い地面を軽く叩く。ワイシャツが肌に張り付く感触にも、靴の中で雨水が泳ぐのにも随分慣れてきた。たださくらにやってもらった髪型が崩れないか、それだけが気がかりだった。

「応援に来ると思っていたよ」

 話の矛先を向けると、彼は特に態度を変えず、ただ静かに微笑むように両肩をひょいと持ち上げた。日本語で話すことを不審に思った風も無かった。まあ、確かに以前、日本語しか話さない民族は存在するとマクシミリアヌスに教えてもらってはいたけれど。

「オレは誰かに邪魔をされるのが嫌いでね。そいつらがいると満足に戦えもしないから、潰せるようなら先にアンタに潰してもらっていただけだ。それでアンタの方が先にくたばっちまっても、オレとしては大して気にするほどのことでもないしな」

 そう言って隻眼の金目で薄く微笑った。真っ黒な眼帯に、雨に濡れたぼさぼさの黒髪、無精髭。耳と下唇の辺りにあるピアスが銀色に煌めいているのが見えた。ベストは用いず、袖を捲し上げたワイシャツの胸元は大きくはだけて雨に濡れた胸筋が近くの街灯に照らされてぬめっている。マクシミリアヌスほどではないが身長は高くガタイも良い。多分この人が、マクシミリアヌスの感じ取った眷属の主なのだと思う。これまで第一級魔力保持者らしき者はいなかったし、何となくそんな予感はしていた。
 右足を緩く後ろに後退させる。

「大体吹っ飛んでしまわれて、後はキミだけになったわけだけど」
「ああ――そういやアンタは何だ? 治安部隊員か?」
「ただの通りすがりのいっぱ――」

 んじん、と答えかけた言葉をすんでのところで引っ込めた。振り向きざま(ホルスター)から抜いた大クナイを逆手に構え、大きく開いた口腔を一直線に薙いだ――薙いだだけだ。淡く掠っただけで手応えは少しも無かった。ぱしゃんとずっと後ろの方で水音がした。

「はっは、やるねえ!」
「っ!」

 間髪入れずに首裏にちりっとした危機予感。こちらに飛び込んできた眷属のすぐ脇を、咄嗟に選んで飛び込みその場そのものから距離を取ったが、

「――!!」

 取りきれなかった。反射的に身をかばうように付き出した腕と足との表面を、一瞬何かが通り抜ける感覚――強い熱の感触がした。「ぅ……」炎症。火傷したのだとすぐに分かった。赤くなった前腕に冷たい雨雫が伝って少しひりひりした。
 咄嗟に出した下腕と足とが直線上を描き出したのだ。おかげで“それ”は体内を通過することなく表面だけを通って地面に逃れて行った。……でも可笑しい。雨にずぶ濡れのこの状態で、“あれ”が地面に逃れ得るものだろうか……?
 顔を上げる。
 黄金色に輝く獣がそこにいた。
 多分獅子だと思われる動物だった。形態はマクシミリアヌスの眷属と似ているが、要素が違う。マクシミリアヌスは炎だけれどこいつは――
 雷。
 獣から放出された雷光がばちりばちりと断続的に鳴っていた。降り注ぐ雨水の不可思議な反射にそれは神々しく照らされて、後からやってきた魔術師のこけた頬にも深い陰影を刻み付ける。その足はしかと濡れた地面を踏みしめていたが、やっぱりここまで感電の影響が這い寄ってくることは無かった。

「おいお前」

 と隻眼の男がのたまった。

「仲間がいるだろう。どこだ」
「……」意識だけをちらりとペトルスの方に向けてから、「――さあ。何のことだか分からないけれど」

 チッと男が舌を打った。
 口端を過ぎた雨水ごと唇を舐める。どこにいるのか分からないのか……。もうとっくにバレているものだと思っていた。これは非常に僥倖だ。

「まあいいや。いずれそいつも見つかるだろう――」言って濡れた頭髪をかき回し、片方の口端を持ち上げてニヒルに笑った。「それよりアンタ、よく避けたなあ、いや、お見事お見事。あれをアンタに避けられるとは思ってなかったぜ?」
「……私も、話の途中でやられるとは思っていなかったよ」

 硬い声で呟いた。さっきから腕と足とかヒリヒリした痛みを訴え続けている。軽い火傷だろうとは思うが、どちらにしろ悠長に構えている場合ではなかった。雨天に雷の術者など、史上最悪の組み合わせだ。

「おいおい……」

 と男は短く口にした。雨に濡れて男の骨ばった頬にへばりつく髪を、無造作な感じでかき上げる。

「これは遊びじゃねぇんだぜ? 分かるかなぁ、戦場ではいつだって、油断した方が負けるんだよ。お喋り中は攻撃しないなんてルールはねぇ。敵に遠慮するなんて親切心もねぇ」ぽつりぽつりと呟かれる語調は、男が「へっ」と鼻で笑った瞬間にがらりと変わった。「――まあアンタが今ここで息してるってことはだ。さっきの段階では油断はしていなかった、そういうことだ。名誉なことじゃねぇか。誇っていいぜ。オレが許す」
「そりゃどーも」

 薄く微笑った。笑ってみせた。脂汗が頬を伝う。腕と足とがびりびりした感触をじくじくと訴え続けていた。痛い、が、それに構っていられる時間は無い。痛覚をその場でシカトした。
 構える。大クナイを持ったその手を前にして。構えたクナイの向こう側で、ぴゅうと男が口笛を鳴らした。

「逃げ出さねぇとはいい度胸していやがる。女の癖にやるなあ。容姿に違わぬ肝魂だ。それに免じて、」

 男の足元で光がうねった。正確に描き出された魔術式に眷属の背に刻まれた同一の魔術式が呼応する――魔力を注入しているのだ。
 目を細める。そう、マクシミリアヌスが感じた通り、宿舎を出たときから眷属を外に出していたのだとしたら、その時から相手が全力の魔力を眷属に込めているわけがないのだ。その時彼らの前に立ちふさがる敵は一人もいやしなかったのだから。
 術式に照らされる中心点にて、男が獰猛に歯をむいて――
 笑った。

「こっちも全力で殺してやるよ!!」

 駆けた。眷属が。本来目にする機会も無いはずの雷獣が、バチバチと空気を叩きながらこちらに向かって駆けてきた。後ろの男に視線を流す。開かれた瞳孔で歪に狂乱に笑いながら、そいつはこちらを注視していた。息を吐く。その男が言う通りこれは遊びなどではない。だから多分、これからあいつが攻撃をしかけてこない道はあり得ない。
 クナイの柄を、強く握りしめた。
 思い出す。さっき眷属をクナイの刃先で掠めたとき、手のひらにちりっとした感触すら走らなかった。これの製作者に材料の指定はしていなかったから、何で出来ているのかは知らないが、これだけは言える。こいつは眷属の能力に影響を受けない。ならば。
 ばしゃんと足元で水音がした。蹴って踏みしめた真水が地べたで暴れ、露出した膝小僧に雫が跳ねる。空気を弾く攻撃的な音色――それはもう、さっきほど離れた場所にはいなかった。雨音に慣れた鼓膜を強い刺激音が断続的に叩く。叩く。雨を突っ切り走りながら、雨雫に視界を攻撃されながら、それでも迫る眷属の鼻っ面に意識を集中させていた。クナイの切っ先を一旦引いて――

「マナカさん!」

 背後で男の声がしたのに気がついた。視界の端。隻眼の男が右手を上げる。表情は見えない。でも哂っているに違いないという確信があった。バチバチという音は一層強く鼓膜を叩き、獣の息遣いは猛スピードで近づいた。駆けた足を中途で止めることが出来ぬまま、男の右手がこちら目掛けて振り下ろされ――
 そして、
 ――ばちん!
 ……という音が、鳴って弾けた。

「っ!?」

 息を呑んだ。何が起こったのか把握することが出来ないまま、立ちすくんでしまいそうになりながら、それでも何とか駆ける足を止めずに飛沫を上げていられるのは、獣の荒い吐息が嗅覚に触れたからだ。既に目と鼻のさきにあった獣の鼻先を、かき集めた意識の中心に据えもって、

「っ、りゃ!」

 気合一閃。突っ込んできた眷属の開かれた口腔の口端に(・・・・・・・・・・)クナイの切っ先を引っ掛けて、そのまま駆ける速度を落とすことなく刃先を――薙いだ。
 甲高い獣の悲鳴がした。雨水が頬を伝い落ちる。空気の塊を短く吐いた。立ち止まる。獣は慣性の法則に則ったのち――大きな水頭を上げてどうと倒れた。らしかった。背後で音を聞いただけだ。でも間違いないのは事実だった。
 死んでいない――。荒くなった息を整える。眷属は死んではいないだろう。が、通常の生物で言うところの心臓辺りまで切り裂いたのだ。随分魔力を削られたのでは無いかと思う。獣のか細く荒い息遣いが、雨音に混じって鼓膜を微かに刺激する。
 ……クナイを握った手を見下ろした。
 雷を斬った感覚は無かった。以前鉄の獣と一戦交えた時などは、鉄の塊をしかと“殴った”感触があったのに――今はどちらかというと、魔力そのものを裂いた感触に近い。勉強したことを思い出した。これは多分、眷属が魔力の塊だからなのだろう。鉄や雷と同じ特性を持ちながら、しかし眷属の主成分はどうしたって魔力なのだ。以前真佳に魔術について教えてくれた師が言った、“魔力で具現化されたもの”と“眷属”との違いをまた新たに理解するとは思わなかった。
 目を上げる。
 可笑しいことが一つあった。

「てめぇ……!」

 男の指した二人称の行く末が真佳ではないことはすぐに知れた。右目の睥睨が真佳の方を素通りしてその後ろに向けられているのは一目瞭然だった。
 視線を巡らせた、その先に

「…………わあ」

 頬を引き攣らせて棒読みの感嘆詞を一つ。見慣れないものを見つけてしまった。
 港に広い間隔を開けて設置された街灯の一つに、歪なツノが生えていた。真っ直ぐ突き立てられた柱の先に。取ってつけたみたいに微妙に斜めった格好で。多分今この周辺で、一番背が高いのはツノの生えたこいつだろう。魔力の力で具現化されていた光の塊が、割れたガラスの中でまだ明々と照っている。
 背後の方向に視線を向けた。木箱の影に隠れるように、ぴょいと引っ込められたペトルスの桃色の頭が微かに見えた。
 避雷針――。弾けるような音がしたあの瞬間、ペトルスが作り上げてくれていたのが多分恐らくこれだった。本来ならば真佳の方へ落ちるはずだった落雷が、近くにあった避雷針に吸い寄せられて吸収されて地面に逃げた。街灯の先端とツノとの接合点に、魔術式が描かれていたらしき魔具が挟み込まれているのだから間違いない。あんな街灯の先っぽに一体どうやって魔術式を持ち上げたのやら……。まあいい。ここで考えるべき話では無い。クナイの切っ先を真っ直ぐ男の方に向けて、真佳は口角を持ち上げた。

これは遊びじゃない(・・・・・・・・・)んでしょ?」

 男の隻眼がこっちを向いた。開かれた瞳孔で、微笑う真佳を射るように睥睨して多分奥歯を噛み締めて――何をするかと思ったら、やっぱりいきなり鼻で笑ってそこからがらりと態度を変えた。水気を随分含んだ髪を骨ばった手がかき回す。喉の奥でくっくと笑う声がした。

「ああ、そうさ。そうだな、遊びじゃねぇ。これは戦だ。戦場だ――」

 視界の端、四肢を小さく震わせて、雷の獅子が起き上がろうとしているのが真佳に見えた。……ゆっくりと眷属から距離を取る。密輸業者の男に意識の半分を送りながら、数歩だけ進んだところでつま先の方向を男に転換。

「それを理解してるってこたぁ!! どういう方法で殺されたって文句言うなよ小娘!!」

 跳んできた眷属の横っ面を、立てた肘で殴り飛ばした。ちりっと一瞬腕の表面を何かが掠った気がした。でもそれだけ。案の定雷に焼かれる感触は感じなかった。男がチッと舌を打つ。その方角目掛けて、飛沫を立てて地を蹴った。前を向く。男の左右に控えるように、曇り空に光った稲妻はぴったり二本。一本はペトルスが作り上げた避雷針に吸収されるが、もう一方は街灯から離れすぎているため回避は不能。けれどもそんなことは関係が無かった。理解していた。それら二つはただ真佳の逃げ道を塞ぐための保険であり、本命は――
 頭上。
 男の唇が歓喜に歪んだ。
 刹那。
 ――ガシャンッ!
 という音がした。空気の摩擦が放つ音。空間が雷光によって切り裂かれる音。ばしゃっと水頭が上がった音をどこかで聞いた。
 ……目を瞑っているだけで、雨のノイズに邪魔されて距離感が少し掴みにくい。折った膝を伸ばして立ち上がった。振り返る。真佳の背後で、隻眼の男がすっかり伸びきってしまっていた。こちらからは男の背中しか見えないけれど、多分表面は真佳が腕に負ったのと同じ火傷を負っているに違いない。
 死んではいないだろう。あれはちゃんと真佳を狙って放たれていたのだから、男自体に直撃はしなかったはずだ。
 ――あの一瞬、様々なことが同時に起こった。
 頭上から伸びてくる雷を認知した。それに構わず男の方へ突っ込んだ。男が立ちはだかり身構えた。彼の肩に手を置いて男の長身を飛び越えた。飛び越えた先でしゃがみ込んで耳を塞いだ。目を瞑った――。
 まだ心臓がばくばくいっている。唇をしめす。上手くいくかは半々だった。飛び越えたその瞬間に落雷することも十分可能性として考えられた。それでも上手くいったのは、単に真佳の運がこの男よりも強かったからだ。
 自らの首裏に手を当てる。尻餅をついたまま気絶してるっぽい男の背中から視線を外して、その更に向こうに目をやった。木箱の影から首を伸ばしてこちらを覗き込んでいるペトルスと目が合った。

「カッラ中佐が来られる前にやつけてしまうとは思いませんでした」

 水に塗れた数枚の魔術式を片手に提げながらこちらに近付いてきたペトルスは、開口一番そう言った。感心しているというよりは呆れているというのが合っている気がする。何となく答えに窮したので、親指を立てて

「奇跡だね!」

 とか言ったら見事にスルーされた。なんてこったい。気絶したままの男の足を、つま先でつついているペトルスを視界に入れたまま微妙に頬を引き攣らす。

「無視しなくとも」
「何て言って欲しかったんです?」
「えーっと、“そうだね!”とか」
「……」

 眼鏡の奥の濃緑が半眼になってこっちを見上げていたので思わず即座に目を逸らした。何もそんな顔をしなくても。

「どうします? この人」

 相変わらず男の足をつつきながらペトルスが聞いた。

「……マクシミリアヌスが来たときに逮捕してもらうのが順当?」小首を傾げる。「あ、でも他にもお仲間さんがいるわけだし、マクシミリアヌス一人にこの人たちを任せるとゆーのは――」

 ちょっと大変かもしれない。
 言いかけた言葉が喉の奥に小骨のように引っかかった。咆哮。電気を纏った眷属が、主人をぶちのめしたことに激怒して喉の奥から震わせ発した、それは雄々しくも猛々しい咆哮だった。心の中で舌を打つ。術者が気絶しても眷属には影響が及ばぬということを、今の今まで失念していた。ペトルスを押しのけ前に出る。
「……どういうことですか?」信じられないという声でもってペトルスが言った。

「あれは雷で出来ているはずでしょう、なら普通、地面に足をつけただけでこっちまで感電するはずです」
「あ、えっとそれはだって……、ん? 雷落ちまくってたとき感電しなかったにのはノーコメント?」
「それはぼくが真水にしてましたもん。でもあれは――」

 目線だけでちらりと背後を振り向いた。その手に提げられている幾つもの魔術式を思わず硬直したまま見下ろして、
 ……ああ、とようやく得心した。
 一発目の雷が放たれる寸前、そういえば水音が跳ねる音がした。成る程、そうか、ペトルスは魔術式を利用して、イオンやらの不純物を取り除き雨水を真水に変えていたのだ――。道理で感電しないと思った。落雷の直後、この眷属の使い手が仲間の居場所を問うてきた理由が分かった。だってこの密輸業者は、自分の力の属性を誰より知っていたはずなのだから。
 ペトルスに倣って前を向いた。電気が弾ける音に紛れ込んで、獣の低く呻る声がする。
 ……身構えた。あれは雷では無いけれど、万が一長時間触れられたら流石にちょっとやばいんだったような気がする。そもそもの電圧はそれでも十分高いのだ。
 大クナイを真っ直ぐ構えて、
 相手が地を蹴るのと同時、真佳の方も本日何度目かの波頭を蹴りあげた。今度は術者を気にする必要もない。ただ真っ直ぐに眷属を斬ればいいだけだった。心臓部まで魔力を削げば、この一回で難なく仕留められるだろう。靭やかな筋肉のついた獣の四肢が、流麗に飛沫を持ち上げる様を無心になって眺めていた。視線は口端にしかいって無かった。どこに入れてどうえぐれば一番いいか、頭の中で既に理解出来ていた。
 それが

「っ、!?」

 最大の過ちになった。

「んな……っ」

 逃げられた。
 逃げられた? いや違う。獣が頭上を跳躍したのは、真佳から逃げるのが目的ではない。そいつの目標は真佳の背後。主人の脇に突っ立った、まだ成人にも満たない眼鏡の青年――。
 心の中で盛大に舌を打った。先にあっちから殺してしまおうという魂胆か。にゃろ、意外に知能のある――!
 飛沫を立てて急停止。間髪入れずに疾走の一歩を踏み出したが、あまりにも距離を取られすぎた。獣はペトルスの目と鼻の先、尖った犬歯を獰猛に剥いて彼の頭上に襲いかかる。反射的に少クナイを引っ張りだしはしたものの、間に合わないのは知っていた。立てた飛沫が頬まで飛んで、サイドヘアーを掠めて過ぎた。

「ペトルス――ッ!」

 逃げろ、と口にする前に。
 ぼっ、と――何かが短く、弾けるような音がした。
 瞬間。

「…………え」

 絶叫。降りしきる雨をも吸収しかねん勢いで、苦しげに叫び燃え盛っていたのは……獣の体躯の方だった。
 自分がその場に立ち止まっていることに一拍遅れて感づいた。へたっとその場で頬を引き攣らせて、ペトルスが腰を抜かしたのが視界を過ぎった。
 炎……、炎? ぎこちなさの抜け切らない動きで首を巡らす。大路と港の境界線、水煙に霞む視軸の先に、巨大な影が立っていた。濡れた前髪から雫を垂らし、腕をこちらに伸ばした状態で硬直している大男――。

「真佳!!」

 巨人の影から飛び出してきた聞き慣れたソプラノの肉声に、知らず止めていた息を緩く吐き、
 ……脱力しすぎて思わずその場にへたり込んだ。

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