部屋アウト、教会アウト、宿舎内アウト。
 まあそうだろうなと思っていた。何となくいないだろうなとは思っていた。この状況でこんな身近にペトルスの姿が見つかるなんて、経験上無いだろうなということは理解していた。
 通信魔術式を握り締める手に力がこもる。それらを全部確認してくれたのは、マクシミリアヌスとさくらだった。シャッターが閉まったお店の軒先の向こうでばらばらと未だ大粒の雨が降り注いでいる。靴の色がすっかり変わってしまった。髪から滴り落ちる雫が魔術式の描かれた銅板を伝って流れ落ちた。

『私、実家に行ってみましょうか』

 というさくらの提案に、思わず「うん……」という言葉が漏れた。同意というよりは相槌のような形で、彼女が何を言ったのかも一瞬後になってからでないとしっかり理解出来ていなかった。
 ……でもまあ行ってみるのもいいと思う。いるかいないかは別にして、色々な方面を確認してみるのは頭の良い人間にとって当たり前のことだ。真佳はそういう気が利かないから……、……。

「マクシミリアヌス、眷属があの後どこに行ったか分かる?」
『いや、分からん』

 率直な答えだった。分かっていたらきっと教えてくれていただろうから、そうだろうなとは思っていた。

『こちらからも眷属を飛ばせればいいんだが、如何せんこの雨ではな……。魔術で常に燃焼しておるからすぐに消えることは無かろうが、長時間あいつを外に出しておくのは危険だ』
「や、いいよ。眷属ちゃんを第一に考えといてくれていい」

 眷属は第一級魔力保持者だけが有する、獣の形をした魔力の塊である。強い戦闘能力を持ち所有者の命令に忠実なため、こういった雑用に駆り出されることは多いのだが、魔力の塊であるが故にこれが死ぬと眷属が回復する二日間、第一級魔力保持者は魔術を使うことが出来ないという。それなら眷属なぞ出さない方が賢明ではないかとも思うのだが、強力な魔術を使用する際には必ず補助として召喚しなければならないのだと聞いていた。
 閑話休題。兎も角今ここでマクシミリアヌスという戦力を失うのはあまりに痛い。
 ――実はもう何となく、行くべき場所は知っていた。
 教会の客人、眷属、港の男、その場に一緒にいたペトルスがいなくなったという現状――。脊髄に走った静電気が絶えずピリピリと脳の奥底を刺激している。現実的に考えてそんな証拠はどこにもない。それでも無視出来ないものが真佳の脳をじくじくじくじく刺激する。行かないわけにはいかなかった。理性で抑えこんで無視することは出来なかった。
 あの時――、

「……さくら。マクシミリアヌス。私はまだ暫く街の中を探しとく」
『探しとくって』さくらの困惑したような声にかぶさって、マクシミリアヌスの野太く強い声がする。『細道には入らぬように。何かあったら連絡するよう』

 その声を聞いて少し微笑った。随分物分かりが良くなった。きっと彼は、真佳が以前聞かされた彼の演説を聞き入れてくれたものと信じて疑っていないのだ。ひどく真っ直ぐな人だから。
 軽挙妄動に突っ走ってはいけない。
 己の力を過信し過ぎてはいけない。
 ……それに、さくらにずっと昔言われた言葉を付け足すとしたら、
 困ったことになったら助けを呼べ。
 ――ういうい、了解。

「頼りにしてる」

 魔術式と触れ合った指先をそこで離した。ハーフパンツのポケットに雨に濡れた銅板を突っ込んで、……軒先から滴り落ちる雫の塊を振り仰いで息を吐き、
 それで再び雨の中に躍り出た。
 ――あの時。
 ペトルスが港の男たちを見ていなかった保証は無い。もしあの時の男に見覚えがあったのなら――。
 靴裏で水の表面を叩き跳ねさせながら、真佳はそのまま真っ直ぐ南へ――港へ向かって、下り走った。



スキッツァルスィの叫声



 急に降りだした大雨の影響で、水位が増し港に繋がれた船が荒れ狂うように揺れていた。いつもよりも近いところで海水が壁にぶつかり弾ける音がする。ずっぷり濡れたカミーチェ(シャツ)の感触が最高に不快で、額に張り付いた髪の感触も雨水を孕んでたぷたぷになった靴の感触も到底我慢出来るものではなかったが、ここから離れる気は毛頭無かった。
 黒縁眼鏡を押し上げる。
 マギスクリーバーお手製の眼鏡は水気を弾いて明確な視界を約束し、巨大化した雨粒に視界を遮られることは無い。しかしこの雨量ではどの道明瞭な視界は期待出来なかろう。ただ、群青色の雨魔が降り注いだその先で、数人の人影が蠢いているのは視認出来た。船の入り口から数人がかりで幾つもの“荷物”を下ろしている。

(ビンゴ……)

 思って少し唇をしめす。薄い雨の味がした。“積荷”が心配になって来たのでは無いだろうと思った。この雨の中下ろすのが、人目が少なく最も危険が少ないから。
 ……さてそれでは。
 濡れそぼった木箱に背中を預けて思考する。これからどうしようか。勢い一人で出てきてしまったが、彼らが本当に“そう”だったとして自分がそれからどうするかということは全く考えていなかった。治安部隊側の人間とは言え医術士の卵が逮捕なんて出来ないし、呼びに行くとしてもその間にいなくなられてしまっては折角掴みかけた尻尾を逃してしまう。通信魔術式持ってたっけかなあとパンタローニ(ズボン)のタスカ(ポケット)を探ってみたところで、

「「あ」」

 木箱を挟んでそこにいた相手と目が合って思わず間抜けな声を出した。雨音の嵐で小さな音は拾えないが、相手の口も同じ母音の形に開いているので多分間抜けな声は重なった。

「マナカさん……」

 思わず呆れと脱力の混じった声が出た。木箱を盾にこの雨の中、身を乗り出している彼女の姿勢に見覚えがあった。さっきペトルスが先の状況を確認するためにやっていたのと同じ姿勢。米噛みがちくちくちくちく疼く。よりによって無茶をしないと約束していた賓客がこんなところに来てしまうとは。

「絶対ここにいると思った」

 雨の帳の向こうにいる連中に気を遣ってか、這うように寄ってきたマナカが同じく木箱に背中を預けて並んで座った。彼女のカミーチェ(シャツ)もすっかり濡れて、下のカノッティエーラ(タンクトップ)が透けて見える。髪の毛の方も同じくらい濡れていたがお団子に結われていたので被害は少なそうだった。以前見た適当っぽい結い方とは違う。誰かにやってもらったんだろうか。

「どこにもいないから心配した。マクシミリアヌスは眷属が動いたって言うし……」
「眷属が?」

 ぼさぼさに張り付いた前髪を弄って目を眇めた。雨のばらばら言う雨音で聴覚も遮られて背を向けていると後ろがどうなっているのか把握しづらいが、時々マナカが背後に視線をやっているのでまだ逃げられてはいないのだろう。

「そー。何の眷属かは分からないけど……。でも動いたのと同時に、あの宿舎に泊まってた他の人たちが外に出てったみたいだから」
「……気付いてたんですか?」

 声を低くして尋ねる。彼女らの存在が彼らに気付かれないよう、ルーナを始め教会のスオーラ(シスター)たちが細心の注意を払っていたはずだ。スオーラ(シスター)たちは彼らの正体を知らなかっただろうが(そしてペトルスも今この瞬間まで詳しいことは知りもしなかったが)、何であれ異世界人の存在を不用意に誰かに漏らすわけにはいかない。マナカが彼らを知っているというのなら、彼らの方も若しかしたら――

「や、勘」
「……勘?」

 素っ頓狂で間抜けな声がまた漏れた。

「それで何で港まで来れるんですかっ」
「えー、だって前にここに来たとき怪しー人いたしそれ無視して考えれなかったし、ペトルスが前密入国者がどーとか言ってたし……」

 この人はこれまでずっとその“勘”とやらでこんな無茶苦茶をしてきたんだろうか。勘を原動力に大雨の中外に出た人間は当然ながら初めて見た。

「……残念ながら、あれは密入国じゃありませんよ」
「へ?」
「密輸入の方です。そこだけ勘は外れましたね」

 眼鏡のポンティチェッロ(ブリッジ)を押し上げながら訂正した。マナカに倣って横目で彼らの様子を伺う。こうして話している間に、もう既に幾つかの積荷が下に降ろされてしまっていた。雨とは違う水滴が額から頬を伝って滑り落ちた。本格的にどうにかしないと――
 あっ、
 と閃いたことがあった。

「マナカさん、通信魔術式」
「はい?」
「通信魔術式でカッラ中佐を呼んでください。折角現場を抑えたのに、あいつらに逃げられたのではこの雨の中出てきた甲斐が――」

 ざりっ、
 と、極近いところで、湿った砂粒が踏みしめられる音がした。

「甲斐が、なんだって?」
「っ!?」

 振り向くや否やトゥーボ・フェッロ(鉄パイプ)が叩きつけられた。頭上にではない。ペトルスの胴から僅か数チェンティーメトロ(センチメートル)離れた木箱の上に。……場所が違えば、木箱ではなく脳天が粉砕されていた。雨に叩かれ鈍く光ったそいつを見下ろし生唾を呑む。どこから持ってきたんだこんなもの……。振り下ろされたトゥーボ・フェッロ(鉄パイプ)は先端が少し歪んでいた。

「チッ」

 トゥーボ・フェッロ(鉄パイプ)の持ち手があからさまに舌を打つ。その吸着音が雨に乗じて真っ直ぐ足元に落ちたとき、そこでようやくペトルスは自失状態から復帰した――マナカは!?
 顔を上げる。勢いついて髪に張り付いた雫が跳ねた。トゥーボ・フェッロ(鉄パイプ)による結末については知っている。あれは木箱を破壊しただけで彼女に害を与えてなどはいなかった。恐らくこの男――トゥーボ・フェッロ(鉄パイプ)の持ち手は、二人の分断をひとまずの目的としていたのだろう。結果分断には成功した。でもマナカは――?
 ぱしゃっ――という、水が跳ねる音がした。

「――殺すつもりが無くて良かったよ。でないと、私も無傷のままペトルスくんを助けられた自信は無かったから」
 日本語で言われたそれに男は若干尻上がりの母音を漏らしてから、トゥーボ・フェッロ(鉄パイプ)の先端を彼女の鼻先辺りまで持ち上げた。「殺すつもりではあるさ。さっきは小手調べ、今は本気だ」

 腹の底に響くバッソ(バス)の声域で紡ぐ言語を切り替えて、トゥーボ・フェッロ(鉄パイプ)の男は薄く笑う。街灯から降り注いだ心ばかりの明かりに照らされてそれは一層獰猛に見えた。角ばった顔のてっぺんに、トサカのようにちらっと生えた黒髪。金目。典型的なスカッリア人であることが窺い知れる風体だった。雨粒を孕み垂れた男の黒髪から雫が一滴滴り落ち、太い首を生やしたカミーチェ(シャツ)に吸い込まれて濡れそぼったそいつを構成する一となる。カッラ中佐のそれより太い両腕と頑丈そうな腹筋がカミーチェ(シャツ)の向こうに透けていた。少し離れたその先でマナカが薄く両目を細める。
 慌てて視線を巡らせた。積荷を下ろしていた連中は気付いているだろうか。この男が単独でやって来たのならまだしも、もし連中もこちらの存在に気が付いているのなら――。

「密輸業者、さん、でいいんだっけ」

 滑舌の怪しい物言いでマナカが言った。

「あ?」
「出来れば大人しくして欲しいんだけどな……。こうやって私たちに見つかっちゃったわけだし。言い逃れも出来ないでしょう?」
 男が喉の奥で引っかかったような笑いを立てた。「お前たちが死んでいなければな」

 雨のフルッショ(ノイズ)が平板に継続的に鼓膜を叩く。地面を叩き海面を叩き、揺れる船の索具が甲高く軋む音が遠くでした。粉砕された箱を見る。何も入ってはいなかったが、それでもそう簡単に壊れるものでないはずだった。

「……私たちを殺すつもりだと?」
「ああ、殺す。殺してミンチにして海に撒いて魚の餌にしてやるよ。この星の食物連鎖に貢献するんだ、さいっこうだろぉ!?」

 狂ったように呵呵と笑った。視線を巡らせる。男たちの影は未だ積荷にかかずらわっていた。納得した。こっちの処理はこいつに全て一任して、自分たちは先に仕事を片付けておく心算なのだ。目撃者の処理など彼らにとっては赤子の手を捻るようなものだから。

「本当にキミに殺せるだろうか」

 マナカが短く嘯いた。

「――ああ?」
「ホントにキミに、私たちが殺せるだろーか」
「……どういう意味でェ」

 地を這う雨粒よりも低く、低く問う男に対して、彼女は、

「キミでは、私の相手にならないよ、と」

 爆弾を

「てめぇ!!」

 投げた。
 ……ペトルスの頬が自分でも分かりすぎるくらいに引き攣った。
 何者だこの女。異世界人だってことは抜きにしよう。こんなのが異世界人の典型なわけがない。
 トゥーボ・フェッロ(鉄パイプ)が振り下ろされたときのことを今になってただ冷静に思い出す。ペトルスはその場から動くことすら出来なかったが、彼女の場合は違っていた。あれは、多分あれはペトルスの思い違いでなければ、跳んだのだ。水が跳ねた音は着地の音で間違いない。咄嗟の判断で彼女はここから飛び退った。
 ……頬を引き攣らせたまま思った。
 護衛が必要だって? 誰に?

「ペトルス!」

 突進して行く男の咆哮をつんざくようにマナカが吠えた。同時に宙を舞って来た来客を「ぅわ!?」奇声をあげながら条件反射で受け止める。受け止めたはいいが勢いそのまま顔面から地べたに突っ込んだ。慌てて眼鏡を確認する。割れてない。

「何……」

 怪訝に手にしたそれを掲げ見て、

「……通信魔術式……」

 銅板に刻まれた複雑怪奇な文様。見慣れたそれに起き上がることなく声を漏らした。地面を濡らす雨の塊でカミーチェ(シャツ)が一層重くなった気配がした。

「それでマクシミリアヌスとさくらに連絡――」

 言うと同時、突っ込んで行った男の正面へとマナカは一歩踏み込んでいた。身を沈め、男の盛り上がった上腕を遠慮容赦なく引っ掴み、

「――お願いしゃっす!」

 背負い上げてぶん投げた。
 ……雨の表面に、男の背中が叩きつけられる、ド派手な飛沫の音がした。

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