ガタンッ、「あいた!」
 という自分の叫び声で覚醒した。ぼやけた視界に天井の梁がまず映って、一拍遅れて背中に鈍い痛みがあることに気がついた。咳をして詰まっていた息を整える。上半身を起こしながら、「いて……」頭も殴られたように痛かった。一体なんだってこんなことに、

「……あー……」

 寝起きのおっさん声で漏らしてから合点がいった。落ちた。ベッドから。
 首都であてがわれたベッドほどではないにししろ、こんな広いベッドからよく落ちられたものだと我ながら感心する。ベッドの縁に手をかけてから地面に根を下ろしていた下半身も引っ張り起こした。今何時だ……?
 開け放たれた窓から見える明るい光に目をやった。まだ寝起きの目であったことには変わりないので若干を目を細めてから部屋の中を目線で探る。ベッド一つ、洋服戸棚一つ、足の細いテーブルと椅子がワンセット、自分が持ち込んだ心ばかりの旅具が詰め込まれたトランク一つ――部屋の隅に設けられた壁掛け時計を注視する。斜めに歪んだ文字盤に刻み込まれた文字列は真佳のよく知るそれと同じで、数字だけは日本もスカッリアも変わりなくて良かったなあと改めてしみじみ考えながら、

「じゅっ……」

 十二時。
 長針と短針の示す時間に愕然として思わず頬が引きつった。確か運命鑑定士との面会は十一時にということになったはずだけれど。えっ、十二時? 寝過ごした?

「さっ……」
「サクラさんならいませんよ?」
「ひゃあああ」

 寝癖も寝間着もそのままに戸口に突っ込もうと振り向いたところ、先にそこから部屋を覗き込んでいたピンク髪の少年の顔と視線と視線がぶつかった。な、なん、

「何でめっちゃフツーに部屋覗きこんだりしちゃってんのっ!?」
「大きな音がしたので悪漢でも現れたのかと」
「せめてノックをお願いしたい!」

 着替えてたら困るから! 寝間着にさせてもらった古着の裾を地味に引っ張り直しつつ突っ込んでから、いやいやそうじゃなくてと見失っていた話題の線路を思い出した。

「さく、さくらいないって、え、え、いないの!?」
「マナカさんが起きるのを待っていたらいつになるか分からない、ここはペトルスに――あ、つまりぼくのことですが――に任せて、カッラ中佐と先に教会に行ってくる、というわけです」

 伝聞の内容と彼自身の説明語とか入り混じった文章に寝起きの頭を軽く混乱させつつも何とかそれを紐解くや否や、

「ええー……」

 思わず脱力して堅い木床にしゃがみ込んだ。い、いくら自分がねぼすけだからと言ったって、何も置いて行かなくとも。

「まあ、話があるのはサクラさんの方でマナカさんは何も行く必要は無いわけですから。あ、お昼ごはん食べます?」
「……食べる」

 さらっと話題を変えていきやがる。しかも朝ごはんって言うのではなくて昼ごはんだし。間違って無いけど。膝頭に押し付けていた額を持ち上げてペトルスの顔を仰ぎ見た。「お昼ごはんは鳥肉のシチューですよ」黒縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら言う。飄々とした物言いについ流されそうになったが、
 ……まあ、確かに運命鑑定士に出会うのに真佳がいる必要は無いのだよなあ、と納得せざるを得なかった。“運命”を“鑑定”してもらうのはさくらの方なのだし、運命鑑定士と取り次いでくれる人間とさくら本人さえいれば後は別に必要無いわけだ。真佳を無理に起こして行かなかったのも、真佳なら一人で残しておいても最悪の事態にはならないだろうと予測してのことだろうし、本当にそういう意味では最良の判断であったろうと認めざるを得ない。が。

(仲間はずれとぅらい)

 微妙に顔を覆って内心ぼやいた。

「マナカさん、ここ跳ねてますよ」

 恐らく頭のてっぺんの該当箇所を指さして、ペトルスが相変わらず飄々とズレたことをのたまった。


視界の果て



 鳥肉のシチューと聞いて真っ先に思い浮かんだのは鳥肉を一口サイズに切って入れたホワイトシチューだったが、実際用意されていたものは違っていた。深皿の中央にでんと置かれた鳥ムネ肉に半濁のスープ。茹でられた鳥肉が黄金色したとろみのあるスープに半分ほど浸かっていて、塩味が利いていて実に美味しかった。何の鳥だろうと思ったら、やっぱりキッキ鳥の肉だそうだ。ここいらでも飼われているのだなあと感慨に浸る。


「マナカさんこれからどうします?」

 鳥ムネ肉の最後の一切れを飲み下しながらペトルスが聞いた。席についたのは真佳とペトルスの二人だけで、昨日会ったルーナさんや他のシスター、コックの皆さんは別の部屋に控えている。他にも来客が泊まっているらしいが真佳はまだ見たことがない。多分別の食堂に通されたのだろう。ここでも賓客扱いなのだなあと微妙な気分になりながら水を一口、口に運んで

「どうって、どう?」

 聞き返した。ペトルスがきょとんとした顔をこっちに上げた。

「そのままの意味ですよ? サクラさんたちがお帰りになるまで待たれますか?」
「え、や、ってゆーかそれ以外の選択肢が」

 勝手に歩きまわったら怒られそう……。ワイシャツの四角い襟を指先で弄りながら、気がついたら頬が短く痙攣していた。最悪の事態、つまり勝手に死ぬようなことにはなるまいとそこだけは信頼されていても、事件探査機みたいな扱いであることには全く変わり無いと思う。いつだって真佳は巻き込まれるだけだと言うのに。
 まあ無論――

「? ぼくが付き添いますから大丈夫ですよ?」

 ペトルスにはその辺の事情は全く通用しないのだけど。
 うーん……と少し考える。真佳とて、ここで静かにさくらとマクシミリアヌスの帰りを待っているだけというのが超絶面白いというわけでもない。元の世界でならパソコンとか携帯とか、色々暇をしのげるものがあるわけだけど、こちらの世界でそれを期待するのは些か難しいことだと思う。或いは、もっと子どものいる家とかに行けばそういった遊び道具みたいなものが見つかるのかもしれないけど。
 椅子と木床の打ち鳴らされる音色を聞いて真正面に視線をやったら、黒縁眼鏡の奥に潜んだ濃ゆい苔藻の色素とかち合った。強い好奇心を瞳の奥に飼いながら、邪気なき温顔でテーブルに若干身を乗り出して、

「どこか行きたいところとかあるんですか?」

 ……座席に腰を下ろしたままの真佳は、思わず彼のご尊顔を見上げたまま一時そこで呆然と思考を硬直させた。
 行きたいと思った場所に、思い当たるふしがあった。
 から、無いと断ってさくらの願う通り部屋で待ちぼうけしておくことを瞬間的に選ぶことが出来なかった。引き抜いたテーブルナプキンで口元を丁寧に拭いながらペトルスが気負った風もなく口を開く。

「どこですか? この街の中であればお連れしますよ」
「え、や、えーっと」

 我に返って断ろうとしたが遅かった。迷惑じゃないかとかさくらの考えとかマクシミリアヌスの心配とか、その他諸々負の感情を詰め込まれた天秤の片皿は目の前で真佳が目的地を告げると信じて疑わないペトルスの緑眼にあっさり負けて、
 ……カタンと右に落ち着いた。妥協案として、さくららが帰って来た後で皆で一緒に行くという手もあるにはあるけど、さくらの方はどうやらとっととここを出て予言の地へと赴きたいみたいだし――
 ……うん。
 まあいいか。
 覚悟を決めたら後はもう簡単だった。


■ □ ■



「ペトルスは何であんなに私たちの付添人になりたかったの?」

 白灰色の階段を軽やかに跳ね降りながら、かねてより気になっていたことを口にした。出かけるときに上の方で結ったポニテが首裏辺りでふらふら揺れる。地面は真佳のよく知っているようなアスファルトでも首都で踏みしめたような煉瓦造りでもなく何か不思議な材質のもののようだった。堅いけどどこか柔らかい感じがする。言葉にするとよく分からない。
 真佳の前の方をてくてくと降っていたペトルスが、尻のところで巨大な肩掛けカバンをぱかぱかさせながら振り返りもせず答えた。答える前に軽く肩を竦めたような気がする。

「やれって言われたから」
「やれって? 誰に?」
「さあ。教会のお偉いさんじゃないですかね。ぼくは医術士のお師匠に言われただけですが、どうやらそういった風でしたよ」

 手の動きからペトルスが眼鏡のブリッジを押し上げたのが分かった。お師匠……。そういえばペトルスは医術士の卵なのだっけか。……てっきり自分から希望したものとばかり思っていた。

「……えーっと、それは……。お疲れ様です」

 ふはっ、と噴き出されて一瞬戸惑った。

「あはは、そうですね、でも本当に嫌だったら断りますよ」
「そうなの?」
「この国の人間はそんな遠慮や我慢はしません」

 言い切られて、思わずぐぅと押し黙った。否定出来ない……。こっちに来て知り合った人たちって大抵そういう人たちだ。やりたくなければやらない。例え誰に言われたとしても――。そういうところがちょっと辟易する部分であり、信頼出来る部分でもある。こうして真佳を連れ出してくれたのも、何も気を遣ってのことではないのだろう。……何だかそれが嬉しかった。
 ぴょんこぴょんこと跳ねるスペースを上げもって、前より近くなったペトルスの背中に向かって問いかける。

「お師匠さん怖くない?」

 ペトルスは一瞬声の近さにびっくりしたようにこっちを振り向いて目を剥いてから、「……医術士の勉強をしているときはおっかないですが、普段はそれほどでも」戸惑った様子で言ってから漸く最後に付け加えた。

「ぼくのお師匠って祖父なんです」
「お祖父ちゃん」
「祖父や祖母は孫に甘いものでしょう」

 言われたことに思わず頬を引き攣らせてしまった。「……えーっと、どうだろう」視線を横方向にシフトしながら当たり障りの無いことを舌に乗せると、「……異世界ではそうではないんですか」と驚いたように納得してくれた。いやそういうわけでは無いのだけれど……。
 第二中手骨の先っ側を額に押し付けながら、むうと思う。うちの祖母はこう、何というか特殊でね……。なんて言えるはずも無いのだけれど。突っ込んで聞かれたら困るので。

「医術士ってどーゆーことするの?」

 意識して話題を変えてみた。西側の建物によって出来た影を靴裏で軽快に踏んでいく。頭上を仰ぎ見ると太陽は南の位置でまだ燦々と輝き照っていた。今向かっている方向がずばり南だが、この時間だと若干位置がズレているため直射日光を直に受けることは無い。太陽の殺人的な天日目指して歩かなければならなかったのだとしたら、こうして足取り軽く歩を進めたりはしなかっただろう。

「医者と同じようなことですよ」

 隣でペトルスがポケットに両手を突っ込みながら答えた。

「怪我人介抱したり?」
「したり。怪我人を治し病気を治療する、それが医術士です」
「魔術……とかで?」

 元の世界で話題のファンタジー小説を思い浮かべてみる。そこでの医者は、やっぱり魔法で人の怪我や治療を治していた。元の世界の医者のことは真佳はよく知らないが、でも心電図とかはこの世界には合わないような気がする。

「“主、その仰せのとおり”」
「……?」

 多分聖書の引用的なことを言って、ペトルスは小さく頷いた。

「医学士になるのに第一級でなければならないなんていう懸けに出るわけにはいきませんから、みな魔道具を使って人を癒します」
「魔道具……?」
「魔具、魔術具とも言いますがね……要は魔術式の施された道具です。恐らく実際治療に使っているのを見た方が分かりやすいかと思いますが……」

 ちらっとペトルスが眼鏡のレンズ越しにこっちを見るので、思わず真佳はぶんぶんと首を横に振って後退った。

「いやいやいや! いい、私好んで怪我したくない」
「そうですか」

 肩を竦めて前を向いてしまった。ざ、残念そうなのかそうでないのかすら分からない。飄々とした態度を取る人間っていうのは心の奥側を見通すのが大変だ。幾らか屈折を繰り返した先にまでいかないと、きっと本心にはたどり着けない。そのくせ、実はそれがダミーで、本心はもっと浅いとろこにあったりもするのだ。マジックミラーで隠されてでもいるみたい。

「さあ、着きましたよ」

 言われてハッと顔を上げた。それまで薄っすらと漂っていた磯の香りが強く嗅覚に染み込んだ。
 港街スッドマーレの、ひいてはスカッリア国の果ての果て、海に面する最後の陸地が今真佳のいるここだった。眼前に広がるのは最果ての無い海の群れ。ざざっと押し出された波が数十センチ先で切り立った陸地の壁に阻まれて飛沫を上げる音がする。遠く彼方に見える地平線に、多分隣国のものらしい隆起する曲線が薄っすら見えた。

「をを……」

 思わず感嘆の声を上げる。魔術を初めて知った以来の沸き立つ感覚が胸中でした。これが端。これが世界の端。スカッリア国民にとっての、そして多分真佳にとっての。
 障害物が無くなって一層燦々と降り注ぐ陽光に鬱陶しそうに目を細めたペトルスの真横を通りすぎて、更に数歩陸路の果てに近づいた。

「……砂浜は無いのだね」

 ただ見たままを口に出して言ってみただけで、そこに込めた感情は特に無かった。真横に視線を走らせると真佳の通ってきたのと同じ地面が直角に刈り取られ、海に浮かぶ船体を無条件で受け入れている。
 背後で商人のがなり立てる音がした。ここいら辺は賑わう市場の一部でもあるらしく、海から数メートル離れた陸地では多分ビニール地で出来たものと思われる屋根の下、魚や甲殻類の軍勢を切り売りする商人とそれを買い求める買い物客とでそこそこの賑わいを見せていた。もっと早い時間か遅い時間ならそういう客でごった返していたかもしれない。海を眺めに来た人間は、真佳やペトルスの他には散歩中らしきおじさんが二、三人ぽつりぽつりといるだけだ。

「ずっと向こうの方にはありますよ」

 ペトルスが左側のずっと先を指先で示しながら口にした。

「人工で整備された陸路の先に磯があって、その先が砂浜です。この時期にもちらほら地元民が集まってるようですけど、夏場は観光客でごった返しますね」
「かんこーきゃくとか来るんだ」
「殆ど金持ちや教会の連中だけですよ。マナカさんも使われた転移魔術式を一般人がそういう目的で使うのは現実的に考えてまず無理ですから」

 ふうん、と鼻から空気を抜ききって相槌を打った。薄々気付いていたことだけども、ここでは交通機関はあまり民間のためには開かれていない。もっと豊かになればそうでも無いのだろうけど、大体の人はこれによって閉鎖的だ。

「微妙に緑色がかっているのだね」

 やっぱり見たままのことを、緑色のかった大海を見下ろしながら口にするとペトルスが不思議そうな声を出した。

「それ以外の色があるんですか?」
「うーん、うちの世界でも、外国でならこーゆー色の水?……海もあるにはあるけど、私んとこの国から見える海は大体真っ青でねえ」
「へえ!」

 関心したような意気込んだ声だった。昨日も異世界について知りたいとは言っていたし、やっぱり興味のある話題なのかもしれない。とは言え真佳はあまり語るのとかが得意では無いので、そういうのはさくらに聞いた方が早かろうとも思う。

「ペトルスは異世界が好きなの?」
「嫌いな人間はいないと思いますがね。異世界人を神として奉っている宗教もあったらしいと聞くほどですし」

 それは聞いたことのある話題だった。赤いフードの下から除く炎のような橙の双眸を思い出して、一瞬ちくりと胸が疼く。

「今は無いんだね」
「無いでしょう。もしあったとしても、見つかったら異端者として即拘束ですよ」

 肩を竦めて言うペトルスは、どことなくつまらなさそうな顔色をしていた。
 教会上層部にとって、異世界人は敬うべき存在だが神として扱うことは許されない――と。神として扱われるのも困りものだが、多分それは真佳らの危うい立ち位置を如実に示す真実だ。

「……満足した! ありがとう、戻ろーか」
Sono(ソノ) ai(アイ) tuoi(トゥオイ) ordini(オルディニ)

 自国の言葉で何事か言って、ペトルスは芝居がかった調子で微笑んだ。多分口調の雰囲気的に“仰せのままに”的なことを言われたのではないかと思う。ここに来て一ヶ月も経たない今、正確に言葉の意味を把握するのは不可能に近い。

「……?」

 くるりと踵を返したペトルスの背に付き従おうとした矢先、港湾の隅の方で数人の男がたむろしているのが目に付いた。ぼそぼそと小声で何か話しているらしい。さっきペトルスが口にしたのと同じ言語だろうと思うし距離もあるので何を話し合っているのか真佳には分からないが、語調からどこかただならぬ様子が見て取れた。

(……? 何だ……?)

 ぴりっと一瞬脊髄を静電気が流れた感触。けれど意味をはかりかねる。ただ真佳の第六感が何事かを告げているような気がした。

「マナカさん。焼け焦げになりますよー」
「あ、うん」

 呼ばれて慌ててぽっかり空いた距離を詰めたところで、

「……焼け焦げって」

 突っ込んだところでペトルスが心底嫌そうな顔をした。

「ぼくは日中の日差しが嫌いなんです」
「じゃあ何で付いてきたの」
「来たかったからですよ」

 一見矛盾したことを即答してさっさと影の出来た大路に入ってしまった。
 ……一見矛盾している、けど

(話してくれた国民性とは矛盾していないのだよなあ……)

 思わず一人でにまにま笑って彼の後を追いかけた。
 道中、一瞬だけ港湾の隅に視線をやった。……くだんの連中は、既にそこにはいなかった。

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