スッドマーレは段差の多い街だった。段々のそれぞれに多くの家々が建ち並び、その間を縫うように複雑に曲がりくねり絡み合った路地が真っ直ぐ上へと続いている。海から教会へ上る道は他と違って幅広で、同じ幅の分かれ道が見当たらないためそれで辛うじて迷わず上に辿り着けるかもしれないという程度の図柄になっていた。
 家の壁は煉瓦と土の間の子みたいな不思議な材質で出来ていて、その焦げ茶色の体躯を随分と南に昇った太陽の陽光が照らしている。ただ一つ、てっぺんに浮かぶ白い外壁の教会は、若しかしたら上から見たら枯れた大地にただ一輪咲き誇る、巨大な月下美人みたいに見えていたかもしれなかった。

「……ここの街の人たちは大変だねぇ……」

 のっしのっしと続く階段を登りながら、思わずそんなような台詞がぽろりと口からこぼれ出た。体力には自信がある方だけれども、だからと言ってしんどいことを積極的に請け負う性分では全く無い。店を出てからどれくらいの時間が過ぎただろう。太陽の傾きを考えるに十分も経ってはいなさそうだが、それでもぶっちゃけもうあまり登りたくないというのが本音だった。春だというのに首裏辺りにうっすらとべたついた汗の感触がある。髪括ろうかなあ……。

「まあこれがこの街の特徴ですから。皆慣れたものですよ」

 という返答は、真佳の後ろ側から聞こえてきた。気配からすると人二人分離れた左斜め後ろ側の方である。街を下って行く者は結構数見かけるものの、上って行く人間はこの時間帯あまりいないみたいなので間違いようがない。
 ペトルスの返答に疲れの色や乱れた吐息の後は無く、そのことからも彼らにとってこれが日常茶飯事であることは容易に察せられてしまった。元あった世界にもこんなような土地はあったけれど、と中学の頃の修学旅行を思い描きながら真佳は呻る。慣れる気がしないなあ……。疲れるし。真佳だったらきっと今以上に酷い引きこもりになっている。

「ここは元々隆起した土地の上に建てられた街だからな」

 何歩か先を行くマクシミリアヌスが補足した。

「こういった立地になるのもまた自然なことなのだろう。その昔隣国と戦争を繰り広げていたときには活躍した土地なのだぞ」
「戦争……」つい最近出来た真新しい疼きをちらりと胸の奥に感じながら口を開いた。「ここも拠点になったの?」
「当時相手にしておった国から一番近い場所にあるからなあ。敵の襲撃を受けることも多かったし、逆にこちらから攻めこむときに活用されたこともあった。今では貴重な貿易相手だ。無論大事な客人ということになるから、教会が世話をさせてもらうことが多い」

 仲直りしたのか……と思ってから、この表現は何だか違うような気がしないでもないような気がしてきた。口の中で何度か言葉の塊を転がしながらうーんと暫し考えて、……別にこんなことで悩まなくても全く構わないのだということに思い至った。

「……何と何を交換してるの?」

 ワイシャツに薄手のベストを羽織った、広い背中に向かって別のことを問いかけた。それにベストと同色のズボンを合わせるという格好は、どうやらこの国での一般的な男子の私服であるらしく、ここへ来てから真佳もよく見る光景だ。現に今だって、教会の側から降りてきた男性の集団がマクシミリアヌスと同じような格好で路地の中央を通って行った。大男のワイシャツが肘のところまで腕まくりされていなければ。だけど。

「そうさなあ……。こちらからはセロリやオリーブが多いと聞いたか。キッキ鳥やハルモングリもこの国の特産品で、輸出品にはもってこいだそうだぞ」

 ……あんな黒っぽいゴムみたいなものが特産なのか、と一瞬嫌な顔をする。真佳が見たのは黒焼きにされた後の姿だけれど、ハルモングリはもはや真佳の中では天敵だ。いくら魔術道具を作るのに役に立つと言ったって。
 ハルモングリ?という顔で、マクシミリアヌスの右斜め後ろ辺りを歩いていたさくらが訝しげにこっちを振り向いた。さくらは知らない方がいいという思いを込めて首を横に振って応えておいた。

「輸入しているものとしては、主にあちらでしか育たない果実や植物、綿や、それからワインなんかもよく互いに取り扱われてますよね。地域によってワインの味も変わってくるということで」
 ペトルスのそれにマクシミリアヌスが大仰に頷いた。「うむ、デルデモンドのワインは上質だ」

 デルデモンド、というのが多分、隣国の名前なんだろうと思う。ここから一番近いということはスカッリア国より更に南の国か。ここより暑い国なんだろうか。前にちらっと世界地図を見せてもらったことはあるけれど、そこまで見る余裕が無かったのでどんな地形をしていたか残念ながら覚えていない。
 ペトルスが軽く肩を竦める。

「この他、主の招かれざる客も時折“輸入”されてきますがね。そのことで上流階級の方々は専ら神経を高ぶらせていますよ」
「招かれざる客?」
「俗に言う密入国者です」

 短く答えられたペトルスの返事に合点した。やっぱりどの世界であってもそういう問題は必ず浮上してくるものなのか……。靴の裏にざらざらした地面の感触を味わいながら感慨深く思ってみたり。

「まあ、密入国者は兎も角としてだ」咳払いをしてからマクシミリアヌスが話題のベクトルをねじ曲げた。「この貿易が始まって急激に栄え始めたのがこの街だ。初めは高台に教会と治安部隊司令部があったくらいのものだったのが、教会の周りと海岸沿いを中心に徐々に居住区が増えていったと聞き及んだ」
「それだから路地を整理する暇もありませんで。この街の人でも、慣れていないと入り組んだ路地で迷う人が出やすいんですよね」

 続きを請け負ったペトルスの言に苦笑の色が混じっているのを感知して、思わず一瞬止まってしまった。迷いそうだとは思っていたが、察するにこの大路からちょっとでもはみ出たらそれはもう致命的だと思った方がいいっぽい……。まあせいぜい二日程度の停留だけども。
 下流から吹き込む海風に、べたついて澄んだ潮のにおいを感じてほんの一瞬だけ思考の方も停止させた。前方から貴婦人らしい女性が一人、静々と段差を下っていくのを目の当たりにする。丁寧に分けられた前髪の下で、ちらっと一瞬こっちに視線をやってから、その人は上品に少し怪訝そうな顔をした。
 男物のだぼっとしたワイシャツを肘の辺りまでめくり上げ、第一ボタンを外した下には硬い生地の膝下ハーフパンツに革の靴。……という服装は、こちらの世界での一般的な――つまり中流階級や下流階級のことを言うらしいが――女子の私服などではない。それはワイシャツにスラックスという軽装のさくらの方も同じ事で、貧民層の少なそうなこんな上階ではそりゃあ奇異な視線を向けられても可笑しくは無いだろうと考える。このことについてマクシミリアヌスにも一応忠告はされていた(インナーのタンクトップが見える辺りまでワイシャツを開襟したいと言ったときは流石にはしたないと止められた)。
 まあ、それを覚悟でこうしているので全く問題は無いわけだが。何となくで追っていた女性の背中から目を背けてえっちらおっちら段を上る。今更ワンピースに着替える気は毛頭無い。だって動きにくかったのだもの。

「上には店は無いの?」

 それまでほぼ無言で段差を踏みしめていたさくらが、そこで静かに口を開いた。

「教会の辺りか? 無いことも無いが、何故だ?」
「転移魔術式が教会の近くにあったのに、随分と下ったものだから。それに上に登っていく人をあまり見ない」

 といったさくらの疑問を、転瞬マクシミリアヌスはここいら一体に響きそうな大きな声で笑い飛ばして髭に埋もれた口を開いた。

「ああ、いや、あるにはあるがなあ、あの界隈は上流階級御用達といった店が多く、殆ど夕飯しか出しよらん上、雰囲気は硬いわ高いわで俺はあまり好いておらんのだ」そこでマクシミリアヌスの背中が肩を竦めて、言葉の調子を変えて曰く。「折角活気のある港街に来たんだ、街の空気を見てもらうのも重要なことだろうと思ってな!」

 などの自慢げに言ってのける。立地の関係からしてこの閑静な住宅街と思しき辺りにはどうやら上流階級しか住み着いていないみたいだが、ということはその人たちはそう気軽にランチを食べたり出来ないのか……。自転車が通る余地も無いくらい段差で埋められてしまっているし、不便だろうなあと考える。お世話になる宿舎でご飯が出るといいのだけど。

「ぼくとしては」

 挟まれた言葉に振り返った。真佳やマクシミリアヌスのような上り方とは違う、ひょいひょいとした軽い足取りでペトルスが段差を上がっていた。真佳と視線が合うや否や、彼は眼鏡の奥でにこっと微笑って芝居がかった動作で人形みたいに肩を竦める。

「異世界についての方をもっとよくお聞かせ願いたいのですけどね。何せ伝説でしか伝わっていないことなので」
「異世界のことって」

 言いながらそれとなくぐるりに視線をやっていた。上に上るにつれて人通りが少なくなっていったこの街だけれど、誰が聞いているか分かったものではない。いや、そもそもこの国の言葉ではなく日本語を話している時点で十分変わったことではあるのだけど。いくら公用語の一つに定められていると言ったって、だ。
 反射的に警戒を強めた真佳を他所にマクシミリアヌスが前方でひどく大げさに頷いた。

「そいつは俺も気になっていたところだ。実際のところはどうなのか、とかな!」
「と言われても……。キミたちんとこに伝わってる伝記の他に伝わってないことなんてほぼ無いよ」

 飛行機や電車、恐らく電磁調理器と思われるもの云々……。医療機器や専門職で使うような工具関係と思しき記述は流石に無かったが、普段の生活に慣れ親しんだ基本的なものは大体出揃っている感があった。真佳とて専門家が使うような道具を大して知っているわけでもないのだから、彼らの欲しい情報を提供することは出来ないと思う。
 ……さくらが眉根を寄せて、こっちを見下ろしているのに気がついた。

「……私たちの知っている中で、伝わっていない物事はそこに書いてなかったの?」

 訝しげに、というか呆然にというか……どこかぼやけた感じで尋ねられたことに、真佳も目をぱちくりさせる。

「? うん。多分。用途とか原理とかを中心に書かれてた感じで、正式名称とか俗称とかは書かれてなかったから、確かなことは言えないけども」

 頷いたら何だか神妙な感じで黙り込まれてしまった。……何だ……? 思わずつられて眉を顰める。が、それについて思考を巡らせるより一寸早く、前方でちぇっという軽々しい音がした。舌打ちの際の吸着音。

Ahime(アイメ)! もう着いてしまった! これからが良いところだったと言うのに!」

 声につられて顔を上げると、そこはもうスッドマーレの最上階だった。建物の茶色い壁に見慣れた目には少々眩しく映るくらいの煌々たる白。それがスッドマーレの教会の第一印象。中央に一際高くそびえ立つ尖塔と、その左右に控えるピナクルの被る三角帽子、中央尖塔の中途に設けられた十字面格子の丸窓だけが、その様態をひたすら青く煌めかせている。その背後には教会を抱きいだく形で翼を広げた屋敷があった。古びた木で出来ている屋敷だが、昔に幅を利かせていたという木造建築の校舎みたいでそれにはどこか暖かみみたいなものがあった。
 首都、ペシェチエーロの治安部隊・教会関係者の職場もこんな風に教会を擁する形であったことを考えると、これが一般的な形式なのかもしれないとも思う。スッドマーレ最上段はどうやら全て教会の所有物であるらしく、段の端には木で作られた簡易な柵が施されてあった。

「あの屋敷?」

 泊まるのは。元々そのためにここに来たので少し省略して尋ねてみたらば、しかしマクシミリアヌスはそこで「いや」と短く首を横に振った。

「ペシェチエーロのようにあそこに客用の宿泊施設は無いのでな。我々が泊まるのは――ほら、あれだ」

 指さされた先に洋風の建築物があるのに気がついた。八角形に描かれた直線を半分にぶった切った形をした、教会を擁する屋敷の先に急遽継ぎ足された延長線みたいな感じで、それより濃いこげ茶色の建物が樹木に囲まれてひっそりとその存在を主張している(スッドマーレではあまり木々を見かけないため、宿舎を囲む木々が何だか一瞬別なものに見えてしまって瞬きした)。
 教会本部では無いのだな、と思って内心こっそり安堵した。一時期その本部に部屋をあてがわれていたことがあるが悲しいかな豪華絢爛すぎて全く落ち着かなかった。

「昔に別の用途で使われていたんだが、戦争が終わって中身をごっそり改築したんだそうだ。何、外見はああだが、泊まる分には申し分ないぞ」
「“ああ”とは言ってくれるねぇ、君も」
「わあ」

 背後から唐突に飛んできた声に思わず一瞬びくりとした。宿舎の観察に夢中でそっちには全く意識を向けていなかった。相手が敵だったらちょっとやばい。
 振り返った先にいたのは、当然ながら敵ではなかった。
 丸襟のブラウスに襟元が大きく開いた、粛々とした黒いワンピースの女の人だ――。ワンピースの肩布のところに教会を表すシンボルアクセサリがつけられていた。一本の棒の中央部分に、中身をくりぬいた菱型がはめこまれている。教会の中央尖塔の屋根先についていたのと同じものだ。

「……いたのか、ルーナ」
「そりゃねぇ、君。仕事場だもの。いないはずが無かろうよ」

 バツが悪そうに頭を掻くマクシミリアヌスとは対照的に、ルーナと呼ばれた彼女の方は実に涼しげに肩なんか竦めて見せたりする。真佳は勿論、さくらよりも数センチはタッパのあるルーナさんがそうするとひどく自然的で格好が良い。女性にしては少々ハスキーな声質と、下の方でまとめられた綺麗な赤髪のお団子ヘアとがどこか中性的な彼女の雰囲気に一層拍車をかけていた。
「ルーナ・クレスターニさん。ここでシスターをされています。宿舎の雑用を賄うシスターの一人でもありますね」隣に並んで所在なくその場に突っ立っていた真佳とさくらの間から、ひょっこりと顔を出したペトルスが補足した。
 マクシミリアヌスに向けられていたルーナさんの笑顔がこっちを向いて一瞬間だけどきっとした。ペトルスの補足はひどく小さなものだったから、まさか聞こえていないとは思うけど……。

「ルーナ・クレスターニだ。君たちのことは僕も上から聞かされている。以後お見知りおきを」

 ……と言って、右手を差し出した彼女の態度はとても友好的なものだった。「あ……マナカ・アキカゼです」さくらと二人、自己紹介を交えながら握手に応じて、
 ……僕、
 と言われた音を心のなかで転がした。ボクっ娘だあ。知り合いにも一人いるけれど、こちらの世界にもいるのだなあとちょっと感慨深くなる。知り合いを思い出すので少し楽しい。

「君たちの部屋は二階にきちんと用意してあるよ。食事に関しても、我々ソウイル教会のシスターが担当するので安心したまえ。昼食は食べて来たのだよね?」
「ああ、まっこと美味な昼食であった。君も今度行ってみるといい」
 そう言うマクシミリアヌスの誘いにルーナさんは肩を竦めて苦笑して、「買い物する以外に下に降りる機会が無いからなあ。まあいいよ、いつか行ってみよう」荒く割られた鉄電気石みたいな黒目を軽く細めた。

 さばけた口調と砕けた態度が見ていてすっと気持ちがいい。シスターと言われて真っ先に思い浮かんだのは神に全てを捧げる粛々とした態度の清楚なお嬢様で、彼女みたいなタイプは良い意味で真佳の予想に無かった。現に首都で真佳の身の回りを世話してくれたお姉さん方は、そういった人が多かったし。

「ルーナさんがご飯作るんですか?」

 隣にペトルスとさくらの存在を感じながら遠慮がちに聞いてみた。彼女は「ん? 僕?」と言いながらその鉄電気石の目を真佳にくれて、

「いや、僕は掃除洗濯その他諸々。大事なお客様へのお料理は全て専属の料理人の仕事だからね。だから何が出てくるか、なんて心配はしなくていいよ」
「え、や、そんなつもりじゃ」
「ははは、分かっているとも」

 屈託なく笑われて、そこで初めて簡単にからかわれたのだと気がついた。初対面でまさかそんな反応を貰えるとは思ってなかったのでびっくりした。まあマクシミリアヌスも結構いい勝負してはいたんだけど。

「さ、立ち話もなんだから。
 ようこそ、スッドマーレへ」

 上品に揃えられた指の先で宿舎の入り口をを示してみせて、ルーナさんは颯爽と一歩身を引いた。



鉄電気石の彼女

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