濃ゆい海の匂いがした。
 潮の香りだと真佳は思った。海になんて行き慣れるほど通っていたわけではなかったが、何度かは嗅いだことがある。どうして“潮の香り”と言うのか、未だに真佳はよく分かっていなかったが。ただまあ原理なんか必要無いかとも思うのだ。緩くウェーブのかかった長い黒髪が、海のにおいと一緒に風で後方へ運ばれていくのを感じると。
 手に張り付いた石の欠片を払いながら立ち上がった。眼下に見下ろせる街の範囲が広まった。

「ここが」

 背後で野太い声がした。これまでの経験上まず間違いなくそいつは芝居染みた大仰な身振りで大きく喉を震わせて、

「スカッリアの港街、他国との貿易の拠点、スッドマーレである!!」

 声高らかに宣告した。


聖書/港街/トリアンゴロ



 海の幸と言えば何であろうかと秋風真佳は考える。魚類や貝類、エビやカニなどの甲殻類とか……あとは普通に海藻とか、あと時代が違えば鯨なんかもその一味であったのだっけ。この中のどれが一番美味しいかという問題は相当な争論になろうと思われるので深くは触れないようにして、とりあえずまず考えるべきは自分が何を一番食べてみたいか、というこの一点に限るだろう。
 フォークを咥えて相当悩む。
 フライは割りと好きだけど、焼き魚はあまり好きではない。貝類はアサリとかがいいかなあ。海老ならエビフライ辺りが相当好き。カニは嫌いでは無いけれど、どちらかというともっと食べやすい感じで出してくれたら――

「真佳」

 名前を呼ばれて顔を上げた。「ふぇ?」みたいな間抜けな声が真佳の喉元から飛び出した。

「……」

 ……無言である。名前を呼んでおいて失礼な……と思ったら、どうやらフォークを咥えたままメニューと睨めっこしていたのが行儀悪いと窘められていたらしい。この子のひと睨みにはついつい萎縮させられる……と、フォークを口から離しながらこっそり思った。さくらの言うことが全面的に正しいので何も言えないのだけれど。
 見てみると二人とも何を食べるかという点は既に決まっていたようだったので、「……じゃあ貝のパスタで」結局適当に決めることと相成った。「かしこまりました」と格式張った感じで言って給仕が下がる。貝ってこの世界では何が出てくるんだろう。まあ食べられなかったらさくらに食べてもらうともさ。
 スッドマーレ随一のレストランということで、真佳はここへ連れて来られていた。
 洒落た銀の腰掛けに真っ白にペイントされた柱郡、一面を繰り抜かれた壁の方角には青い青い海が見下ろせる――正しく港街のレストランと呼ぶに相応しい立地である。料理の方も美味いんだぞと言われたが、果たして教会のお偉方が食べていたような贅沢料理にすっかり慣れてしまった真佳が感動出来るかどうか……は、疑問である。真佳より長く教会にいるマクシミリアヌスが言うのなら、でも多少は期待出来るのか? いやいや、でも教会の人間と言っても軍人寄りだし、そもそもあまり料理の良し悪しについて考えながら食べている風には見えなかったような……と、恐ろしく失礼なことを思ってみる。
 給仕が下がったのを確かめるや否や、くだんのマクシミリアヌスがテーブルの上に片腕を乗っけて、ぐいとその身をこちら側に乗り出した。

「どうだ、初めての転移魔法は」

 あちらの方が転移魔法を初体験したみたいな、きらきら光る目で尋ねられた。緑色のビーズでも敷き詰められているんじゃないかと思うくらいの純朴なその視線に微妙に引き気味になりながら、

「……えーっと」

 ちょっと言葉を濁しもって

「酔った」

 さくらが片眉を持ち上げてこっちを見た。

「あれでもか」
「平衡感覚がごっちゃになるんだよ。乗り物に弱くなくても酔うよ」

 肩を竦めて応じてみる。まあその“乗り物に弱くない”さくらはちょっとふらついた程度だったそうだけど……。
 と、そこで三角形の一点が呵々大笑を閃かせた。髪と同じ茶のカストロ髭が、ライオンのたてがみみたいにぶるっと揺れる。

「いや、まあ、何――何度かやったら何れ慣れよう。最初は皆、慣れないものだ」
「マクシミリアヌスは慣れてるのね」
「ん、まあな、しょっちゅうというほどではないが、スッドマーレには公務で何度か足を運んでいる」

 さくらの問いかけに素直に答えて、マクシミリアヌスは頷いた。
 給仕の運んできたグラスに口をつけながら真佳は来た時のことを思い出す。スカッリア国の首都であるペシェチエーロとこのスッドマーレとは、転移魔術用魔術式で結ばれた数少ない土地の一つだった。首都と栄える港街とは行き来しやすければしやすいほど良いようで、何でも転移魔術式を国中に設置するに当たり真っ先に着手された場所らしい。完成したその時には盛大なセレモニーが開かれたとのことだった。
 転移魔術について、真佳は何も知らなかったがさくらの方は知っていた。同一の魔術師が同じ魔術式を二つの地点に描く術。同じ魔力・同じ式が刻まれたその地点にしか行き来は出来ないけれど、時間は一瞬だし便利ではあると思う。慣れれば。
 レモンに似た果汁を一滴垂らしたらしい水をこくりこくりと喉の奥に流しこみながら、くだんの魔術式を想起した。かなり複雑だったから多分十分の一も理解出来ていなかったけれど……ただ、やたら文字列が多かったのが印象深かった。話によると、どうやら転移魔術は人工的に作られた魔術であるからして、そういう具合になっているらしい。真佳が知っているのは基礎的な魔術式くらいで、そこには文章ではなく魔術記号が使われた。
 ペシェチエーロの魔術式は地下室にあり、スッドマーレの方は段々になった街の高場にある、海と街とを見下ろせる場所にあった。首都の方がやたら厳重に施錠されていたのは反逆者が突入してくるのを防ぐからであると想像しておくとして……、
 ……よくあんな複雑な魔術式を、一つのズレなく全く同一に描き出せるよなあ……。と、正円すらフリーハンドで描けないと怒られた真佳としては感心せざるを得ない。コピー機なら勿論そんなことは簡単なことなのだが、ここスカッリア国には残念ながらコピー機なんてものは無いんである。
 柳眉を少し寄せ、同じく冷水で唇を潤しながらさくらが聞いた。

「首都の治安部隊員がこっちにも飛んでくるのね」
「たまーにだぞ。何年かに一度あるか無いかだ。現にここ数年は仕事でこちらへは来ていない」
「オフでは?」
「そうさなあ……実家にもほとんど帰れていない有様だからなあ」

 ふうん、と右肩上がりの呼気を吐いただけでさくらはそれ以上追求するのを控えたようだった。単に興味が無いからかもしれない。さくらの考えていることは真佳にはよく分からない。
 目を伏せてグラスを傾けるさくらの方を盗み見た――髪と同じ茶色いまつ毛が重くのしかかって薄紅の頬に薄い影を落としている。海を背にして座っていなければ、この日差しの下、尚くっきりとそこに影を落としていたことだろう。水で湿らされた唇は淡い桃色に扇情的な光沢を加えられて何だかひどく濃艶だ。
 真佳の左隣に腰を下ろした姫風さくらという女子は、一言で言えば美人だった。それはもう同年代とは思えないほど。肩に触れるか触れないかのところで切り揃えられた茶色の髪に、透き通るような銀の双眸。日本人離れしたその容姿に好意を抱くものが後を絶たなかったのは未だ記憶に真新しい。ここは既に日本では無いのだけれど。いや、そもそも日本という国が存在しないわけなのだけど。
 こほん。
 対して真佳の右隣に座するのは、マクシミリアヌス・カッラという大男である。たてがみみたいに豪快に生やした顎髭と茶髪からライオンという印象が強いが、森か何かを想起させる深い緑色の双眸にはそういった野獣的なところは意外なことに見られない。豪放磊落なのは間違い無いけれど。
 そして残る一人。腰上までのウェーブのかった黒髪と、スカッリアでも中々珍しい部類に入るという赤目を備えた秋風真佳。一見アンバランスなこの三人が何故こんなところで三角形の一角を担っているかと言われると。

「男の人? 来るんだよね。ここに」

 グラスの汗を意味もなく拭いながら真佳は聞いた。マクシミリアヌスがグラスを口に運びながら、小さく頷く。

「ああ、そのはずだ。ここも首都ほど便利ではないからな。ルッソかコンティを連れて来ても良かったんだが、あまり首都の人間を動かしたくないと渋い顔をされた。全く、事は異世界人の護衛だというのに」

 なってないと言わんばかりにかりかりする。真佳は思わず苦笑した。まあ、真佳やさくらが大人しく首都にいてくれるのがお偉いさん方にとっても一番良いことだったろうし……仕方ない。
 異世界人。文字通り、異世界の人である。スカッリア国民から見て異世界から来た人間は皆総じてそう呼ばれる。真佳もさくらも、自分らより五百年も前にここへやってきた異世界人も。……そして多分、真佳らを元の世界に帰してやると申し出てくれたリック・ヴァードも、そういうことになるんだろう。
“異世界案内人”と名乗った彼が真佳らの前に現れてから六日経った。つまりあのパーティの後、彼の誘いを断ってから五日。その間首都から出る出ないだの、誰をお付きに付ける付けないだの、沢山のことを(主にさくらとマクシミリアヌスが)お偉いさん方と話をして、最終的に今の形に収まった。マクシミリアヌスの他にも、腕が立つと評判の人とか異世界人と聞いて目を爛々と輝かしてやって来た人たちが護衛候補に上がったのだが、気心が知れている少数の人間以外を選ぶ気は真佳には無かった(人見知りなので。それに大量に来られても動きづらい)。
 ようやっとここまで来たなと思う――ちらりと、自然に視線はさくらの挙動を追っていた。首都の外に出たがってやきもきしていたのはさくらの方だったので、あの間の彼女の焦燥は計り知れないものだったろう。
 改めて、異世界人というのはここでは凄まじい人気を誇っているのだなと考えて吐息する。あそこまで反対されたり策を講じられたりするとは思わなかった。ここでは首都の人たちほど自分たちの正体を知っている人間は多く無いのでそれだけが救いと言うべきか。

「代わりにこっちにいる間、付き添ってくれる人がいるんでしょ? じゃあいいじゃない」頬杖をつきながらさくらが言った。マクシミリアヌスが小さく呻る。
「うむ……しかし……いやまあ、そうさなあ、首都ほどではないにしろ、他国との繋がりが強いここも治安部隊員の腕前は中々のものと聞く。上手くいけば――」
「お待たせしました!」

 割って入った明るい声に思わず目をぱちくりさせて、
 ……ゆっくり後ろを振り返った。

「スカッリア国ペシェチエーロからいらした、ソウイル教会治安部隊隊員マクシミリアヌス・カッラ中佐と、マナカ・アキカゼさん、サクラ・ヒメカゼさんで御座いますね」

 ……淡い桃色の髪がまず見えた。
 太い黒縁眼鏡の奥で黒に近い緑目を無邪気に細めて、腕まくりしたワイシャツに膝丈のズボン、こちらの教会側の人間としてはかなりくずれた格好で、元いた世界で言うエナメルバッグを思い起こさせる皮のバッグを背中の後ろでぱかぱかさせて。

「スカッリア国スッドマーレのペトルス・ズッカリーニです。今日から数日、よろしくお願い致します」

 満足気に微笑ったその彼は、どう好意的に見積もっても――

「子どもではないか!!」

 がしゃんとテーブルを強く叩いて、マクシミリアヌスが突っ込んだ。
 後ろで料理を運んできていた給仕の人が、目を剥いて慌てて真佳のパスタを引っ込めた。

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