ブラッドオレンジジュースの酸味を舌で舐めた。甘みよりは酸味が強い。確かイタリアでは有名な飲み物じゃなかったっけ。味が同じかどうかは真佳には分からなかったけど。
 目を細めて、真佳は周囲を視線で舐めた。ルッソ、コンティ、マリピエロ、ダヴィドにさくらに――それから、マクシミリアヌス。たったこれだけの人間が、カッラ中佐の執務室に押し込められている。仕事が終わってから直行してきてくれたのだろう、治安部隊員の人間は全員かっちりした制服に身を包んでいる。ダヴィドは相変わらずよれた白衣を羽織ったまま、何で自分が呼ばれなきゃならんのだと言わんばかりの顔をして応接椅子に座り込んでいた。彼の目前には白ワインとチーズがある。ここで配られたものじゃなくて、ダヴィドが自分で持ってきたものだ。
 ルッソとコンティはさっきまでちょくちょく隣に来ていたけれど、今は応接机に並んだおつまみを摘んでいる(執務机には置けなかったので。本当に、何でこの部屋はこんなにエントロピーが異常値なんだ)。
 マリピエロはと言うと、まあ何となく予想はしていたもののさくら一人を口説いていた。万が一成功したとしてもこれから世界の壁に隔たれるというのにへこたれない奴……。ちょっと呆れる。
 銀色の双眸がたったの一瞬こっちを向いた。
 ……お見通しというわけか。コップを傾けた状態のまま固まってしまってから、苦笑混じりに視線を逸らした。さくらさんには敵わない。
 ……よし、それじゃ。当初の目的を達成しに行きますか――。


to be continued



「ごめんなさい」

 と真っ先に言った。相手が振り返る前にである。いやだって先に言っておかないと多分空気に流されて言えなくなってしまうから。
 振り向いたマクシミリアヌスが、ちょっと意外そうな顔をした。

「どうした急に」
「……いや、えー、だって昨日さー、ほら、かなり強引な感じでマクシミリアヌスの言い分をぶった切ってしまったから」
「……パーティ会場のことかと思ったぞ」
「……いやあのそれは、ごめんなさい。不可抗力です」

 視線を逸らしながら訥々と。あれに関しては真実不可抗力であったのだけど、変な具合に付け加えてしまったから言い訳みたいに見られたかもしれない。真佳は謝るのが苦手だ。咄嗟に謝罪が出てこないし改めて時を待っても言い出せない。だから変に捉えられてやしないかと一層のこと不安になる。そもそもあれからほぼ一日経ってるし。
 目の置き場が定まらなかったので、視軸をそのまま手元に下げた。
 話しかける前、思わずマクシミリアヌスの軍服の袖を掴んでいた。大きな手。これに撫でられると頭頂部をすっぽり覆い尽くされてしまうということを真佳は知っている。
 ――その、頭の上に何か置かれた。掴んでいるのとは逆の手だ――それに頭を撫でられた。マクシミリアヌスのため息が、塊になって降りてきた。

「……ずっとそれを考えとったのか」
「……はは」

 視線を逸らす。空笑いで返すしかない自分が情けない。
 空気の揺れる音がした。真佳の頭上、マクシミリアヌスの方向から。二度目のそれは……間違いでなければ、どうやら甘いため息である。

「ならば俺も謝ろう」

 ……目をぱちくりさせてしまった。

「俺もあまりに独善的だった。君たちが良いと言うのなら、快く送り出してやるべきだった」
「……え、いや。マクシミリアヌスは心配してくれたわけであって、」
「心配も過ぎればお節介にもなろう。俺はどうにもその加減が分からんでいかん」

 とかいうことをぶつぶつと。気にして、いたのだろうか。まああれは結構な欠点ではあったけども。
 ……少し、拍子抜けした。もうこれきり、金輪際溝は埋まるまいと思っていた。離れていくだろうと思っていた。
 ……人間って、思った以上に頑丈だ。

「……そうか」

 呟いた。小さな声だったから、多分マクシミリアヌスには届いていないだろう。マクシミリアヌスのぶつぶつ声が、段々と改善方法を模索する方向に進んでいるのに肩を竦めた。笑う。今度はちゃんと聞こえる声量で。

「――ありがとう」

「……? 何か礼を言わねばならないことでもあったか?」マクシミリアヌスにきょとんとした顔をされた。
 ふむ、まあ、強いて言うなら胸の内を見せてくれたことに。――ということにしておこうか。
 ああ、そうだ。胸中を口に出してくれたついでに、もう一つ聞きておきたいことがあった。

「ねー、マクシミリアヌス。折角許してもらったとこ悪いんだけど、私はもう一つ、貴方に聞かなければならないことがあります」と格式張った言い方で。「多分、キミは嫌な思いをするだろうけど」

 ……マクシミリアヌスはあからさまに眉を顰めた。
 その反応は正しい。実に正しい。けれど途中でやめる気にはならなかった。

「マクシミリアヌス。さくっと言うけど、私って強いよね?」
「……何を」

 やっぱり不機嫌そうな顔をした。大体予想はついていた。花崗岩みたいな顔面が、その一言で一層厳しさを増すだろうなということは。
 押し切ったからだけではない――唇をしめす。この一言は、マクシミリアヌスの深淵を割りとごっそり抉るものだ。

「聞きたかっただけ。結局あの時きちんとした返答は得られなかったから」
「……」

 瞳に宿る深淵が瞼に覆い隠された。不機嫌そうに唇の弧を曲げて、眉間には石刻で書かれた文字みたいに深く固いシワが寄せられている。
 手に持ったままだったジュースを再び舐めた。
 石のように黙りこくった相手を前に、しかも自分のせいであることが分かっていながら、真佳は悠々挙動する。真佳は人見知りではあるけれど、二つの例外においてのみそういった性質は鳴りを潜めた。一つ、相手との距離感を掴んだとき。二つ、相手の弱みを掴んだとき。

「……昔にな」

 硬すぎて飲み込めなかった言葉をそのまま吐き捨てたみたいな声で巨人は言った。視線は真横、真佳から見て右側にある窓の方を向いている。正確には、窓の向こうにある星空か。演習場に撒かれた砂が風に煽られてまた別の場所に運ばれた。
 窓ガラスに映り込んだマクシミリアヌスがそこで不意に目を細める。

「……死んでいった奴がいるのだ。それで」
「――死んでいった?」

 グラスを下げて反芻する。窓の外を見つめたまま、マクシミリアヌスがその首を一つ、縦に振った。

「……この国がまだ戦争をしていた頃のことだ」と、マクシミリアヌスは口にした。「あの頃はまだこれほど治安が良いわけではなく、また今ほど統率されているわけでもなかった。路上には埋葬されていない死骸が多く臥し――中には骨まで燃やされきらず捨て置かれた死骸もあった」

 好ましくないこと――なのだろうなということは、マクシミリアヌスの口振りから何となく知れた。ベルンハルドゥスやトゥッリオの亡骸を埋葬する段になったとき、この国では死体は骨まで燃やして神の元へ送るのだと説明してくれたのはマクシミリアヌスだ。きっと骨まで燃やさないと、彼らの言う神のみもとへは行けないのだろう。

「我々の戦士は勇敢だった。戦場に投じられたことを誇りに思いこそすれ、きっと恨んではいないだろう。しかし勇猛果敢であったがために、多くの人間が死んでいった。彼らは強い。いや、強かった。それは俺が保証する。だからこそ、かるがゆえに」

 多くの接続詞を適用しながら、マクシミリアヌスはそこでぎゅっと瞼を閉じた。
 ……その裏っかわに一体何を見ているのか、真佳には知るよしも無い。やがて開かれた森林は真っ直ぐ真佳を内包して。

「――彼らは、彼らほど強くないものを……守るために死んだのだ。自分たちは強いからと。自分たちは強いから大丈夫なのだと……そう言って、逝ったのだ……」

 ――そう言って大男は言葉を切った。遠くから聞こえるささやかなささめきが耳の裏側を仄かに叩いて消えていく。陶器の擦れる音がした。ワインの注がれる音がした。
「だからマナカ」と――マクシミリアヌスは口にする。

「自分の力を過信するでない。君は強い。確かに強い。故にこそ、君は己の力を過信し軽挙妄動に突っ走ってしまってはいかんのだ」

 ……釘を刺されたような気がした。
 ことわざのような意味ではなくて――そうではなくて、もっとこう……何と言ったらいいのだろう。
 ……多分、これは軛みたいなものだった。真佳の自由を束縛するもの。故にこそ生にしがみつかせてしまうもの。これは現実の――現実という地表と真佳の腹とを一緒くたに貫いた、紛うかたなき釘なのだ。
 ……喉を鳴らして唾液を呑んだ。
 やばいものを打たれてしまった。何てものを刺されてしまったのだ――焦る。何だかよく分からないが、やばいもののような感じがする。これからの、これまでの真佳の人生に多大なる影響を及ぼすような、それは大きな杭に思える。

「ヒメカゼさん」

 ビクッ、
 とした。
 肩を揺らめかしたまま振り返る。聞いたことのない男の声がさくらを呼んだ? 疑問は今舞い込んだばかりで、振り向いたのは完全なる条件反射だ。
 ドアのところに、肥えた体系の男がいた――赤髪に、灰色の目の。半分開けた扉の横に軍人みたいに屹立して、そこからコン、コン、コン、とノックをしている。ノックのタイミングが明らかに遅い。

「……? 誰ですか?」

 さくらが怪訝げな顔をして応答したが、そちらに歩み寄りはしなかった。多分行こうとしてもマリピエロが止めたけど。
 さくらの方はマリピエロに任せるとして――。真佳はもう一度視線を男の方に振り向ける。誰だろう? 何となく軍人みたいな挙動をしているように思えるが、どうやら治安部隊員ではないらしい。マクシミリアヌスらみたいな制服を着てはいない。でも多分、普段着を着ているわけでもない。
 丈の長い白いチュニックにフード付きの黒いマント――。そのマントのところには、ピンになった教会のシンボルが電灯の光を浴びて燦然と輝きを放っていた。

「……カルドゥッチ?」

 その名を呼んだのはマリピエロだった。カルドゥッチ――聞いたことの無い音だ。

「何しに来た?」

 低い声音で彼は続けた。
 今日、ここでささやかなる送別会が開かれることを知っているのは、ここにいる連中と、さくらが世話になったというガプサの人間だけのはず。元の世界に帰ることをお上に告げて引き止められたら厄介だし、それに“異世界案内人”のことを話すことで双方の世界に変な影響が出たら困るから。だからあまり吹聴しないように皆で決めた。また、こんな時間にマクシミリアヌスに用事があるとも思えない。
 ……。真っ先に飛び込んできた日本語を思い出す。
 真佳の正体を知っているのはまあいい。が、わざわざさくらを、日本語で指名して見せたということは――

「……」

 新客は呼吸を整えるように肩のところで息をして、それから一つ、長く細い息を吐いた。厚ぼったい瞼の下で鋭く周囲を一瞥して、

「……」はぁ、とそこで息を吐き「運命を伝えに来たんだよ」
「…………運命?」

 さくらの応答は乾いていた。
 ウンメイって……運命? なんというロマンティスト。ブラッドオレンジジュースを舌のところで転がしながら真佳はさくらへ視線を転じ、……て、気付いた。
 …………何で皆結構本気でぴりっとしたムード醸し出しているんです?

「……ボニファティウス・カルドゥッチ。この都市の運命鑑定士をしている。アンタらの世界で言う占星術師だな」

 言いながらさくらとボニファティウスの直線上から身を引いたマリピエロが意外だった。いやいやいや、占星術師って、まさかこの世界では、当たるのか? 当たっちゃうのか? 頬をひくしと引きつらせながら心の中だけで突っ込んだ。
 ……いやでも待てよ、もし本当に当たると言うのなら、それでさくらが異世界人であると突き止めた理由も、今日のこの時間この場所で何が行われるのかを知っていた理由にも説明がいく……気がしないでも。
 魔法――じゃない、魔術というものがあるのなら、そーゆーものがあっても可笑しくない……のか……な?
 ……さくらが短く吐息した。

「で、その運命鑑定士様が、一体私にどんな運命を告げに来たの?」
「あんたの両親に関してだ」
「――りょ、」

 彼女の表情がそこで変わった。実にあからさまに。
 マクシミリアヌスを振り仰ぐ。巨人はきょとんとした顔でこっちを見下ろしただけだった。彼に何らかの反応を期待したわけではないので当然か。ただ、まさかその言葉が出てくるとは思わなくて――誰かが彼に何かを言ったのではないかと、少し疑ってしまったのだ。ここにいる人間が彼女からその話を聞きだせる時間が無いことくらい分かっていたのに。
 桃色に熟れた唇を、さくらが湿らせたのを真佳は見た。

「……どういうこと? 両親のことって、」
「……信じる信じないの押し問答をする気は無い。俺は俺に掲示された内容をただ、あんたに伝えるだけだ。いいか。まず前提条件として、あんたの両親は殺されている(・・・・・・・・・・・・・)

 ――誰かが大きく息を呑んだ。誰かって、そんなのさくらしかいない。こんな顕著な反応を示す人なんて。
 視線をさくらに固定したまま、けれど意識は間違いなくボニファティウスの方を向いていることに気がついていた。ぼそぼそした不明瞭な話し方で、あっさりさくらの核心をついてきやがった。
 ……真佳の方も、唇をしめす。
 こちらは何の情報も与えていない。与えないように、その信頼性を確かめるために敢えて濁したさくらの言を、あっさり見抜いて逆に斬り込んできたんだから間違いない。
 ……唾を呑む。
 ということは、彼は、この男は……
 ほん、もの?

「俺に提示されたことを知ってもらった上で本題だ。あんた……」

 肉厚な瞼の非情な眼で真っ直ぐさくらを見据えて言う。運命鑑定士は、若しかしたら気付いているかもしれなかった。誰も気付いていないようだけれど、さくらの体が恐ろしいくらいに強張っているということに。

「……あんた、それに関しての情報を探しているんだろう。断言しよう。あんたの探しているものは、この世界(ここ)にある」
「ッ――」

 喉の奥側から漏れでたような悲鳴が空気中を揺らがしたような気がした。実際には音はしない。音はしなかったけども、それが彼女の心の叫びであることは予想がついた。

「――」

 震えた息が空気を撫でた。彼女の息が。心に飛び込んできたあまりに突然の宣告に、感情の全てを押し出すように。ゆっくりと、抑えるような吐息でもって。

「……サクラちゃん」

 この場で最も近しいところにあるマリピエロが、そこで漸くさくら本人に声をかけた。全員が衝撃を受けていた。だって皆知るはずがなかったんだ。彼女の親が随分前に死んでいることも――それが殺された故だということも。
 けれども運命鑑定士の言うことは――私ではなく、恐らくは彼らの中で――絶対だから。だから何も、きっと疑ってはいないだろう。
 息を吐き終えてから、暫くの間。死んだような無音の後
 俯けていた面(おもて)をさくらが上げた。
 そのまま頼りなげな視線でもって真っ直ぐこちらとまなこを合わせて、

「……真佳」

 呟くように、吐き出した。

「ごめん。
 私はまだ、帰れない」

 銀の瞳を層一層ぎらぎらさせて――
 執着のこもった語調でもって。
 ……月にも似た美麗な彼女は、濡れた声音でただ告げた。

 TOP 

inserted by FC2 system