送っていこうかという申し出を断って、一人でペシェチエーロから外に出てそこで待っていたヤコブスと二人、並んで帰った。外には元の世界とは比べ物にならない量の星が散っていた。随分時間が経ったと思ったのだが、さくらが教会本部に乗り込んでから実質二時間程しか経過してはいなかったらしい。人間の時間間隔というのはえらくいい加減に出来ている。
 カタリナもフゴも、トマスもグイドも全員広場に座ったまま、起きて待っていてくれていた。さくらの姿を見た途端皆一様に破顔してくれたのが嬉しくて、ついこちらも口元を綻ばせて応えてしまった。
 ……息を吐く。
 そこで、今夜あったことを全て話した。


シガレッタの夜



 チョコレートの甘い香りが鼻先を撫でたと思ったときには、ヤコブス・アルベルティはとっくにさくらの隣にいた。森の端、首都へと伸びる出入り口の一つである。ヤコブスらがいつも使う道であったためさくらもよく覚えていたし、だからしてヤコブスもすぐにさくらを見つけられたのだろうと思う。
 ……二人、隣り合った太い幹に背中を預けて暫し無言で前を見ていた。遠く向こうに首都の灯りが見える。魔術で生成した火だろうか。首都の辺りはいつも煌々とした灯りで満ちているのだなと、何となく思った。

「……悪かったな」

 ぼそりとした声でヤコブスが言った。

「何が?」
「明日の宴に巻き込んでしまった。明日の今頃にはあっちの方で送別会があるんだろう。貴様は無理矢理食物を詰め込むたちでは無いだろうが、負担になるのではないかと思った」

 言って煙草の煙を一吹きした。風に乗った甘い煙はさくらの側には立ち寄ることなく反対方面に向かって流れる。
 あっち、と言うのは多分教会本部のことを指しているのだろうなと考えながら、さくらは首を傾けた。茶髪が流れて唇の端に引っかかった。

「別に。そうやって別れを惜しんでくれるのは嬉しいし、有難い」

 そうか、とかいうような言葉が左側でもぞもぞと聞こえた気がしたが、気のせいだったかもしれない。どの道それは咥え煙草の不明瞭な声であろうから、さくらの耳にはちゃんとは聞こえて来なかっただろう。
 傾けていた首を戻した。幹のごりごりした感触が後頭部に当たって少し痛い。森の吐き出す空気はやっぱり少し肌寒い。
 遠くに見える星空に少しく視線を投げかけて、それからすぅっと口火を切った。

「明日の教会本部での送別会、もし良ければ貴方たちもと誘われているのだけれど」
「……?」

 戸惑ったような間があった。
 警戒していると言うよりは、何故自分たちが呼ばれるのか分からないといった風だった。

「……アンタらを誘った人間は、アンタらの正体を知らないのだけどね」

 種明かし。それでヤコブスは漸く得心したという顔をした。中途半端なところで硬直させていた指先で煙草を摘んで、それからため息を吐くみたいに一息。

「どうしてそれを俺に言った?」
「さあ? 強いて言うなら、答えが分かっているからこそアンタにああ言ったのかもね」

 唇の端で笑いながら言ってやった。煙草の一方を口先に引っ掛けたヤコブスが、眉間のシワを深くしたのを彫りの深い横顔の中に発見する。まばらに散らせた無精髭は最初に会ったときから伸びてもいないし剃られてもいない。
 他の連中は分からないが、ヤコブスなら来ないと断言するだろうと予想していた。
 教会本部での送別会のことである。何故なら彼には守るべきものがあるはずで、その守るべきもののためには最も警戒すべき相手の懐に入り込むわけにはいかないことを、さくらはきちんと理解していたからだ。もしその予想に反するようなら言いくるめてでも来させない用意は出来ていた。可能性は低いだろうと思っていたし、現にヤコブスはそんな阿呆は言い出さなかったが。
 甘い香りの副流煙が流れてきたのに気がついた。風の向きが少し変わった。

「おめでとうと言っておく」
「何が?」

 肩を竦めて聞き返す。ここは、森の中ほどには虫の声でごった返してはいなかった。それでも元の世界のあの都会の辺りほど、物静かというわけでは決してない。
 ヤコブスがちらりとこっちを見て、もう一度別の方向に視線を転じた。

「元の世界に帰れる当てが出来てだ。確定ではないが、可能性はあるんだろう。親や友人も喜ぶんじゃないか」
「さあね。友達は喜ぶかもしれない。親はいないけど」

 相手が軽く目を瞠ったのが目に見えた。夜とは言え三つも月が出ている状況で見逃す愚は犯さない。取りこぼしかけた煙草の端を掴み直しながら、ガプサの首領は小さく問うた。

「……いない?」
「そう。幼い頃に亡くなったの。代わりに育ててくれていた人の元も少し前に離れたから、今特に両親の代わりに喜ぶのは――……ああ、真佳の両親なら喜んでくれるかもしれないけど」

 同じくらいに、とは胸を張って言えないが。何しろさくらの母親はひどく涙腺の脆い人で、もし今あの人が生きていたなら、さくらが帰って来たと知るや否や涙が枯れるまで延々泣いて喜んでくれただろうから。

「……成る程な」
「何が」

 特に考えもせず気がついたら聞き返していた。
 ヤコブスの喉を濃い煙が通る呼気。

「アキカゼに関する以外のことで、貴様が焦る素振りを見せなかったから不思議に思っていたんだ」
「……焦って無かった?」
「無自覚か」

 そう言って解せなそうな顔をする。と、言われても、あの状況下でまず真佳の心配をしない方がどうがしてると――
 ……ああ、
 と思った。
 そういえば、彼らはまだ知らないんだった。この世界に来る直前、真佳が何に襲われて、一体どういう状況だったのかを。
 ――でもまあそれは、明日お別れを言う相手には関係の無いことになるんだろう。

「一応は帰りたいと思っていた、つもりなのだけどね」
「疑わしい」
「疑わしいって何だ」

 半眼で睨んだ先では痩身の男が星座に向かって最後の一吹きをかけていた。すっかり短くなった甘い煙草を土の上に放り投げ革靴の底で丹念に踏みにじる。煙と火とが見えなくなった。

「――元の世界に帰る手伝いを出来なくて、悪かったな」

 急な話題の転換だったが、これにもこの数日ですっかり慣れてしまったと思う。

「別に。それでなくても十分助けてもらったのだし。――ああ、そうだ。借りてたものを返さないと」

 上衣とか拳銃とか。あと今履いているグレーのスラックスとか……仕立屋のユリアさんに仕立ててもらった服はどうしよう。まだ出来上がってもいないと思うし、そのまま他の人間に売ってもらうより他無いか……。完全にさくらのサイズだけれど。

「いい」

 とヤコブスはまた言った。
 以前拳銃を返す段になったのと全く同じ返答だった。

「いいって」
「餞別だ。持って帰ってやるといい」
「……。あちらの私たちの国では、拳銃を許可無く所持することは出来ないのだけれど」
「弾倉も無い拳銃を“拳銃”として認められるわけがあるまい」

 それでついに閉口した。思った以上に、ヤコブスはこちらの世界の事情を知悉しているようだった。五百年前にやってきた異世界人が日本人だということは知っていたが、まさか銃刀法を知っていようとは。……銃刀法が公布・施行されたのは一九五八年のことで、五百年前には存在しなかったはずなのに(銃砲、刀剣の所持規制は一九一〇年には既に行われていたけれど、しかしこれも五百年前より未来のことである)。
 ……まあそれも、明日この世界を脱する者にとってはどうでもいいことではあるのだけれど。

「じゃあ貰っとく」
「ああ」

 樹木から背を離しながら首領は言った。月の光を反射して彼の額を飾るゴーグルが小さく煌めく。黄色いレンズのゴーグルは彼の金の双眸と相俟って、ヤコブスに実に似合う代物だとさくらは思う。

「……あちらの世界に行ってしまった後でさえ、君がガプサの仲間であることには変わりない」

 至極軽く言ってのけてから肩を竦めて――息を吐き、ここへ並んだ時と同じように彼は来た道を戻って帰ってしまった。相変わらず色々な物事が唐突だ。何も無いと思っていた木陰から急に飛び出してくる鳩みたい。
 照れ隠しかもしれないけど。
 ……ヤコブスにそれはあり得ないかな。
 少しだけ笑って、改めて後頭部を木の側面に宛てがった。遠くの方に首都が見える。あの光のどこかの中に真佳がいる。
 ……もうこんな光景を見ることは無いんだなと、何とはなしに考えた。

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