「……はい?」

 という言葉が漏れた気がする。
 異世界案内人。イセカイアンナイニン。異界を渡る? 望む世界に送り出す? ……これは何かの冗談だろうか?
 この男は一体……何者だ?


異邦人のセレツィオーネ



 ぱん、とさくらが机を叩いた音がした。と同時に立ち上がったのが真佳の側からも感じられる。机に手をついたまま、中腰の姿勢で


「……本気で言ってんの?」

 睨むようにそう問うた。リックと名乗った“異世界案内人”は笑ったまま、へこたれる風もなく左肩を竦めただけで睥睨が効いた素振りはまるで無い。随分度胸の据わった男だ。

「じゃあ逆に聞くが、なあ、こんだけのツワモノが揃っていながら、俺がこの部屋の、この位置まで入ってくるのに誰も気付かなかったのは何故だ? あんたらなら気付けたはずだろう?」

 ……目を細める。そう、その通り。真佳とマクシミリアヌスが揃っていて、誰かがやって来る気配を察知しないはずがない。それに入り口の辺りにはルッソとコンティもいるのだ。こんな男が部屋の奥に入るのを、まさか二人が許すはずもない。何よりリックの登場に一番驚いていたのはそのルッソとコンティだった。
 男は自分の米噛みに人差し指を押し当てて、にぃっと不敵に――口角をつり上げた。

「――簡単な話だ。俺が異界を渡ってきたからだよ」

 男の背後に目線を投げる。もしもこの男の言うことが正しいのであれば――。

「……黒い穴」

 口にする。リックの背後にぽっかり空いた、マクシミリアヌスさえ覆ってしまえそうな巨大な穴。――リックが大仰に頷いた。頷いて、軽く握った拳の甲でそいつを叩くような素振りをする。

「ご名答。これが異界を渡るのに必要な空間、異世界圏だ。世界を切り裂き空いた穴。俺もこいつを通ってここにきた」

 唾を呑む。
 男の言うことが正しいならば、それは確かにそうなのだろう。……異世界を渡る空間。家に、元の世界に帰れる方法。もしもそれが正しければ。
 マクシミリアヌスが半歩、横手にずれた。

「良かろう。君が異界から来たこと、仮に認めるとしよう。君も彼女らと同じ異世界人。そこまではいい。……で」

 そこで一旦言葉を切って、

「……一体何の用向きでここまで来た?」

 剣の柄には未だ手を触れぬまま、しかしその声色には、もしも害をなすものであるならば斬殺も辞さないとするあからさまな響きがあった。脅し、である。周囲の空気がちりちりと沸騰しそうな音を孕んで真佳の肌にまとわりつく。
 にも関わらず、それでも男は呵呵と笑った。

「用向きだ? 俺が言わずとも、あんたら理解してるだろう。不当に異界に飛ばされた女がいる、彼女らは元の世界に帰りたがってる、それを聞きつけた俺が今、ここまで馳せ参じた理由は何だ? 無論彼女らを元の世界に帰すための、」
「笑止!!」

 ……落ちた怒号に身体がびりっと振動した。……久しぶりに聞いた気がする。マクシミリアヌスの雷鳴を。金属質な耳鳴りに脳みそがキンキンしてきたので片手で耳を抑えてみたが効果は無かった。
 視線を上げる。すぐ傍に、マクシミリアヌスの背中があった。真佳らの存在を護るように。憤怒のオーラを立ち上らせつつ。

「……どこの誰とも知れぬ男に彼女らを任せるわけにはいくまい……」

 地を這うような、呻るような声音でもって巨人は言った。その横顔から野獣のような目が覗く。
 マクシミリアヌスの言い分は尤もだった。身分の明らかでない人間の、しかも“異世界案内人”とかいう怪しい肩書きを名乗る男をそう簡単に信用するわけにはいかない。異界を渡るということは、多分それなりにリスクを伴うものだ。異世界圏の存在から彼が異界を渡る術を本当に心得ているのだと納得はしても、そこから先は承認しかねる。確かに帰りたいとはずっと願っていたけども……。

「……少しいいかしら」

 熱気と殺気で膨張した空気の中を、冷然な一刃が貫いた。顎を持ち上げてそのまま後ろを仰いで見る。見慣れた顔が逆さになって、真っ直ぐリックを見つめていた。

「聞きつけたと言ったけれど、貴方はどうやって私たちが異界に飛ばされたことを知り得たの?」

 視線を戻す。
 リックがちょいと片眉を持ち上げた。

「……あんたらみたいに不可抗力で異界に落とされる人間が出ないよう、また出た場合にすぐ対応出来るよう、俺らは存在する世界を全て見張ってんだよ。だから分かった。ただ、世界の量は尋常じゃねぇもんであんたらを見つけるまでに相当時間を食っちまったが……」

 バツが悪そうに頭を書く。それは別にいいんだけどとさくらは事もなくうっちゃった。

「私たちみたいに異世界に飛ばされる例は、今までも存在してたのね?」
「昔はよくあった。神隠しと呼ばれて恐れられてたのは、ほとんどが予期せず空いた異世界圏に巻き込まれたせいだと考えてもらっていい」
「昔は……ね。最近はあまりそういう話は聞かないけれど」
「そりゃ、案内人が異世界圏を制御する術を得たからだ。あんたらみたいな特例を除いてな」

 人差し指をこちらに突きつけて男が言った。特例扱いか……。今頃元の世界では、神隠しに遭遇した女子高生二人として一躍有名人になっていたりするかもしれない。……少しだけ帰りたくなくなった。平穏無事な毎日が欲しい。

「……」

 さくらが、ちょっとだけ考えるみたいな間を置いたのが真佳には分かった。リックは飄々とした出で立ちでもって彼女の次の言葉を待ち、ルッソとコンティは執務机と入り口の間でどうしたものかと困惑顔をあちらこちらに巡らせている。マリピエロはもはや諦め顔で椅子に深く腰を下ろして寛いでくれているけれど、マクシミリアヌスの方はどうやらさっきから微動だにしていない。
 息を吐いた。

「“異世界案内人”って、一杯いるんだね」

 口を開いたのが真佳の方で、どうやらリックは少しびっくりしたらしかった。びっくりしたというか、意外そうにしたというか。

「組織だからな。異世界を渡れる人間と、数多世界の天才科学者を集めた秘密裏の団体だ」

 わざわざ身体の向きをこちらに変えて答えてくれた。案外生真面目な人である。
 顔を上げてさくらを見る。彼女はまだ考えこんでいた。長い睫毛が重たそうに伏せられて、彼女の両頬にぎざぎざした影を刻む。
 ……視線を戻した。案内人と目が合った。何か物言いたげな顔をしているのが何となく分かったが、真佳がそれを尋ねるより先にさくらの方が声をあげた。

「……分かった。元の世界に帰ります」
「サクラ!!」

 振り絞られたマクシミリアヌスの言葉をさくらが黙って手で制す。多分、そうくると思っていた。さくらの言葉もマクシミリアヌスの反応も。後者についてはさくらの方も想定済みだったに違いない。

「――誤解しないで欲しいんだけど、彼を信じたわけじゃないのよ。異界を渡る術を持っていたって、元の世界に必ず帰してもらえる保証は無いのは理解してる。その上で乗るの。私と真佳ならどんな世界でも生き延びられると確信するから」
「そんな、」

 笑った。
 言を紡ぎかけたマクシミリアヌスが、中途で切ってこちらに怪訝げな視線を向ける。だから構わず真佳はそいつを舌に乗せた。

「まるで私がキミと行くことを確信しているよーな言い方だね」
「来ないという選択肢があるの?」
「ない」

 即答。全くこの子は、なんてナチュラルにこちらを信じてくれるのだろう。だからこそ、真佳の方も全て懸けられるし任せられる。

「ちょ、ちょっと待て、君たちはそれで納得しているようだが、事態はそれより深刻なのだぞ! 仮にこいつが本当に案内人だとしても、案内人は複数いると言っておったではないか! それは仲間がいるということだ、全員に待ち伏せされて襲われたらたちどころも、」
「マクシミリアヌス」

 未だ臨戦態勢を解かない巨人の双眸を真佳は真正面から見据えて呼んだ。森を濃縮したような目をしている。深みのある、包容力と生命力に溢れた目。
 ――不敵に笑って口を開いた。

「マクシミリアヌス。私、強いよね?」

 ……マクシミリアヌスが呆然としたような顔をした。

「……何を言っておるんだ君は」
「強いよね?と。何があっても、さくらと私を護れるだけの力はあるよね?」
「……」
「実際問題、私って強いよね?」

 ……太息を吐き捨てられた。何だか一気に疲れに襲われたみたいだ。敵意に満ち満ちて張り裂けんばかりだった空気感もそれで一挙に無に帰した。

「――分かった。好きにするがいい」

 倦怠感溢れた物言いで。
 言い負かされたというよりは、多分諦めたというのに近かった。
  ……少し無理矢理すぎた……かもしれない。安心させるために言ったつもりなんだけど、どうやら、というか多分、これは……。でもこれ以外に手っ取り早く引いてもらう手段が無かったのだから、仕方がない。
 ……仕方がない。

 マクシミリアヌスがどっかと応接椅子に腰掛けたのを動因として、さくらが短く言を紡いだ。

「で」

 真っ直ぐ案内人の方に視線をやって、

「こういうことになったのだけど」
「……お。あー、ああ」

 何故だか少し拍子抜けしたみたいに男が言って、ぐるりを見回すような間があった。

「……。――ま、あんたら全員が納得したってんならいいけどよ」

 などと頭を掻きながら。有無を言わせぬような迫力で帰らせてやると豪語しておいてよく言うよ。……うん? いや、というか、今すぐでないと帰らせないとは一言も言っていないのだから、時間をくれと持ちかけたら猶予くらいくれたんじゃないだろうか? 今更だけど。

「出立はいつにする? いつでもいいぜ。俺ぁあんたらに合わせるよ」
「……一日欲しい。こっちでお世話になった知人に、せめて挨拶がしたいから」

 それが一体誰のことを指しているのかということはすぐに分かった。真佳はまだ会ったことは無いけれど、きっと大層お世話になったのだろう。彼女がそう言うのなら、真佳もそれでいいと思う。
 さくらは一日欲しいと言った。では真佳の方は――

「……」

 ちらり、
 と視線を前面に投げた。ソファの上にマクシミリアヌスが座っている。腕を組んで目を閉じて、川の流れに逆らう石巌のようにそこにいる。
 それまでそっぽを向いていたマリピエロが手を叩いた。

「よし、じゃあ送別会を開こうじゃねぇか」
「送別会?」

 びっくりして反芻する。まさか思考を読み取られたわけでもあるまいが。

「そ。そこのおっさんの話じゃ、アンタらはいつでも帰れる状態にあるんだろう? なら、アンタらの正体を最初から知ってた少人数で集まって、非公式の送別会を開いたっていいじゃねぇか」

 そこで一旦言葉を切って、その場の全員を順々に見渡していた視線をさくら一人に固定した。フランクな感じに片肩だけを竦めて見せて、ニカッと笑ってウインク一つ。

「一日その“恩人”に会いに行くんなら、その晩にでも。可能ならその“恩人”も連れてくればいい。皆で最後の夜を楽しもうじゃねぇか。なあ?」

 ……真佳の心中を察して計画してくれたわけでは無いだろうけど、でもこの提案は真佳にとっては喜ばしいことだった。真佳だってさくらみたいに、お世話になった人たちに感謝の意を伝えたいと思っていなかったわけではないので。
 それに、少し話をすべきだとも思っていた。
 さくらと顔を見合わせて、「……まあ、いいけど」戸惑い気味に視線を泳がせ言った彼女に思わず吐息。

「じゃあ明日の晩。場所はここでいーの?」
「まあいいだろう。お偉方には内密にしたいが、まさかこんなところでパーティを開くとも思うまい」
「……ここは俺の部屋なんだが」
「固ぇこと言うなよおっさん」

 ……“ここ”、と言うのは教会本部のことで、別にマクシミリアヌスの執務室を指定したわけでは無かったのだけど……。マクシミリアヌスの尤もな言い分を微妙に申し訳ない気持ちで見守っていると、マクシミリアヌスが不意に視線をこっちにやった。

「……、えーと」

 びくっとして適当な言葉を紡いでしまった。
 マクシミリアヌスの方はそれに関して思うことは無かったようで、ただ視線を外してから「……まあ、良かろう」了承の言葉を口にした。マリピエロがやったな!とでも言いたげに眩しい笑顔を向けてきたが私は何もしていない。

「じゃあ明日。準備は俺とおっさんに任せておけば問題ねぇ。あ、あとルッソとコンティ! お前らにも働いてもらうからな!」

 ソファの背もたれ越しに投げかけられた命令に、ルッソもコンティも一瞬ぽかんという顔をした後、

「は、……はっ!」

 とりあえず返事をしたようだった。でもこの状況にちゃんと付いていけていないのは真佳の目からしても明白だ。それは多分リックの方も同じだけれど。

 リック・ヴァードに視線を投げる。髪の生え際の方をこりこり掻きながら、寄せた眉の下、彼はサングラス越しにこっちを見ていた。

「……そーゆーことになりました」

 報告。
 リックはぱりぽりと相変わらず後退した白髪を掻いたまま、何だか難しい顔をして、

「類が友を呼ぶことが本当にあるもんだな」

 多分非常に不名誉な称号を与えてくれた。嬉しくない。

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