「久しかったから」

 と彼は独白した。

「“生きていてほしい”、なんて――久しく誰かに言われたことなんて無かったんだ。最後に言われたのは誰にだったかな。母親だったかもしれない」

 長い足をディヴァーノ・クッシーノ(クッションソファ)から投げ出した。クッシーノ(クッション)の中でポルベーレ・ペルリーネ(パウダービーズ)が微かに擦れる音がした。
「だからね」と彼は言う。

「殺したくないと思ったんだ、お姉さん」

 ……なんて。
 これは彼自身の心情ではなくて、別の少年の独白だけれど。
 クッシーノ(クッション)に手をついた。シャン、とペルリーネ(ビーズ)がまた鳴った。“神の遣い”は密に笑む。

「……神の名を騙ったね、デ・マッキ枢機卿――」


来訪者、来る



 パタン、
 と、扉が閉められる音が密かにした。とても軽い音だったけれど、静まり返ったこの部屋にはよく響く。視線を上げるとそこには大男が立っていた。濃い顎髭と樹林の如き緑の目をした大男が。
 目が合った。
 ……ゆっくりと、首を横に振られた。

「駄目だな。トゥッリオ・パンツェッタもベルンハルドゥス・コッラディーニも、双方共に即死の状態だった。……紛れもなく死んでたよ。あれはもう息をしとらん」

 ……息を、
 吐いた。
 ソファの背もたれに深く背を預けると、安っぽい合成皮革がうなじに吸い付く感触がする。……何となく、頭の位置を変える気にはなれなかった。
 ――マクシミリアヌスの執務室は、相変わらずエントロピーの割合がとても高い。そんな中に六人もの人間が入り浸っているとなると、それはもう息が苦しくなるほどの密集具合だ。真佳の隣ではさくらが目を伏せ視軸をどこかに固定したままぴくりともせず、斜向かいに座ったマリピエロは貧乏揺すりで左足を動かしながら苛立たしげにぱっぱと煙草を吸っている。彼の目の前に置かれた灰皿には、もう随分と煙草の吸殻が溜まっていた。
 応接スペースのソファに座っていないのは三人。今さっき入ってきたばかりのこの部屋の主と、彼の直属の部下、ルッソとコンティの二人である。……応接スペースに置かれたソファは全部で四つ。最後の一個は序列順というか何というかで、自然とマクシミリアヌスに割り当てられたようだった。彼には彼専用の執務椅子があるのだが、そちらに座られると脇に積まれたダンボールが邪魔であまりに話しづらいのだ。

「死体は」

 マリピエロが短く聞いた。

「火葬に処されることになった。念のため、医術士が彼らの死体を調べるそうだ。見送りはそれからになるだろう」
「玄関ホール……は」
「ああ、二等兵の連中が掃除しとるよ。そちらもすぐに片付くだろう」

 片付く、という言葉にちくりとした。自分から尋ねておきながら、どうやら自分はあの痕跡が消えることをそれほど望んでいなかったのだと気がついた。血を吸った絨毯は血を吸った絨毯のまま、それなら誰も忘れない。彼らが生きていたことも、彼らが紡いだ一言一句も。
 この世界の火葬とは、真佳らのいた世界のそれとは違うと聞いた。真佳らのいた世界での火葬は骨を残すが、こちらでは骨も肉も全て燃やす。燃やしきることで魂が太陽神のお膝元に舞い上がるというのだ。天に昇る煙と同じように。……でもそれは、ちょっと寂しいことだと真佳は思う。
 マリピエロが大きく嘆息した。

「結局、奴の動機は分からずじまいか」
「俺も聞けるものなら聞いておきたかったが仕方あるまい。まあ、あまり言いたくはなかったが、異世界人というだけで敵視する連中も全くいないわけではない世の中だ。彼もその部類と考えるのが妥当だろう。まこと嘆かわしい限りだが」

 ……いや、
 と真佳は思った。
 ベルンハルドゥスのあれは、多分マクシミリアヌスが言うような類の話ではない。
“殺し屋ではない自分が真佳を殺害するのは神の真意ではない”、と彼は言った。自分で考えて事を起こしたのであればこれは少し不自然だ。どちらかというと、“殺し屋に殺させろ”と言われたのを忠実に守っているように真佳には見えた。
 おまけにあの目――。透き通っていてしなやかで、天衣無縫で慈愛にあふれた――彼の瞳が指し示したあの感情は、
 ――信仰、というものではなかっただろうか?

「ともあれ」

 灰皿の底に煙草の端を押し付けながら、マリピエロが口火を切った。

「これで事件は一件落着。殺し屋の依頼人が判明したんだ。マナカにかけられた警戒態勢も直に解かれるだろう。サクラちゃんは実にお手柄」

 言って准尉はにこりと笑う。……さくらだけ“ちゃん付け”だし、浮かべた笑顔も微妙に媚びているような……気がするのは、多分真佳の気のせいではない。色ボケ准尉め……。口の中で悪態をつく。

「……まあ、その件は落着でいいとして」

 目を伏せてじっとローテーブルの天板を睨んでいたさくらがぽつりとそう呟いて、顔を上げた。

「どうするの? 真佳が異世界人だってこと、結構な人間に聞かれたけど」
「……あー……」

 まだ考えたくなかったなあみたいなか細い声でマリピエロが視線をふよっと泳がせた。マクシミリアヌスの肩越しで、ルッソとコンティが微苦笑にも似た顔をした。
 全くさくらの言う通り。ソウイル教会本部中央、往来の多い玄関ホールにて、真佳の正体はベルンハルドゥス・コッラディーニの声を介してその場にいた全ての人間に聞かれてしまったわけである。トゥッリオが(マクシミリアヌスの知人ということになっていた)真佳を狙っているのは治安部隊員なら全員知っていることだし、これはもう言い逃れが出来る類の話ではないのだ。さいあく、隊員を通して町の住人にも知らされる。

「若しかしたら真佳だけじゃなく私の正体も知られたかもしれないしね。思いっきり日本語で話しちゃってたし」
「ああ、いや、それはまだ大丈夫だろう。日本語を好んで使う民族も存在しないわけではないし、寧ろ日本語しか使わん民族もいる。首都でとなると珍しい部類だが、彼らも否定は出来んだろう」
「異世界人が二人も、なーんて事実よりはよっぽど信じやすいだろうな」

 マクシミリアヌスとマリピエロの言明に、さくらは肩を竦めて「そう」と言った。絶体絶命なのが真佳一人に決定した。絶望的なことに。……絶望的なことに。

「うわあああどうしよおおおお」
「お、落ち着け。何も周りだって取って食おうとしはしねぇよ!」
「さっきマクシミリアヌスが、異世界人ってだけで敵視する連中いるって言った」
「……おっさああああん!!」

 マリピエロが思いっきり拳で机を殴る音を聞いた気がした。膝の上で頭を抱えていたので現場を目撃は出来なかったけれど。
 ……マクシミリアヌスが息を吐いた。

「一先ず、君が異世界から来たことは公的に発表せねばならんだろうな」
「ぐうう……」

 やっぱりそうくるかと小さく呻く。

「……そう心配するな。今後このようなことが起きぬよう、我々がしっかり君を護衛する。ソウイル神に誓ってだ。もう二度と、危険な目には合わせんさ」

 言って、マクシミリアヌスは彫りの深い目元を優しく緩めた……が、真佳が心配しているのはそちらではない。異世界人だということが発表されるということは、つまり周囲の好奇な視線が四六時中つきまとうということだ。……憂鬱。目元を覆って天を仰いだ。
 前方でソファが軋む音。指の隙間からマクシミリアヌスを盗み見る。

「その後、引き続きマナカにはここにいてもらうことになる……。もう正体を隠す必要は無いわけだからな、希望があればもっと上の部屋を用意出来るだろう。……まあ、それも君がここに残りたいと言ってくれればの話だが」

 組んだ手を組み替えながら、どことなく不服そうとも取れる声色で紡がれた言に瞠目する。
 ……意思を尊重してくれるわけか。
 マクシミリアヌスにしては珍しい。真佳のよく知る彼であれば、真佳が残ることが最善であると疑わぬまま突っ走りそうなものなのに。
 顔を覆った手はそのままに、左方向に目線をシフト。さくらの横顔が美しい曲線を描いているのにぶっつかった。

「……さくらはどうするの?」
「……」彼女はちらりと警戒するようにマリピエロの方を見て、「あそこに帰る。……かな」
「そっか」

 だろうなとは思っていた。薄々。……さくらがいなくなることを彼らが悲しむと言うのなら、元の世界に帰れる日が来るまでは共にいることで彼らの恩義に報いよう――とは、さくらなんかが口にしそうな言葉である。それから多分、ガプサ側と教会側、二手に別れていた方が元の世界に帰る方法が見つかりやすくなるのでは――なんて算段も、きっと入っているのだろう。
 ならば真佳にとっての正解は、ここに留まることを選ぶこと、になるわけだが……。
 …………、深く吐息。

「……じゃあ、私は――」
「ちょおっと待った!」

 ……突然鳴り響いた第三者の声に目を瞠った。野太い男の声。けれどマクシミリアヌスのそれとは違う。決定的に違っている。……誰かが近づいてくる気配なんて無かったのに?
 声の正体はすぐそこだった。応接スペースから数メートル離れた先――ダンボールの壁が調度良く途切れたところにその男は立っていた。……短く刈った白髪に口元を覆う白い髭。白髪が随分後退していて額が広く見えていることから多分それなりの年なのだろうが、サングラスで覆い隠された目元からは正確な年齢は割り出せない。
 真っ白な、恐らくランニングシャツであろうものの上から海の色をしたシャツを羽織り、黄土色したズボンを履いた――その風采は、どちらかというと真佳らの元いた世界で見かけるそれに近かった。日に焼けた褐色の肌を見るに、今の今まで南の島に観光に行ってた呑気なおじさんと言われても通用しそうな風である。
 一挙にして視線の放列を浴びた彼は、しかしそれに臆した風もなくがしがしと首裏付近の後頭部を掻きながら、「そういう話はちょっと待ってくんねぇかなぁ」とさっきと同じようなことを言う。ぼやくように呟くように。
 ……佇立する男の真後ろが、黒く落ち窪んでいることに気がついた。深い穴でも空いてでもいるようにぽっかりと。中空に穴なんか空くわけないのに。

「……何者だ」

 立ち上がりながらマクシミリアヌスが静かに問うた。大剣の柄に手は添えられていない。が、いつでも応戦出来るよう身構えていることは身にまとう空気感から容易に分かった。
 こうしてマクシミリアヌスと対峙しているのを見て改めて実感するが、白髪の男もかなりの巨漢である。簡単に見積もって百九十センチ前後といったところか。巨漢二人が向き合う様はまるで山二つが聳立するのを見上げているかのようである。
 男が頭を掻く手を止めた。冗談めかして両手を挙げて、多分降参の意で肩を竦める。

「リック・ヴァード。……っつってもまあ、名前なんてものは今のあんたらにとっちゃ何の意味も無ぇだろう。簡潔に職業だけ言わせてもらおう」

 言いながら彼は持ち上げていた両手を下げた。……外国の映画に出てくる外国人みたいなリアクションをする人だ。どことなく胡散臭くて馬鹿らしくて、だからこそすんなりと人の心に入り込む……。
 立てた親指でもって彼は自身の胸を指す。不敵に不遜にその片頬を持ち上げて、

「俺ぁ“異世界案内人”。人を望んだ異界に送る、歴としたナビゲーターよ」

 ……意味不明なことを宣った。

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